09.バルドル
バルドルはビューレイストに夕食に誘われ時から、嫌な予感があった。
千年以上彼を見てきて、そんなことをされたのははじめてだったからだ。そしてこの嫌な予感は、残念ながら当たっていた。
「うっそ!ビューレイスト以外、中道派は全員欠席?」
フレイヤは思わず、碧眼を見ひらく。バルドルも表情は変えなかったが、心底げんなりした。
「あぁ、シヴ、シギュンともに欠席らしい」
ビューレイストは申し訳なさそうでもなんてもなく、淡々と言う。
「エトヴァス・・・、」
少女は不安そうに男の名を口にする。彼の隣に座って食事をしている少女の方が、曇ったフレイヤとバルドルの表情をうかがい、申し訳なさそうな顔をしている。
「エトヴァス」というのは、彼が百年以上前人間と暮らしていた頃に名乗っていた名前で、この小さな少女にはそう呼ばせているらしい。だがバルドルが知るこの男の名前はビューレイスト、魔族で十二人いる将軍のひとり、天空のビューレイストだ。
「なんだ、肉が切れないのか?」
「・・・確かに切りにくいけど」
「そうだな」
彼は慣れているのか、アリスの皿の肉を優雅な動作で切っていく。
ただ彼女がそんなことを言いたかったのではないことに気づいていないのか、知らないふりをしているのか、正直ビューレイストは無表情なので、判然としなかった。
「このタイミングでビューレイストのみか・・・最悪だな」
バルドルは口元に付いたソースをハンカチで拭きながら、ため息をつく。
魔王軍には十二人の将軍がおり、それぞれの領地を持っている。顔を合わせるのはせいぜい年に一回の会議の時だけだ。将軍はおおよそ三つの派閥、穏健派、中道派、過激派にわかれる。バルドルとフレイは穏健派に属する。
それに対しビューレイストは中道派に属するのだが、彼が言うに今回中道派は将軍会議に彼以外参加しないと言うことだった。
「もともとそういうやつらだけどさぁ」
フレイヤはテーブルに肘をつき、頭をおさえる。その拍子に美しい金色の巻き毛がはらりとテーブルへと滑り落ちた。
中道派は全員が純血の魔族だ。そのため感情の起伏に乏しく、共感性はほぼゼロ。個人主義者の塊で、大方自分の領地以外の魔族の事情に無関心だ。
彼らは過激派のように戦争を起こしたり、人間狩りをすることはない。他の魔族の将軍との小競り合いも起こさない。中立、不干渉が原則だ。
ただつまるところまったくと言って良いほど他の将軍にも、魔族のどんな事情にも関わらない。三百年前に魔族の将軍同士が揉めて大戦に発展したときも、中道派は誰も関わらなかった。
そして、今回もその方針を貫くだろうことが予想された。
ただ中道派のなかでもシギュンとシヴはまだ意思疎通が図れる。多少の妥協の余地もある。だが、このビューレイストという男は、そういう余地をまったく感じさせない、いや、昔から行動の読めない得体の知れない相手だった。
「むしろ君こそなんで百年ぶりに参加したんだ」
バルドルは逆にそちらの方に疑問を持つ。
彼はかれこれ百年会議に出席していなかった。最近彼が要塞都市クイクルムの結界を破壊したのは単にもうそろそろ莫大な魔力をもつ食糧を欲していた、それだけだっただろう。そして、結界の動力源で、莫大な魔力を持つアリスを手に入れ、その血肉を喰らっている。それで満足しているはずだ。
それなのに、一体何故、百年ぶりに将軍会議などに出てきたのか。
「用事はアリスを得たから牽制と、もうひとつ」
彼はバルドルに視線を向けることもなく、用事があるからだと個人的な理由を悪びれもせず口にした。
要するに人間を自分の食糧として飼うから、手を出すなと言いに来ただけらしい。道理で彼が魔王のところを含め、アリスを連れ回すわけである。
これではもうひとつも完全に個人的なものだろう。
「来年は出ない」
