10.エトヴァス
エトヴァスはそっとアリスをソファーに横たえる。
「眠っちゃったわね」
フレイヤはソファーで眠ってしまったアリスを見て、柔らかに微笑んだ。だがこの平穏がどれだけ続くか、エトヴァスはその寝顔を眺めて嘆息する。
9時を過ぎると、寝付きの良いアリスはすぐにうとうとしだし、気づけば眠っていた。
エトヴァスはアリスを毎日決まった時間に起こすので、あまり夜遅くまで起きていられない。だからエトヴァスからしてみれば規定の時間だった。
エトヴァスは隣から毛布を持ってきて、アリスの体にかける。今日は多くのことがあったから疲れているのだろう。
「で、さっきの話はなんなんだい?」
バルドルがエトヴァスに尋ねてくる。
「さっき?」
どれだろうとエトヴァスが首をひねると、彼は「クイクルムの話だよ」と早口で言った。
要塞都市をエトヴァスが滅ぼすという話だろう。その話をあらかじめしておくために、エトヴァスは面倒だというのに将軍会議に来たし、バルドルをこの屋敷に呼んだのだ。
「待てばわかる」
エトヴァスはそう言って、バルドルに席に着くように促す。バルドルは気分を害したようだった。だがフレイヤはというとアリスの側に寄っていき、ソファーの傍に座り込んで寝顔を眺める。
「かわいいわよね」
「やらんぞ」
「知ってるわよ」
フレイヤは別のソファーに腰を下ろして、ため息をついた。ただ彼女の碧眼にはアリスへの恐怖と僅かな嫌悪感が透けて見えていた。エトヴァスがそれを観察していると、バルドルがため息交じりに口を開いた。
「君は純血の魔族だから仕方ないが、もう少し子供には配慮してあげたほうがいい。人間は決して精神的に強くない。クイクルムの話もそうだが、あまりこの子の前でしない方が良い」
バルドルは、なんだかんだと面倒見が良い。アリスを守るべき小さな「子供」にしか見えないのだろう。
穏健派の筆頭でもある彼は人間との混血のせいか情緒豊かで、同時に人の感情に対して細やかな配慮をする。そのため混血児や若い魔族からは頼りにされており、一番勢いのある将軍だった。
魔族の価値観では強さがすべてだが、バルドルは魔王オーディンの息子で将軍のなかでもエトヴァス、ロキと並んであげられるほど強い。領地経営もうまく、将軍のなかで恐らく一番豊かだ。
そういう情報は知っている。ただエトヴァスとしてはどうでもいい。
「そのお説教はあとで聞きたい」
遠回しに待てとエトヴァスは言って、ソファーの肘掛けに頬杖をつく。
確かにエトヴァスは動機こそ食欲故だが、恋人関係より、アリスに手をかけている自信はある。暇な時間をほとんどアリスにかけているくらいだ。長命なので別にそれでいいのだが、良いと思えるのはエトヴァスが感情の起伏に乏しい純血の魔族だからだ。
だから動機はともかくアリスに配慮しろというお説教は、少なくともこの話が終わったあとにしてほしかった。
「いつまで待てと?」
バルドルはエトヴァスをうんざりとした様子で睨んでくる。
寿命が長いくせにせっかちなのは、本当に混血児らしいとエトヴァスは思う。だが口には出さない。話が終わるまでは、彼に帰ってもらっては困るのだ。
「長くて二時間、短くて十分だな」
「・・・なによその曖昧で明確な時間」
フレイヤがその柳眉をひそめる。
そうは言われても時間は時によりまちまちなので、エトヴァスはソファーで眠るアリスに視線を向けた。アリスはその柔らかな唇から、すよすよと規則的で穏やかな寝息を漏らしている。
寝付きは良く、寝起きは悪い。
捕食者であるエトヴァスの隣でもぐっすりと眠れるほど図太い神経を持つアリスだが、その穏やかな眠りは三十分ももたなかった。
ひうっと喉が鳴る、変な音がする。
「っあ、あ、あ、」
ソファーの上で寝ていたアリスが跳ね起き、宙を見てぶるぶると震え出す。大きくていつもめいっぱいの感情を称える紫色の瞳が空虚な色しかたたえていない。
「え・・・?」
フレイヤが突然の事態に驚き、あまりに異常なアリスの様子に戸惑いの声を上げる。バルドルも琥珀色の瞳を丸くしてアリスを見ている。
