プロローグ エトヴァス
「全滅だな」
バルコニーの手すりに腰をかけ、エトヴァスはアリスの次々に打ち上げる魔力を見ながらぼそりと呟いた。
風が中途半端な長さの金色の髪をはためかせる。エトヴァスは髪を短く切るべきかと少し考えたが、面倒くさい。それにこれを見てしまえば、他にしておかねばならないことが山のようにある。
頭上からばらばらと散っているのは、エトヴァスが試しにと展開した結界や防御の魔術で、どれも構造式に穴が開いてしまっていて、本来の効果をもたらすことは出来ない。アリスは残りの魔術もすべて綺麗に打ち抜いていく。どれも魔術としての効果を失い、崩れていく。
アリスの攻撃の構造は単純で、単純だからこそ問題だった。
そしていろいろ試した結果、エトヴァスが出した当座の結論が「防御不可」だ。鬼で、アリスの世話係でもあるメノウもそれは同じなのか、エトヴァスより渋い顔をしていた。
「・・・なにか防御案は?」
「ありません。私の手持ちでは、どうしようも」
真剣な面持ちで三つの目の金色の目がアリスの攻撃を見ていたが、どうしようもないのだろう。さらりと風に肩までの黒髪が揺れる。アリスより僅かに身長の小さい彼女は、それでもアリスより遙かに年上、五百歳を超える鬼だ。
ただ、情けないことに、千歳を超える魔族のエトヴァスも、五百歳を超える鬼のメノウも、たった十歳の少女の攻撃を受け止めることすら出来ない。これはなかなか屈辱だろう。魔族で感情の起伏の乏しいエトヴァスには「屈辱」という感性はあまりないが、冷静に無理だなとは思うし、困惑する。
「鬼でも無理か。俺も、防御はほぼ全滅だな」
いくつか奥の手もあるが、完全に防ぐのは望み薄だろう。むしろこの世界であれを防げる生きものはいるのだろうかとすら考えてしまう。
魔術の使えない、弱冠十歳のアリスが三千歳のエルフ、ヴァラの屋敷にあった大魔術師ルシウスの結界を破壊した理由は、概ね二つあった。
一つは魔力の放出速度だ。アリスは魔力を引っ込めて気配を消すのもうまかったが、逆に放出も得意だった。一瞬でそれを入れかえる。そうした魔力制御が非常に得意だ。そしてだからこそ杖に魔力を流す速度があまりに速い。しかもその莫大な魔力を、爆発するような速度で杖に通してくる。その速度が貫通力を生むのだ。
そして杖の性質がもう一つ。
アリスの杖はもともと魔王を倒した魔術師が使っていたもので、恐らく緻密な魔術が使えるようにと、魔力が通る道を細く、沢山作ったようだ。当然彼もまた莫大な魔力を持っていたはずだから、杖の強度は申し分なかった。
アリスはその細い魔力が通る道の一本に、その莫大な魔力を圧縮し、解き放つことで一気に通した。アリスにはそのつもりはなかったようだが、そうするともはやそれはただの魔力でもすべてを貫く。
世界で最高度を誇る千年前の天才大魔術師ルシウスの結界が木っ端微塵になるわけだ。
ただしはじめから防御不可だと理解していればそれを前提に戦える。ましてやアリスの性格的な欠点はよく知っているので、アリスがエトヴァスに勝利をおさめるのは不可能だ。
だが、防御をする方法が存在しないのも事実だ。アリスのこの能力を利用する方法はいくらでも思いつくが、単純に阻む方法が思い付かない。
「少し後悔していますか?」
メノウが薄笑いを浮かべながら尋ねてくる。
アリスの攻撃は、単純には十分にエトヴァスを攻撃するに足る。その手段を与えたことを後悔しているかと嫌みを言われているらしい。エトヴァスは魔族でそれに苛立つ感性はないので、静かに息を吐いた。
「いや、正しい判断だった」
それでもエトヴァスはアリスに魔術を教えると決めたことを、正しい判断だと考えている。
これからもアリスが他の魔族に狙われることを考えれば、決定的な抵抗手段を早く手に入れられたことは、そしてそれが誰に対しても通じる手段であるということは、利点になる。それが自分に向くことばかり心配しても仕方がない。
「来週には魔王の居城であるヴァルハラに行く。むしろ、その前に“これ”がはっきりしてよかった」
魔王の城で一年に一度行われる将軍会議には、魔族の将軍が登城する。
魔族の将軍は十二人いるが、恐らく全員は来ない。そもそも全員来た会議などない。先代の魔王が死に、今の魔王を決める時ですらも、来たのは11人だった。エトヴァス自身も百年ぶりの将軍会議になる。
ただ上位の魔族も来る場で、アリスが丸腰というわけにはいかない。エトヴァスもアリスの能力に適した魔術で防御しておくのが得策だ。魔術は様々なことができるが、複雑性はもろさをともなう。単純な方が強度は上がるのだ。
だからこそその効果は慎重に選ばねばならない。ましてや魔族と異なりアリスは人間で脆弱だ。腕がとれたら再生しないのだから。
これでアリスにどんな防御魔術をかけるか、方向性は決まった。
「私は鳥肌が立ちますよ」
