04.オーディン
魔王の居城ヴァルハラの応接室。
そこには、ふたつの席が用意されている。その一つに腰を下ろし、魔王であるオーディンはまたこみ上げてくる笑いを押さえられなかった。
オーディンはバラバラ散る結界とフレイヤの呆けた顔が忘れられない。城にいる魔族たちも同じような顔で崩れる結界を眺めていることだろう。
そしてなによりあの、紫色の瞳の人間の少女だ。
結界が壊れたときには、音にびっくりしていた。そして次の瞬間、落ちてきた破片の重さに驚いて、真っ青になっていた。下敷きになれば死ぬと気づいたのだろう。他の奴らの誰もが結界の破壊に驚愕するなか、些末なことに驚いている姿は滑稽で、おかしくてたまらなかった。
「エトヴァスなぁ、おまえあの子にそう呼ばせてるのか?」
「どうでもいい。ただ人間が呼ぶなら、そちらだろう」
「たしかにそうだな。ビューレイストなんて長い名前よりゃあ、いいんじゃね?」
オーディンも、彼が百年前に人間の中で暮らしていたときに「エトヴァス」と呼ばれていたことは知っているし、あの少女がすがりつくように「エトヴァス」と呼んでいるのを見ると、それはそれでいいのではないかと思う。
「まさか、紫色の瞳の人間のガキが、本当にやってくるとはなぁ」
オーディンはしみじみと百年前を想い出す。
『紫色の瞳の人間の女の子が、君の前に現れる。将軍のひとりが、連れてくる』
百年前、そうオーディンに予言した男がいた。だが、当時オーディンはそれを一笑に付した。
オーディンは数千年生きてきて、紫色の瞳の生きものをひとりしか見たことがなかった。そんな貴重な目の女、しかも人間など魔族のオーディンが見るわけがない。ましてや食糧である人間を喰われる可能性があるのにわざわざ魔王のオーディンに見せびらかしに来る将軍などいないだろう。
実際にオーディンは自分の人間の妃を極力他の将軍からも、魔族からも遠ざけた。三百年前に将軍ヘルブリンディが人間の妃を得ていたが、それもオーディンは見たことがない。
だから、希少な紫色の瞳を持つ、しかも人間の少女がオーディンの目の前に現れる可能性なんて、一万年生きてもないと笑った。
なのに、実際にことは起こった。
「・・・ありゃ、間違いなく人間だな」
オーディンは肘掛けに頬杖をつく。
「あぁ、混血の可能性もなくはないが、性質は間違いなく人間だ」
ビューレイストは同意した。
アリスから毎日血肉を奪っている彼が一番よく知っているだろう。魔族にとって味はあくまで魔力の多寡だが、傷の治り方や痛覚などは各種族で違う。少なくともそう言ったことも、人間と同じなのだろう。
混血の場合、どちらかの種族の血が色濃く出ることが多い。
そのためアリスが混血の可能性はなくはない。だが脆弱な肉体や恐怖などの感情に対する敏感さは間違いなく人間の特性だ。少なくとも魔族ではなく、人間やエルフといった「人類」であることは間違いない。
そしてもうひとつ、オーディンと彼には恐らく共通の見解があった。
「あの子は人間として生きていけねぇな・・・」
オーディンはテーブルに肘をつき、ため息をついた。目の前のテーブルは丸く、彫刻が彫られている。なんの模様なのかはわからない。だがそれを指でなぞり、オーディンは結論を口にする。
「人間はあれがわかればあの子を生かしておかねぇ」
あの魔力砲が、まずい。
千年前に大魔術師ルシウスによって張られた対魔族結界は、六つの要塞都市の繁栄を象徴でもあった。一つはビューレイストに破られたが、まだ五つ残っている。アリスのあの能力を見たら、誰もが要塞都市の結界が破壊されることを懸念するだろう。
人間は間違いなくアリスを魔族にけしかけるよりも、自分たちを守るためにアリスを殺す。魔族のなかには人間を感情的で美しいものと賛美する者もいるが、人間は集団のためならばひとりの犠牲など切り捨ててくる、そういう生物だ。
一個体が弱く、集団化することで自分たちを守っている彼らは、集団の秩序を何よりも優先する。敵への対抗手段よりも、秩序を優先する。
「魔族側にしちゃ救世主みたいな奴だがな」
人間には切り捨てられるアリスだが、魔族側に取ってみれば救世主だ。千年ありつづける対魔族結界を木っ端微塵にしてくれるだろう。だが、破壊してどうするのかという問題もある。
