07.エトヴァス
「アリス?」
エトヴァスが魔王との話が終わり外に出てみると、アリスが泣いていた。それもまた大泣きだ。手でこすったのか、目元も頬も真っ赤にして、ひくひくと肩をふるわせて泣いている。
少し早足で歩み寄ると、気づいたのかアリスがこちらを見た。
紫色の瞳は潤んでいて、エトヴァスの方を見た途端にまたくしゃりと表情を歪める。だがいつものように抱きついては来ない。ぎゅっと自分の服の裾を握りしめ、エトヴァスを見上げてくる。
「どうした」
「・・・おはなし、おわった?」
情けないほど震えた声だった。
「終わった」
エトヴァスの予想通りで終わった。
結論としては、オーディンはアリスを襲わず、守るという行動契約を結んだ。エトヴァスもアリスが死ぬまでオーディンと互いに戦わないという契約を結んだ。要塞都市クイクルムの攻略に関しても、同意は得た。
さすがにアリス本人の処遇と要塞都市クイクルムの話があるため、アリスには席を外させた。ただそれはアリスにとって負担だったのかも知れない。
アリスは終わったと聞くやいなや、エトヴァスに縋り付いてきた。その背中をぽんぽんと撫でるが、何を我慢していたのか、声を上げて泣き出す。はじめて見る泣き方だなと思いつつ、「どうした」ともう一度、同じ質問をした。
「ロキだよ」
答えたのは、アリスの近くに立っていた男だった。彼はエトヴァスにあからさまにため息をついてみせる。
「バルドルか」
肩までの白銀の髪に、琥珀色の瞳の男だ。整った左右対称の顔をしていて、人形のように整っている。エトヴァスより身長は低いが、それでも一七〇センチは優に超えているので、女性にしては身長の高いフレイヤよりも少し大きい。年齢はエトヴァスより少し年下、二十代前半から半ばに見える。これは比較的実際とも合致していて、千歳は越えている点では同じだが、厳密にはエトヴァスの方が半年ほど年上だった。
バルドルは魔王オーディンの三人の息子のひとりで、一番のお気に入りだ。
人間との混血で、魔族の将軍のなかでもエトヴァス、ロキに並ぶ手練れであり、穏健派の筆頭だ。光明のバルドルとの異名は正しい。領地経営もうまく、その領地は将軍のなかで一番豊かだとも言われる。次の魔王は彼だと言われるほどの魔族だ。
真面目で魔族全体のことも考えている彼が一年に一度の将軍会議のために魔王の居城であるヴァルハラに戻ってくるのは当然だった。
ただエトヴァスには今この場でバルドルなど至極どうでもよい話で、泣いているアリスを見下ろす。
「何故泣いてる」
「・・・だから」
「俺はアリスに聞いている。どうしておまえが答える」
エトヴァスが不思議に思い尋ねると、バルドルは不快そうな顔をした。
それを眺めながらもやはりどうでも良いので、エトヴァスはしゃくり上げてこちらの言うことをほとんど聞いていないアリスを自分の腰から引き剥がし、その小さな両手を掴んだまま視線を合わせるために膝をつく。
「アリス、理由を話してからにしろ」
「っ、」
「少し、落ち着け」
エトヴァスはうまく声も出せないほど泣きじゃくっているアリスにそう言って、アリスの手のひらを確認した。右手の手のひらには赤い痕がついていて、それがすぐブローチを強く握りしめすぎてついた痕だと気づく。
だが、使わなかったのだろう。これほど怖がるならロキの頭に穴を開けてやれば良かったのにと思う。
「ま、まえきた、」
「ん?」
「まえきた、こわいひと、きた、の」
途切れ途切れだった。「前、来た怖い人」とはロキのことだろう。ロキはアリスにとってそういう認識なのだ。
「魔王の応接間は、魔力探知が通らないからな」