メノウも長い寿命を生きてきた鬼だ。仲が良かろうと悪かろうと、相手の能力を把握し、シミュレーションくらいはする。頭のなかでアリスとの戦闘を想定したはずだ。
彼女は鬼で、エトヴァスより若いとはいえ五百歳は超えている。エトヴァスに無理矢理主従契約を結ばされたとはいえ相手が悪かっただけで、決して弱い鬼ではない。それにもかかわらず、鳥肌が立つと表現する。
「・・・あれは魔術じゃない。でも、魔術も武器も何もかも破壊してきますよ」
魔術の構造式を直接攻撃しているわけではない。なのに、結界も、防御も、武器でさえもすべてを魔力の密度だけでぶち破ってくる。それに恐怖を覚えるのが、普通なのかも知れない。今までの常識ではあり得ないことだ。
下手をすればアリスの攻撃は、魔術や武器、防壁の概念をすべて覆すかも知れない。
「おまえはアリスを守るのが仕事だ。これから先、敵にならなくて良かったと感謝する日が来るかも知れん」
「もう思ってますよ。私はアリスさまとともに戦うことだけを考えれば良いなんて、すばらしいことです」
メノウは嘆息してから、いっそ晴れ晴れしく笑う。
エトヴァスがメノウにした主従関係はあくまで「アリスを守ること」だ。アリスを攻撃できない。要するにアリスに攻撃される心配はない。ある意味エトヴァスより気楽な立場だ。
「・・・だが、これは黙っていろ」
「アリス様のことを考えれば、何を言えましょうか」
メノウもアリスの「価値」は痛いほど理解しているだろう。だからこそ、アリスを守るために頷き、去って行った。昼ご飯の用意でもするのだろう。アリスの身の回りのことこそ、彼女の仕事だ。
「エトヴァス!成功!?」
アリスが満面の笑みでおっとりと尋ね、白銀の杖を持って走り寄ってくる。
エトヴァスが試しに展開した魔術を全部打ち破って、成功というのかはわからないが、亜麻色の髪を揺らしてエトヴァスの腰に抱きついてくる姿は、ただのお子様だ。
「あぁ、俺たちが途方に暮れた」
アリスは「途方に暮れる」という表現がわからなかったのか、嬉しそうに笑っている。
「もう入るぞ」
アリスに中に入るように促す。
このバルコニーは城で一番高い塔にあるので、天気の良い日でもそこそこ風がある。夏ももう終わりだ。強風に煽られてアリスがバルコニーから落ちる前に、部屋に入るべきだろう。
アリスは部屋に入ってくるなり、すぐに水差しの水をコップに注いでそれを飲み干した。
「疲れたか?」
「え?ぜんぜん」
エトヴァスとアリスが魔術の訓練をしていたのは、二時間ほどだ。
そこそこ魔力を消費しているし、魔力を使うのには神経を使う。だが、アリスは集中していてもあまり苦に感じていないようで、けろっとしていた。集中力が乱れ、魔力制御が揺れる様子もない。
もともとアリスは数年かかる魔力制御も数日でこなしてきた。
エトヴァスのもとに来て半年たつが、確かに魔力の制御を教えていない頃から、アリスの莫大な魔力が感情や体調で揺れたのを一度も見たことがない。アリスは恐らく才能として、魔力制御に非常に長けているのだろう。
ただ欠点もあった。
エトヴァスがソファーに座ると、アリスは嬉しそうに隣に座り、エトヴァスの腰にまとわりついてくる。エトヴァスは彼女と話をするために、彼女の細い体を横向けに自分の膝の上に抱き上げた。
「威力を保持できるのは、重力のある真上で800m、真下で1000m、真横で900mだな。それ以上離れるとこの魔力砲は威力を保持できない」
エトヴァスは冷静にアリスの攻撃の威力や距離を測っていたが、それを聞くと、アリスはきょとんとする。
「・・・そうなの?」
「メートル法は教えただろう。戦闘で必要なのは緻密な計算だ。自分の能力をきちんと把握し、計算しておけ」
「えっと、」
計算、と聞いただけでアリスはすぐに嫌な顔をした。
エトヴァスのところにやってきて半年、勉強関連は少しましにはなったが、アリスが一番嫌いなのが算術だ。計算が一番嫌いで、ミスも多い。こういうタイプは魔術の複雑な構造式が理解できず、だいたい緻密な魔術には向かないと相場は決まっていた。
ただこのまま戦いの場に出せば、恐らく今の魔力を圧縮した砲撃のみですべてを対応するだろう。そういう力押しの戦い方は弱点を見抜かれれば一気に瓦解する。ましてやアリスは人間だ。肉体的に非常に脆弱であるため、油断して食らった一発が命取りになる。
これから上位の魔族を相手にするなら、自分の利点にそった戦い方は良いが、自分の利点のみに頼った戦い方はあとあと高くつく。そして何より緻密な計算は、隙をなくす。
「いいか?魔術は、想像と構造式。このふたつを必要とする」
「そうぞう?」
「どういうふうに魔術を使いたいかという、はっきりとしたイメージだ」