「人間と全面戦争でもしたいのか?」
ビューレイストが心底理解できないといった表情で尋ねてくる。オーディンはため息交じりに返した。
「そういうやつらもいるじゃねぇか」
「最近派閥争いは面倒なことになっているからな」
百年引きこもっていたくせに、ちゃんと情報は得てきたらしい。ビューレイストは良くも悪くもそういう慎重な男だった。
将軍会議には、三つの派閥がある。穏健派、過激派、そしてどちらにも関わらない中道派だ。
穏健派は混血の将軍ばかりで、争いごとを望まない。魔族同士協調して様々な物事に当たるべきだと考えている。人間との戦争を望んでいないし、同時に戦争は魔族の破滅につながるとすら考えている。
それに比べて過激派は、純血の魔族がほとんどで個人主義の塊だ。今まで通り好き勝手人間や他の種族を襲いたいし、喰いたい。そんな彼らにとって、人間を守る要塞都市の対魔族結界は目の上のたんこぶだ。
そんなふたつの派閥の争いに、人間の要塞都市の対魔族結界を簡単に破れてしまうアリスの存在を公にするのは、火中に栗を放り込むような行為だ。
「だからといって、殺してしまうにはこちらもリスクが高けぇな」
後腐れがないのは、アリスを殺して喰ってしまうことだ。
しかし、魔族が対魔族結界を破る唯一の手段であるアリスを殺すこともまた、リスクが高い。人間が本気で魔族と全面戦争を始めようと思ったとき、今もそうだが、対魔族結界に対する対抗手段が失うのは痛いのだ。
「アリスは極力安全に、魔族にとって手札として確保しておきたいってとこだ」
その点ではアリスが中道派のビューレイストの食糧というのは幸いであり、貴重な手札の確保の余地がある。ビューレイストは中道派の筆頭とも言うべき魔族で、中道派は常に中立、不干渉だ。つまるところ魔族の事情にも興味がない。
オーディンは魔王で、魔族全体のことを考えるのが仕事だ。
魔族全体の利益を考えるならばもめ事は避けたいが、いざとなったときの緊急手段は持っておきたい。アリスを利用されるのは困るが、殺されても困る。
ただオーディンとビューレイストの見ている情報は同じだが、目的意識が異なる。
「だろうが、そんなことはどうでもいい。重要なのは、人間のアリスには逃げ場がないと言うことだ」
ビューレイストは純血の魔族だ。
自分がすべてで、他者に対して共感などできないし、興味もない。だからは、アリスが逃げ場がないという事実をオーディンと共有したかっただけだという。オーディンは逆に、何故彼がそんなことを確認したいのか首を傾げた。
同じ情報を共有したはずなのに、話が見えない。
「だから俺を敵に回したくなければ、俺の食糧に手を出すな」
ビューレイストはいつもどおり平坦な低い声で、ようやく目的を口にした。オーディンは彼が言いたいことを理解する。そして同時に呆れとともに笑いがこみ上げてきた。
「魔族のことなんてどうでも良いってわけか」
「俺に関係があるか?」
オーディンの問いに、彼は逆に不思議そうに問いかけてくる。それはオーディンにとって聞き慣れた、純血の魔族特有の「答え」だった。
興味がない。無関心。だから自分に関係ないことはどうでも良い。
オーディンは一応魔族全体のことを考えている。それはオーディンが一番古参の、その当時ではほとんどいなかった巨人と魔族の混血の将軍だからだ。穏健派から出てきたはじめての魔王でもある。
しかし純血の魔族は変わらずこちらがげんなりするほど個人主義の塊で、食欲と性欲に根ざした願望だけが強く、それ以外に何の興味もない。だからこそ純血の魔族にとって力がすべてであり、オーディンがただ実力として強いからある程度の言うことを聞いているだけだ。
魔族全体のことなど関係ない。そしてビューレイストは、良くも悪くもその純血の魔族らしい人物だった。
「俺はおまえと相性が悪いからな。行動契約はとっておきたい」
エトヴァスは臆面もなく、アリスを襲わないという行動契約をしろとオーディンに要求した。