だがエトヴァスからしてみれば、これはまったくはじめての事態ではない。むしろ毎晩なのでまたはじまったなとしか思わない。それほどここのところ慣れてしまった。
エトヴァスは呆然とした面持ちで擦れた声を上げるアリスのもとまで歩み寄る。
「アリス」
名前を呼ぶと、擦れた声を上げ怯えるように、そして自分を庇うように震える手を前に出す。エトヴァスがソファーに腰を下ろし、その手を掴むと小さな悲鳴を上げた。
「アリス」
空虚な瞳に呼びかける。反応がない。紫色の瞳には涙がいっぱいたまっている。唇が何かを呟く。いつも同じだ。
「おいて、いかな、すて、な、」
ぼうっとした瞳が潤み、目尻からぼろぼろと涙がこぼれる。おいていかないで、すてないで、わたしをすてないで。
アリスがいつも呟く言葉は一緒だ。
アリスが母の手で要塞都市の一室において行かれたとき、幼すぎて何もわからなかっただろう。なにも、言えなかったはずだ。
その部屋から魔族に差し出すためにと人間の手で引きずり出されたとき、長らく幽閉され、眠らされていたアリスは身体機能が弱り切っていて、まともに声が出なかった。だからアリスが自分の声で捨てないでと訴えられなかったはずだ。
それを思い出し、繰り返しその事実を拒絶するように、アリスは捨てないで、置いていかないでと泣く。言えなかった言葉を必死に口にし、何度も思い出す。魘される。そして自分がおいていかれた、捨てられたのだと理解する。思い知る。
アリスはヴァラのもとで要塞都市クイクルムの対魔族結界の動力源だったと知ってから、母親が自分を置いていったと、人間が都市を守るために自分を見捨てたと認識してから、夜中にこうして何度も飛び起きる。
「俺はおまえを捨てない」
エトヴァスは小さな抵抗を見せる細い体を無理矢理強く抱き込み、言う。
「おちつけ、」
耳元で、はっきりと告げる。するとやっと現実を思い出すのか、そっとエトヴァスの肩に自分の頬を預けてくる。そして、肩に頬をすり寄せるように、すがるように小さな手がエトヴァスの背中のシャツをぎゅっと掴む。
「すて、ない、わたしは、」
熱に浮かされたような声だ。まだぼんやりとしたまま、呟いている。
「捨てない。捨てられない。だから大丈夫だ」
強く抱き込んだまま、アリスの背中を優しく規則的に叩く。またエトヴァスが言ったことを復唱するように、捨てない、捨てられないとアリスが同じ事を呟く。エトヴァスは震える小さな体を強く抱きしめたまま、また背中を叩く。
何度も、何十回も、それを繰り返す。アリスの体の力が抜け、眠るまで、そうやってアリスを宥めるのだ。下手をすれば何時間もかかる。宥めても、また数十分後に跳ね起きることもある。だからあまりに長引くならこのままアリスの血肉を奪ってしまう。アリスがそれを望むからだ。
アリスは魘されると自分が食糧であることを望む。エトヴァスの食糧である限り、エトヴァスがアリスを捨てない、守ると知っているからだ。その方がアリスも早く寝つくし長く眠る。
ただ一晩に何度もそんなことをしていて彼女の体調に良いわけがない。
「これが毎晩、何回もだ。俺が、クイクルムを滅ぼしたくなる理由が、わかるだろう」
エトヴァスはバルドルに向けて口を開いた。その頃にはアリスが言葉を呟くのをやめ、うとうとしはじめていた。
バルドルの口からは、なんの言葉も出てこなかった。
エトヴァスが毎晩繰り返すこの行為の重みを、人間と魔族の間の子であり、豊かな情感のあるバルドルの方がずっとよく理解できるはずだ。
魔族であるエトヴァスは、もともと決まった時間に起きたり寝たりする習慣がない。
魔族の体力、筋力は人間などより遙かに優れている。だからアリスを何時間も抱いて、こうして背中を叩いていても疲れたりすることはない。もともと感情の起伏も乏しいので、毎晩何度もこういうことがあってもまたかとうんざりすることもない。
だがきっと魔族以外では、精神的にも身体的にもこうはいかないだろう。ヴァラのところから戻って既に数ヶ月、毎晩この調子だ。
バルドルとフレイヤはふたりともアリスへの同情なのか、言葉がないようだった。