色々な観点から、魔王の間は外への探知が出来ないようになっている。逆もしかりだ。だから多少気づかないことはあるだろうと思っていたし、対策も立てていたが、本当にしつこい奴だと思う。
「前に話したとおり攻撃を受けたとしても、別におまえは怪我もしない。俺が来るまでの時間くらいなら、十分もつそなえがある」
「で、でも、」
アリスはまだ泣いていて、気持ちがうまく言葉に出来ない。エトヴァスはアリスの小さな手に自分の手を重ねたまま、ぼろぼろと涙をこぼすアリスを見据える。
だが、心底軽蔑したように別の声が降ってきた。
「その子は襲われるのが怖いって言ってるんだよ」
バルドルの声にはどこか怒りのようなものが含まれている。
「小さい子供なんだから、もう少し慮ってあげたら?」
慮る。言葉としては知っている。まわりの状況などを考えて相手の考えをうかがうことだ。だが目の前に相手がいるのに、黙って相手の考えをうかがってどうするのだろう。
彼はどうやらエトヴァスの言動に苛立ち、怒っているようだ。
何故かは知らないし興味もない。興味を持ちたいとも思わない。だが、話の邪魔だ。エトヴァスはアリスの話を聞きたいのであって、バルドルが代弁するアリスの気持ちらしきものを聞きたいのではない。
「バルドル、おまえは口を出すな。意思疎通に他者を介する気はない」
エトヴァスはバルドルを一蹴した。バルドルはぐっと押し黙る。
そんなバルドルを気にせず、エトヴァスはアリスの気持ちが落ち着き、少しでも言葉が出てくるのを静かに待つ。
「ひ、ひとりは、こわい、んだ、よっ、」
少しずつ、アリスが自分の気持ちを言葉にする。
「フレイヤがいただろ?」
「で、でも、あのひと、つつよくって」
エトヴァスはその言葉で、アリスが他人の魔力の量や実力を正確に計っていることに気づく。
確かに混血で五百歳前後のフレイヤと、千歳を越えているロキとでは魔力量が違う。実力もフレイヤが逆立ちしても勝てない。それをアリスは理解している。そう、アリスは魔力探知でフレイヤとロキの魔力量の違いを計ったのだ。もしかすると実力も測れているのかも知れない。
「ふれ、やさん、しんじゃ、かも、わたし、のせい、で」
ロキが仮にフレイヤを殺してもなんとも思わないことを、アリスは無意識で理解していたのだ。そうだろうが、フレイヤもぎりぎりになればアリスを放って逃げるだろう。それがアリスにはわからなかったのだ。
一応、念のために一般的には「親しみやすいお姉さん」であるフレイヤをつけていたが、あまり慰めにならなかったらしい。
「なら、おまえをひとりでどこか安全なところにおいていけと言うことか?」
「ち、ちが、おいて、いか、な、おいて、いかないで、おいていかないで、」
おいでいかないでとアリスは泣く。それが本音だったのだろう。言い出したらもう止まらないようで、それを繰り返す。
「今回はおまえ自身の話が出てくる可能性があるから席を外させたんだ」
エトヴァスは涙に濡れたアリスの頬を撫でる。
「前、クイクルムの件を聞いたとき、傷ついて泣いていただろう」
自分のことを思い知らされるのは、突きつけられるのは辛いと泣いていた。酷く傷ついたのは、感情の起伏の乏しいエトヴァスでも様子を見ればわかっている。痛いほど知っている。
だから、エトヴァスは今回、魔王との話にアリスを連れて行かなかった。アリスの話になるとわかっていたからだ。どこまでの話をするかはわからないが、アリスを閉じ込めていた要塞都市クイクルムの事を人間のアリスの前で話すのは酷だろうと思った。
「おいて、い、か、るほう、のが、いや、」
エトヴァスの手をこぼれ落ちた涙がすべっていく。