魔術を使うには前提としてそれなりの魔力がいる。それがあった上で、これから得られるであろう効果を明確に想像し、構造式を頭の中に思い浮かべ、それに魔力を通す必要がある。この二つの正確さに、魔術の効果は左右される。
アリスは話が退屈なのか、エトヴァスの着ているシャツの袖のボタンを指でカリカリしていたが、ふと顔を上げる。
「どっちが大事なの?」
「どっちも」
想像と構造式、どちらが欠けても基本的には魔術は発現しない。
「でも、構造式はなんか丸とか三角とかばっかりだよねぇ」
「人間の魔術は特にイメージだからな。基本的に丸は世界、三角は自分、四角は他者。線はそれを区切る。それぞれの配置にも意味があると教えただろう」
エトヴァスは簡単に人間の魔術の構造式を説明する。
「そういえば、なんで、人間の使う魔術は外側が丸いのに、エトヴァスの構造式はいつも外側が三角なの?」
「魔族が個人的な生き物だからだ」
魔族と人間は見た目こそ似ているが、まったく異なる種だ。異種交配もできるが、あまりに生態や食性が異なっている。
そしてその最大の相違が、社会性だった。
魔族は比較的強固な肉体を持ち、単独行動をし、獲物を狩る生き物だ。現在は魔族の軍隊なるものも出来たが、それは利害の一致や恐怖故の集団化で、上位の魔族の間では常に小競り合いが絶えないし、魔王ですら十二人いる将軍の個々の領地には絶対踏み込まない。それをすれば大げんかだからだ。
時代は随分変わり穏やかにはなったが、そうした基本的なルールは変わるに至っていない。
それに対して人間は脆弱な体しか持たず、集団化によって勢力を拡大してきた種族だ。弱い肉体を集団化し効率的に防衛することによって守り、文明を発展させてきた。自分たちを捕食する魔族にも集団化して対抗してきた。
「外縁が丸なのは、人間にとって、世界は他者やその環境も含めた周囲だ。世界は自然であり、社会であり曲線、調和に溢れたものだからだ。それに対して俺たち魔族にとって世界は自分そのものだ。三角は三点からの自己の拡大を示す。周りを取り込みながら穏便に広がる、丸にはなれないのさ」
結果的に魔族も人間も同じ魔術という物を使っているが、魔術がイメージの産物である限り、両者の構造式にもその社会性の違いが反映される。
「うーん、でもそれって、人によらないの?」
「もちろんその通りだ。魔族でも混血でどちらも使えるって奴も多少いる。新しい構造式も開発できる。ただどちらにしても間違いないのは、魔族の俺は魔術に精通しているが、人間のおまえに高度な魔術のレクチャーは出来ない」
エトヴァスはあっさりとそれを認めた。
もちろん多少は人間の考え方も理解できるので、エトヴァスも人間と同じ構造式で魔術を使用することは出来る。だが複雑な魔術を使うための構造式になると、図形や線に意味づけをする強固なイメージが必要だ。
そうするとやはり、人間の魔術の構造式では図形の大きさなどが気になり始める。イメージに誤差が出来る。そして想像できないことは魔術にならない。
「イメージできないなら、想像しやすいように多少構造式をいじってもいい」
「え?そうなの?」
「構造式は道だ。魔力の通る道。浅さ、深さ、形は、基本はあるが、人による」
エトヴァスも構造式の基礎は覚えるべきだと思っているが、応用は人による。最終的には自分が使用しやすく、安定して魔術を発現できることが第一だ。
「ただし、だったとして、基礎は大事だ。しばらく朝に俺が教える魔術の構造式を覚えて、夕方にはできるようにしておけ」
「・・・はーい」
渋い顔なのは、アリスが三角や丸、四角、線など幾何学模様の多用された構造式を覚えるのを得意としないからだ。アリスは緻密な魔力制御は得意なのに、魔術の構造式を理解するのが難しいようで、単純なものは出来るが、それ以外は難しくやる気が出ないようだった。
ただそれを差し引いても、学び初めて数週間の人間としては上出来どころか天才的だった。
「それができれば、エトヴァスの役に立てる?」
アリスがその紫色の瞳を輝かせて問うてくる。ここでアリスの気分を乗せてしまえば良いのかも知れないが、エトヴァスもそういうことはしない。自分の気持ちをそのまま話す。
「前も言っただろう。仮に役に立ってもそれはオプションだ」
「でも、わたしはエトヴァスが大好きだから、役立ちたいんだよ」
アリスは最近よくそう言う。多分、自分を捨てないで欲しいから、役に立ちたいと裏を返すとそういう感情なのだろう。だがアリスの「役に立ちたい」とエトヴァスの求めていることには大きな相違がある。
「ならよく食べてよく寝ろ。そしたらより美味しくなる」
「それは・・・」
アリスはしょんぼりした顔でうなだれる。それは最近魘されてばかりで、よく眠れなくなっているからだ。
「気にするな」
エトヴァスはその少し膨らんだ血色の良さそうな頬を撫でながら、莫大な魔力の香りに、今日も美味しそうだなと考える。
なんてことはない、普通の一日だった。