ただこの状況を見れば、いつもは明るいアリスが心にどれほど大きな傷を負ったかがわかるだろう。
アリスは、別に人間も要塞都市のクイクルムも憎んでいない。だがあの都市が存在し続ける限り、きっとあの都市はアリスを苛み続ける。
だから数ヶ月前は一種の可能性としてアリスに語った要塞都市クイクルムの攻略を、エトヴァスは現実のものにするつもりだった。
あの都市は、アリスのためにいらない。
「・・・一体、その子はクイクルムでどんな扱いを受けていたんだ」
バルドルが整った眉を寄せ、エトヴァスに確認する。
「さぁな。だが俺のところに来たときには声も出さえない。歩けもしない。薄汚れてガリガリだった」
「だから、人間なのに同族に魔族の食糧に差し出されたのか。・・・道理で君に何の不満もないわけだ」
バルドルとて、今日、アリスとロキのやりとりを聞いている。
『わたし、今のままで、いいよ』
アリスは今のままで良いとロキに主張した。
一生エトヴァスに血肉を食われ、行動を制限される。エトヴァスはアリスが何かを望めば無視はしないし、対策はとるが、人間の豊かな感情など理解しない。理解できない。それでもアリスは無視せず、手を伸ばしてくれるだけでそれでいいと言った。
アリスがそう思えるのは、以前の生活よりエトヴァスとの生活がましだからだ。
そして、そのあまりに酷い以前の生活に、自分が受けた行いに傷ついていないはずもない。
どれほど人間という生きものが精神的に弱いか、人間の母親が自殺という非業の死を遂げたバルドルが一番知っているはずだ。
「だから君は、将軍会議に来たのか」
バルドルが問う。
「そうだ」
エトヴァスは頷いた。
エトヴァスとしては別に年一回の会議に出なくても良かった。オーディンには自分で会いに行けば良いし、ロキなどアリスに手を出しそうな相手は個別に牽制すれば良い。どうせ実力のある奴などたかだかしれているのだから、会議などに来る必要はなかった。
エトヴァスは要塞都市クイクルム攻略を宣言するために将軍会議に来た。
「別にこれがクイクルムを滅ぼしたからと言って解決するかはわからん。だが、なにもしないよりましだ」
エトヴァスとて、クイクルムの滅亡がアリスの夜泣きを是正するのかどうかはわからない。
アリスの心の傷は深い。
だからもしかすると、クイクルムを滅ぼしてもアリスは泣き続けるのかも知れない。だがクイクルムを滅ぼせば、あんなところもうなくなったんだとアリスに言うことも出来る。少なくとも話題を二度と聞くことはなくなるだろう。
「君は、存外その子を大切にしているんだな」
「美味しいからな。これが続いて体調でも崩されて死んでは困る」
バルドルにエトヴァスはあっさりと答えた。
バルドルはなんとも言えない複雑な表情になったが、それがエトヴァスの飾ることのない本音だ。
アリスは本当に美味しい。だから、少しでも長く健やかでいて欲しいと思う。ただそれはエトヴァスの、まさに食欲に根ざした強烈な魔族の本能のなれの果てだ。
混血のバルドルには理解できないだろう。
「僕は君が嫌いだ」
「知ってる」
「君の考えには共感出来ない」
「共感なんて言ってる時点でそうだろうな」
純血の魔族のことは、混血の魔族はわからない。
純血の魔族は感情の起伏に乏しく、共感性などないに等しい。混血の魔族はどちらかの親から、きちんと情緒を教わってきている。生まれ持っている。純血の魔族であるエトヴァスたちにはない感情が、元々備わっているのだ。
そしてだからこそわざわざ呼んでアリスの「これ」を見せた。この状態のアリスは彼にとって十分に同情に値するだろう。さぞかし可哀想に見えたはずだ。
バルドルは静かに白銀のまつげを伏せる。
「それでも、その子には心底同情する」
エトヴァスはわずかに口角をあげた。
それだ。エトヴァスはまさにバルドルのその答えを求めていた。
バルドルは基本的にエトヴァスが嫌いだ。これは知っている。何故嫌われているのか、エトヴァスは別段興味がない。だがそうだったとしてもバルドルは潔癖で、理を重んじる男だ。アリスという理不尽を受けた弱い存在を放っておくことなど出来ないのだろう。