「・・・だろうね」
バルドルはもう視線をそらした。
純血の魔族の自己中ぶりは混血であるバルドルやフレイヤから見れば、常軌を逸している。しかもビューレイストは極めてその傾向が強かった。
今もバルドルとフレイヤが項垂れていても、彼はなんとも思っていないだろう。そう、そもそも興味がない、無関心なのだ。彼は恐らくバルドルやフレイヤに一ミクロンの興味もない。
ただここ百年で唯一変わったと言えば、隣に座る小さな少女だ。
「アリス、野菜を残すな」
「え、でも、あとで食べるし」
「そう言って毎回最後に残して食べたくないと言うだろう」
ビューレイストは、千年以上生きてきて妃も、恋人も、愛人も持たず、ひとまず誰にも興味がなかった。
なのに、彼は突然、人間の食糧であろう小さな少女を長期飼育することに決めたらしい。そしてどうやら今、彼が見ているのは、自分の食糧でもあるアリスだけだ。
むしろアリスの方が明らかにバルドルとフレイヤの顔色をうかがっている。
ビューレイストは無駄に強く、力がすべての魔族のなかでは重きをおかれる存在だ。中道派の筆頭でもある。彼が仮に何かを発言するなら、無視できなくなる。しかもあらゆる物事に関心がないのでどういう動きをするのかまったく予想がつかない。
はっきり言って、読めないこの男が将軍会議に出てこない方が今の状況よりずっとましだった。
バルドルが途方に暮れていると、沈黙が痛かったのだろう。
「将軍会議は・・・、他の人が来ないと何か困るの?」
アリスがそれぞれの反応をうかがいながら、おずおずバルドルに尋ねる。
大人の話に口出ししてはいけないと思っていたのだろうが、ビューレイストの態度があまりに酷く、沈黙と気まずさに耐え切れなくなったらしい。
なぜ、ビューレイスト以外の将軍が出てこなければ困るのか。
彼が自己中で読みがたく、協調がはかれないというのが最大の要因だが、議題のない将軍会議なら、バルドルもこれほど焦燥を感じなかっただろう。
「・・・あぁ、そうだね」
バルドルはアリスの手前、ぼやかして口を噤んだ。
アリスも関係がある話だからだ。しかし、ビューレイストはまったくそういう気遣いを理解していないのか、あっさりと口を開いた。
「数ヶ月後には要塞都市クイクルムとの休戦協定が終わる。誰がどうするかを決めたいんだろ」
臆面もなく口にする彼に、バルドルはため息が出た。ここに来てからため息しかついていない気がする。
要塞都市クイクルムはもともと魔族と人間の支配領域の境界線上にある。半年前までは千年前に張られた大魔術師ルシウスの対魔族結界に守られていたが、ビューレイストがその結界を破った。
人間側は1年間の休戦を求め、それと引き換えに対魔族結界の動力源だった人間をビューレイストに引き渡した。
それがアリスだ。
バルドルはその経緯があるからアリスの前でクイクルムの話は避けたかったが、彼はなんとも思っていないらしい。
「・・・でも結界は、なくなったんだよね?」
アリスは少し困ったような笑顔でバルドルに話の続きを求めてきた。こうなればもう、隠しても意味はない。バルドルは渋々口を開いた。
「そうだよ。でも外側の魔族を入れなくする結界が破られただけなんだ。だから防衛用の結界の一部は残っている。住民の多くはまだ住んでいるし、昔から住んでいる土地は渡したくないだろうし、抵抗はしてくると思うよ」
当たり障りのない説明を選んだのが、良くなかったらしく、アリスはあまり理解できなかったようだ。
今度は隣のビューレイストの方へと視線を向ける。
「おまえ、この間、栗を食べただろ。おまえは外側の栗の皮」
「わたしが?」
「要塞都市の結界の動力源だったからな。対魔族結界は外側の栗の皮だ。栗にはまだ渋皮がある。しかも剥いてみれば腐っていたりもするし、虫もいるかもしれん。食えるかもわからん」