単にオーディンが強く、自分と相性が悪いことをふまえ、オーディンがアリスに手を出すことを危惧しているのだ。だから、この派閥争いの微妙な状況で自分を敵にまわしたくなければ、アリスを襲わないという行動契約に同意しろ、そういうことだ。
「おまえ、マジで嫌な奴だな」
オーディンは頭痛がする気がして、こめかみを押さえる。
つまり、ビューレイストはあの少女を長期的に食いものにするつもりなのだ。そしてその食糧を守るという些末な理由で魔王のオーディンに行動契約を求めている。
だが、ここでオーディンがむげにこの要求を拒否できないのも事実だ。
ビューレイストは中道派はおろか、オーディンをのぞけば恐らく将軍のなかで一番強い魔族だ。魔族の将軍のなかで彼に勝算のあるやつはほぼいない。しかも純血の魔族のくせに、目的のために混血の魔族の「感情」を利用する頭脳がある。
これがビューレイストの最も厄介なところだった。
今も実際に穏健派であるフレイヤを連れてきている。それはアリスを喰う可能性が低いからだ。恐らくじきにバルドルもやってくるだろう。魔族のなかでも混血の者たちが、魔族の食糧となった人間のアリスに「同情」を示すと思っているのだ。
ビューレイスト自身はその人生のなかで、他の生きものに「同情」などしたことがないだろう。
彼は純血の魔族の典型で、食欲や性欲以外の感情の起伏が乏しい。何者にも興味がない。だが暇を持て余して彼は「観察」を怠らない。他者の共感や同情と言った利用できそうな感情を、その賢い頭で「理解」している。そして盤上の駒でも扱うかのように自分の都合の良い結論へと追い込む。
感情がわからないからこそ論理的に理解しようとし、客観的に理解だけするため利用するにも心が痛まない。
そしてだからこそ他者を利用するのがうまい。
「俺はおまえとは極力戦いたくないだけだ」
ビューレイストは目的をはっきりそう口にした。
魔族は個人主義の塊だ。彼にとって派閥争いも何もかも利用する手段ではあるが、本質的な興味はない。彼は非常に理知的で賢い魔族だが、彼がこだわっているのは莫大な魔力を持つ血肉であるアリスを手放さないことだけだ。
結局、食欲である。
どれほど頭良くとも理知的だろうと、本質は人食いの化けものだ。だが無駄に強く、頭が回るから恐ろしい。
「邪魔ならあのちびっ子と組んで俺を殺しに来れば良いじゃねぇか」
オーディンは確認のために挑発的にせせら笑った。
仮にエトヴァスとあの少女が組むなら、オーディンに勝ち目はなくなる。
あの少女の攻撃はほぼガード不可だ。必ず避けなければならない。それを警戒している隙に、彼がオーディンを仕留めるはずだ。彼にとってオーディンが相性の悪い相手だとしても、彼女と組めば話は変わってくる。上位の魔族には、その程度の差しかない。
だが、エトヴァスの表情は変わらない。
「俺はあれを戦場に出したくない。腕でももげたらどうしてくれる。」
その発言に、オーディンはまた笑う。
確かに魔族の腕は再生するが、人間の腕は再生しない。戦場に出し、万が一にも腕でもとれてしまえば、最終的に死んだときに食べるところが減るとでも思っているのだろうか。相変わらず、彼は食糧のことしか頭にない。
「だからかわいがってんのか?危なそうになったらすぐに抱き上げてさぁ」
「肉体的にも精神的にも健やかでないと困る。それでなくとも人間はすぐ死ぬし、自殺率も高い」
「・・・そうだな」
オーディンはビューレイストの言葉に、目を伏せて自嘲気味に笑う。
そのとおりだ。肉体的に健康でも、精神的に健やかでなければ死んでしまう。人間というのはそういう生きものだ。気持ちひとつで、生きることも死ぬこともできる。そういう感情豊かな生きものだからこそ、ビューレイストはアリスを細やかに気にかけているのだろう。
それは正解だ。オーディンにはできなかった。だが賢い彼ならそれができるのかも知れない。
「・・・おまえはさぁ、今でもあれを殺して食えるか?」
オーディンが尋ねると、彼はその特徴的な金色の光彩の入った翡翠色の瞳を瞬く。
「殺す必要がない」
「必要があったとして、だ」
「あいつの欠点は俺が一番わかっている」
もしアリスが敵に回ったときの想定をしたのだろう。ビューレイストはそう答えた。