目尻が真っ赤になっている。こすりすぎたのだろう。どれほど魔力を制御しても、血には高密度の魔力が宿る。魔族は美味しい匂いに感じるはずだ。目尻を魔術でなおしてやってから、アリスを抱き上げる。
すると、安堵したのかエトヴァスの首に手を回してきた。
「そうか。それは聞かなかった俺が悪かった」
エトヴァスは小さな体を抱いたまま立ち上がる。
「これからは俺が行く場所には極力おまえを同席させる。そのほうが俺としてもおまえを守りやすい。だがクイクルムを含め、嫌な話も聞くかも知れないぞ」
「・・・でも、でも、おいていかれる、より、いい」
「わかった」
アリスの背中をとんとん叩きながら、顎を引く。
明日からは将軍会議がはじまる。普通将軍が誰かを同席させることはないが、別にエトヴァスならば誰も文句は言えないだろう。アリスが嫌な話を聞くことを納得して望むのであれば、連れて行くのはやぶさかではない。
その方がアリスを守りやすいのも事実だ。こちらも安心できる。
「え?アリスを将軍会議に同席させるの?」
黙って聞いていたフレイヤが、驚いた顔で聞いてくる。
「本人が望んでいるんだから、そうすべきだろう」
「そ、そうだけど・・・本当に良いの?ロキもいるわ」
フレイヤは酷く心配そうにエトヴァスに尋ねる。バルドルも同じだったらしく、エトヴァスの反応をうかがっていたが、エトヴァスはアリスに答えを求める。
「どうする」
「お、おいていかれるよりいい」
エトヴァスはアリスがそう言うなら、それでいい。
あとで後悔したとしても、その言動の責任は自分で取るべきだ。攻撃を受ける可能性は、エトヴァスがアリスを近くから離すこともないので、どうとでもなる。
エトヴァスはフレイヤに視線を向ける。ただ不安の芽は早めに狩っておくべきだろう。
「帰るぞ。ロキがいるだろうがな」
魔王との話はもう終わったし、将軍会議は明日からだ。今日はここに用事はない。
アリスが少し落ち着いたのを見計らい、エトヴァスはアリスに言って彼女を床に下ろした。そして聞き手ではない右手で、アリスの左手を握る。
「アリス、覚えておけ。いつも言っていることだが、敵がいるときは、しっかり相手を見ろ」
「・・・うん」
「勝てるものも勝てなくなる」
励ますように軽く背中を叩くと、アリスはぎゅっとエトヴァスの手を握り返してきた。
「さすがにもういないんじゃない?次戻ってくるときはビューレイストがいるってわかるし、バルドルもいるのよ?」
フレイヤが心底嫌そうな顔で言うが、それは安易な発想だ。
「いや、あいつはまだいるよ」
バルドルは魔力探知に優れているのでロキを補足しているらしく、肩をすくめて見せる。エトヴァスも同意見で、アリスが緊張した面持ちをしているのを見て、僅かに口角を上げる。
「今のところ、もしまずくなったら迷いなく “あれ”をお見舞いしてやれ。おまえの対抗手段はそれしかない」
「え?」
アリスが不思議そうに首を傾げ、フレイヤが青い顔をしている。バルドルは、エトヴァスがアリスにかけている魔術をある程度理解しているだろうから、アリスの能力も威力の多寡はともかくだいたい方向性は予想がついただろう。
「おまえが俺の食糧である限り、魔族のなかで生きる。だから、覚えておけ。魔族は力がすべてだ」
変わってきたとはいえ、魔族は力がすべてだ。だからエトヴァスがこの場で他の将軍を殺害しても、罪に問われることはない。
「強い俺の傘の下にいる限り、安心していろ」
エトヴァスはアリスの小さな頭を撫でる。アリスは紫色の瞳でエトヴァスをじっと見ていたが、まっすぐエトヴァスを見返してきた。その眼にはちゃんと力がある。
それを確認してから、エトヴァスは帰ることにした。
エトヴァスさんは良くも悪くもあまり人の話は聞かない人