彼の説明はバルドルよりさらに簡単で、的確だった。
要塞都市の表の結界がなくなったとしても、うしろにまだ多少防衛用の結界が残っている。そして内部に関して不確定要素が多い。
魔族が攻めてくるとなれば多くの人間の住民が逃げるだろうから、残っている豊富な魔力を持つ獲物というのはせいぜい騎士団くらいのものだ。
「・・・良いところはないの?」
アリスは例えが栗故だったかも知れないが、非常に的を射た質問をしてきた。バルドルはそれにため息が出る。
恐らく、クイクルム自体に魔族にとってのうまみがあるとしたら、魔力を持つ人間くらいだ。
一年の休戦期間をとった限り、ただ多くの住民は要塞都市を去っているだろう。残って戦うのは騎士団くらいのものだ。魔族にとって魔力が大きければ美味に感じるし、そこそこの魔力をもつ騎士団の団員はいる。
だから、食糧調達としては悪くはない。
それ故に混血児が多く、さほど魔力の大きな人間を食糧にする必要のない穏健派の将軍にとって、要塞都市クイクルムの攻略はうまみがなかった。
ただ、だからといって黙っているわけにもいかない。
「あとはのちのちの交易拠点としての価値のみだな」
「こうえききょてん?」
「物を運んで、集めて売る。都市とは元々そういう場所だ。都市のなかでは大規模な市場や商店街と言ったものを集めて売れる場所がたくさんもうけられている。そしてものを送るために各地域への道がきちんと整備されている」
彼は事もなげに説明した。だがその「道」が、バルドルたちにとっては問題だった。
人間は馬や牛などを移動手段にするため、陸路を重視する生きものだ。
クイクルムは魔族と人間の支配領域の間にあり、千年の間繁栄したため他の要塞都市との交易ルートが整備されているし、必ず他の都市との交易のための道がある。破壊したとしてもその片鱗は残る。
もともと要塞都市クイクルムの支配領域と接しているのは、中道派のビューレイストと過激派のロキの領地だ。今回ビューレイストが都市の対魔族結界を破壊したが、莫大な魔力を持つアリスという食糧を得た時点で、彼にはもうクイクルムへの興味はないだろう。
だから本来なら過激派のロキが、残っている騎士団と交易経路を目当てに残りを攻略するはずだ。しかしそれは穏健派からすると避けたい事態だった。
ロキは過激派の将軍の筆頭であり、非常に一際危険な男だ。
将軍のなかでもビューレイスト、バルドルと並べられるほど強い将軍であり、次の魔王候補でもある。だが、その厄介さは自己中で引きこもり、なにものにも関心がない中道派の筆頭ビューレイストとはレベルが違う。
ロキは実力があり、頭がいいだけでなく、自分の領地拡大にも熱心で人間の支配領域にも侵入し、しょっちゅう彼らを襲うし、隙があれば他の将軍の領地も喰いにかかる。魔王の地位を狙っている節もある。相当好戦的で、狡猾で、野心のある男だった。
クイクルムを過激派のロキが攻略すると言うことは、他の都市や田舎町への道を、過激派が手に入れると言うことになる。そうすれば人間と魔族が争う機会が増えるだろうし、過激派のロキの領地が大きく人間の支配領域に広がる。
だからビューレイストに攻略して欲しいというのが穏健派の本音だ。
ただそれが望み薄だと言うこともわかっている。中道派全員が来なかったということは、一番力のあるビューレイストの決定にすべてを委ねるつもりだろう。
そして中道派の今までの傾向を踏襲するなら完全な「無関心」だ。
とくにビューレイストはアリスを手に入れ、食糧に困っていない。だから何にも関わらない。興味がない。
つまりビューレイストは自分が要塞都市クイクルムの対魔族結界を破壊するという火種を残しておきながら、後始末をする気はまったくないわけだ。