ましてや彼は人間と魔族の混血で、魔王オーディンの一番愛した人間の妃の子供だ。
バルドルは穏健派の将軍の筆頭で一番強く、若い魔族からの信頼も厚い。魔王オーディンの一番お気に入りの息子でもある。彼からの「同情」は穏健派のなかでは重要な意味を持つ。
エトヴァスは感情の起伏に乏しいし、魔族らしい本能しか持たない。
だが幸いなことに昔から、頭が良かった。単純に他の魔族よりはるかに記憶領域が広く、緻密な魔術も得意なのだ。だから自分にはたいした感情がなくとも、他人の感情を利用するのは得意だ。
その一方でフレイヤはぐっと唇を噛んで、アリスを見ている。
哀れみは覚えているようだが、そこにある恐怖や反感が消えず、煮え切らない。こちらはだめだなとエトヴァスは冷静な判断を下す。
もともと今回のエトヴァスの目的はバルドルの「同情」をかうことだ。魘されて怯える前後不覚のアリスは、バルドルには相当可哀想に見えたのだろう。
エトヴァスは成果としては満足だった。
「まあ、アリスと仲良くしてやってくれ」
エトヴァスは社交辞令としてそう言った。
「人間よりは魔族の方が恐怖は少ないみたいだからな」
付け足すと、バルドルはもっとやりきれないという表情をした。
人間でありながらもはや人間と生きる選択肢を持てないアリスを哀れに思ったのだろう。だがエトヴァスは他人であるアリスに彼がそれほど感情を傾けるのが、心底理解できない。
ただ、アリスとバルドルを仲良くさせておくのは悪くない。
彼は母親が人間であるため、人間の情緒をよく理解している。彼の母親が魔術師だったこともあり、人間の魔術にも精通している。変な実験を繰り返し、人間の感情を擬似的に理解しようとしているロキよりもずっと健全で、アリスの役に立つだろう。
ましてやバルドルは穏健派の将軍の筆頭だ。エトヴァスは中道派の筆頭であり、過激派と常に争う関係性にあるバルドルは、エトヴァスを無視できない。それは事実上、アリスを大事にしなければならないと言うことでもある。
彼の性格から、彼は間違いなくアリスの良心的な隣人であってくれるはずだ。
それに今回アリスをオーディンやバルドルといった魔族に会わせてわかったことは、アリスが明らかに魔族より人間を怖がっていることだった。
先日田舎の町に行ったとき、アリスはエトヴァスがいても人間を見るたびにびくびくしていた。どれほど同年代の少年が声をかけても、アリスは彼に怯えたままだったし、ことさら中年の男性が苦手のようだった。
しかし魔王の城に来てわかったのは、魔族に対してならアリスはいささか酷い人見知り程度と言うことだ。アリスは確かに魔族を怖がっていたが、エトヴァスがいれば怖がりながらも普通に話せる。
論理的に考えれば、アリスが魔族より人間を怖がるのは当然のことだ。
アリスは幽閉されており、そもそも魔族という種の残酷さをほとんど知らない。魔族から受けた仕打ちは、せいぜいエトヴァスから血肉を奪われているだけだ。
それに対して人間はアリスに酷いことをしている。人間である母親は結界の動力源に娘のアリスを捧げ、人間たちはアリスを結界の動力源にしながら、結界が魔族に破壊されて用なしになると幽閉先から直接引きずりだし、喰われるのがわかっていて魔族に差し出した。
アリスにとって、酷いのは人間の方なのだ。
「もうそろそろ寝たか」
エトヴァスはやっとアリスが寝たのを確認し、息を吐く。
腕のなかで眠るアリスを見下ろすと、まだ泣いたときの余韻が残っているのか、頬が赤い。だが肉がしっかりついてきたせいか、ほっぺたがエトヴァスの肩におしつけられ、歪んでいる。
「クイクルムを滅ぼせば、どんな顔をするんだろうな」
いずれ、クイクルムなどという名前はどこからも、出てこなくなるだろう。
そうすればアリスは泣かなくなるだろうか。わからない。わからないけれど、何もせずにこうして彼女と夜を越えるよりは、彼女を苛むものを順番になくしてしまったほうが建設的だ。
それが、エトヴァスの今のところの結論だった。
エトヴァスさんは自然体ですごく怖い人