アリスのあの魔力砲は脅威だが、彼はそれを間近で見ている。防御が不可だったとしても、他に手段があるのだろうし、欠点も痛いほど見えているはずだ。だからアリスが仮に彼の敵になったとしても、彼にはアリスを押さえ込むだけの力がある。
だが、そういうことを聞いているのではない。
「俺がさぁ、一番愛したのは、人間の妃だ」
「あぁ、バルドルの母親だろ」
オーディンが躊躇いながら言えば、彼からあっさりと答えが返ってくる。周知の事実だからだ。
ちょうど千年前ほど前の話だ。まだ魔王になる前、将軍だったオーディンには人間の妃がいた。たった十年ほどをともにした人間の女だ。あれ以降、オーディンは妃をとらなかった。誰かと生きたいと思えなくなったのだ。
想い出せば、後悔がいつも胸を塞ぐ。
「おまえは、アリスが伴侶を得ることを許せるか?」
「許す、許さないではなく、不可能だ」
彼はこの話に興味がないのだろう。至極どうでも良さそうに答えてくる。それをみて、オーディンはため息をついた。
「可能だったとしてだ。おまえは他人と寝た食糧を喰う気になるのか」
「味と関係ないだろ」
ビューレイストは即答した。
魔族は魔力の多寡を味に還元する。食糧が誰と寝ようと、魔力に変化はない。人間は処女性を神聖視する傾向にあるが、性欲に奔放な魔族は男女ともに複数相手を持つのが普通で、そういう精神性は皆無だ。ビューレイストも性欲はないとはいえ、そうした慣習のもとに育っているので当然の答えだ。
ただそれはあくまで他人事だからだ。
「ちょっと面倒くさがらず、アリスが他人と寝たことを想像してみろ」
オーディンがもう一度言うと、ビューレイストは翡翠の瞳を少しそらし、考える。じっと彼の無表情を眺めてみると、案の定、彼の眉間に皺が寄った。
「・・・嫌な気分がするな」
それはオーディンが予想したとおりの答えだった。
食欲も性欲も、魔族にとってはある意味一体だ。上位の魔族間で他者の食糧に手をつけることは万死に値する。そして性欲がともなう行為は、食糧に他人が手をつけたような気がするのだ。情がなくても、食糧を独占したいと思う欲が拒否する。
オーディンも、かつて人間を食糧として手に入れた。喰ってたまたま死んでいなかった。それだけだったが、ともに過ごすうちにその食欲はすぐに性欲をともなうものになり、妃にした。食糧であり妃である彼女への排他的な独占欲は、食欲、性欲を向ける相手だからこそ、絶大だった。
実際に彼女に手を出した咎で魔族の一族を族滅したこともある。彼女を思っての行為だったが、それは彼女との溝になった。
アリスはまだ幼い。ビューレイストが健全な大人なら、性欲など感じないだろう。だが、いつかその食指が伸びたときにはもう抑えられない。魔族にとっては食欲も性欲もそういう衝動的なものだ。混血のオーディンでもそうだったのだから、純血の彼が衝動としてそれをどうにかできるとは思えない。
だから大事になど出来ない。出来なくなるのだ。そしてそれが心にしこりのように残る。
「魔族とはそういう生きものだと理解しておけよ」
オーディンが言えるのはそれだけだ。ビューレイストは話を聞いてはいたが、相変わらず興味はなさそうだった。何故味に影響がないのにアリスが誰かと寝るのが気分が悪いのか、それをまだ考えているのかも知れない。
きっと今の彼には何を言っても理解できない。そして理解できたときには遅い。オーディンはそうだった。だが彼はオーディンより少なくとも賢い。もしかすると違う答えをだすのかもいれないし、違う答えなどそもそも存在しないのかも知れない。
だからこれは、オーディンの感傷であり、後悔だ。
オーディンは退出しようと腰を上げる。どちらにしても話は終わりだ。そう思ったが、ビューレイストが「待て」と声を上げた。
「俺はこんな話をしに来たんじゃない」
こんな話とは、先ほどの話か。
わかっていたことではあるが、そこまではっきり言われると失礼にもほどがあるなとオーディンは思いつつ、もう一度腰を下ろす。
「要塞都市のクイクルムを、俺が滅ぼしても良いか?」
目の前の菓子を食べても良いのか、聞くような気軽さで彼は言った。
「・・・はぁ?」
言っていることが、わからなかった。
オーディンさんは自己中をまとめる可哀想な人