それなのに彼は単純に自分の食糧を襲うなという牽制のためだけに将軍会議にやってきた。
当然、一番面倒な過激派の筆頭ロキの領地の拡大という問題を持ち込まれたバルドルたち穏健派としては、気分が悪いにもほどがある。
バルドルは、だからビューレイストが大嫌いだった。
ビューレイストは非常に頭が良く、物事を非常に正確に把握している。
今とて魔族の将軍の政治がどういう状況にあるのか、将軍会議の派閥がどう動いているのか、誰がどう動きたいのか、ある程度把握しているだろう。それにもかかわらず、彼が求めるのは常に自分の利益だけだ。それも個人的な利益。他に興味もない。
「ほかに良いところは?」
アリスは首を傾げてみせる。
クイクルムを手に入れるうまみがよくわからなかったのだろう。十歳前後の子供に交易拠点としての価値を理解しろという方が難しい。
「ない。だいたい魔族に子供を差し出してくるような余裕のないところに、いいところなんてあるはずがない」
ビューレイストはアリスにはっきりと言う。
バルドルもフレイヤも差し出された子供であるアリスに、それをもらった側が言うことではないと思ったが、見解自体は間違っていなかった。
魔族に子供を差し出すなど最後の手段だ。
しかも喰われると言うことは、確実に魔族の将軍に会える機会がある。その時に魔族を殺せる可能性だってあったのだ。なのに、それすらしてこなかった。アリス以外になんのカードもない。対魔族結界に守られてはいたが、まさにそれだけの都市だったと言うことになる。
アリスは納得したのか、頷いて自分の皿に視線を戻す。間髪入れずビューレイストが口を開いた。
「ほうれん草」
アリスはほうれん草があまり好きではないのか、皿に残したままだ。それを彼に指摘され、じっと皿を眺める。そして意を決したかのような顔をして、思い切ってそれを口に入れた。
あまり美味しくないのか眉間に皺を寄せて食べる姿は本当に子供っぽい。
先ほどのやりとりも忘れ、バルドルは思わず笑ってしまう。だか、次の瞬間、ビューレイストの言葉に凍りついた。
「そういえばアリス。クイクルムは俺が滅ぼそうと思うんだが、問題があるか?」
ビューレイストは話のついでというように軽く、バルドルたちがぎょっとするようなことをアリスに尋ねる。
「え?どうして?いいところないんでしょう?」
「あれが消えた方が、おまえの安眠には良いだろう」
「・・・そうかな」
「魔族は一日に一時間も寝られれば良いが、人間には睡眠が大事だ。人間の子供は八時間以上いるらしい。これから成長期のおまえの成長に関わる」
話は要塞都市クイクルムの話だったはずだ。
なのに、彼とアリスの会話は完全に睡眠の話にすりかわっている。それと要塞都市クイクルムを滅ぼすことが一体何の関係があるのか。
バルドルにはさっぱりわからない。
「なに、その話は・・・」
バルドルはあまりに聞いていても話がみえないので、ビューレイストに問う。
聞く限り決して軽い内容ではない。だが今答える気はないのか、ビューレイストはその翡翠の眼差しをアリスにしか向けない。
かわりにアリスがいたたまれなくなったのだろう。
「えっと、なんだろう・・・わたし、けっこうそのひどい状態だったから、人が怖いしって泣いてたら、それって小さいことだから、クイクルムを滅ぼしてあげようかって」
アリスは拙い言葉で説明した。だが個人的なことばかりで何を言っているのかもよくわからない。
バルドルが納得できる説明ではなかったので、かわりにビューレイストを睨むと、夜にはわかる、とアリスに気づかれないように唇だけが動く。彼はアリスの前でこの話をする気はないようだ。
バルドルとフレイヤは顔を見合わせるしかない。
少しずつ夜が更け、大人と魔族の時間が近づいていた。
父親の魔王オーディンさんと同じく、苦労人バルドルさん