13.アリス
勝手に塀の出入り口から庭へと、武器を持った人間が入ってくる。アリスはエトヴァスに身を寄せ、ぎゅっと彼の服を握りしめた。幽閉されていたアリスを引きずり出した人達と、同じような服装だ。
その中心にいたのは、アリスも見たことがある、動物園で会った聖職者フロールフだった。
「その子から、離れなさい!」
穏やかそうな表情はもはやなく、フロールフは鬼の形相でエトヴァスに対して叫ぶ。アリスはその気迫が恐ろしくてぎゅっとエトヴァスの腰に強く抱きついた。
「おまえ、魔族だろう?」
フロールフの後ろにいた黒いマントを着た男がエトヴァスに問う。彼は魔術師なのか、金色の杖を持っていた。それを彼はエトヴァスに向ける。
「そうだ」
エトヴァスは隠すこともなく平然と答えた。
アリスがどうしようとエトヴァスを見上げていると、それに気づいたのか翡翠の眼差しがこちらに向けられる。エトヴァスは騎士団の人間達は武器をエトヴァスに向けているのに、全然気にしていないらしく、いつも通り落ち着いていて、ぽんぽんと大丈夫だというように背中を叩かれた。
本当にいつも通りで戸惑っていたアリスの方が少し落ち着く。そしてエトヴァスは、腰に抱きついているアリスの腕をほどき、少し離れるように促してきた。
「動くな!」
フロールフが叫んだが、エトヴァスがまったく介さない。
「杖を持っておけ」
エトヴァスは先ほど拾い上げていた杖を、アリスに突き出す。身長も高く、体格も良い彼には、あまりに似合わない繊細な杖だ。アリスは目の前につきつけられた白銀の杖に怯んだ。なんせ先ほど、結界を破壊したばかりだ。
「次は失敗しない、そうだろう?」
エトヴァスに言われ、アリスは少し考えてからうなずき、その細い杖を握った。
エトヴァスの身長よりまだ長く、緑色の石がついている。銀色の飾りは繊細で、杖自体は細いけれど固く、しなったりはしない。アリスに使いこなせるのかはわからないけれど、掴んでいると何かほっとする。
「その子から離れろ!」
フロールフがもう一度言って、魔術師が何かの攻撃を放った。
「っ!」
アリスの口から意識せずに悲鳴が漏れた。だが、こちらに向かってきたそれは、エトヴァスにたどり着く前に霧散する。エトヴァスは相変わらずアリスを見ていて、騎士団に視線すら向けていない。
「必ず、助けてあげますから!」
フロールフが叫んでいる。きっとアリスに対してなのだろう。それを不思議な気持ちで眺める。
アリスはもともと要塞都市クイクルムの結界の動力源だった。ならば要塞都市フェーローニアの騎士団だという彼らのもとに行けばまた母にされたように、幽閉されてあの一室においていかれてひとり人生を終えるのだろうか。もしくは人間によってまた魔族に捧げられるのだろうか。
人間の世界に、アリスがアリスとして生きられる場所なんて、多分存在しない。
だからといって、魔族はきっと恐ろしい存在だ。母が昔言っていた、人を食べる化けものというのは、間違いない。魔族のエトヴァスですら、他の魔族がアリスに接触するのを驚くほど警戒している。さすがに魔族のすべてが良いとは、殺された人間を見たアリスも思わない。
魔族にとって人間は食糧で、いつ殺しても、いつ捨ててもいい存在だ。きっと、エトヴァスにとってもそれは変わらない。
「来い」
エトヴァスはフロールフの言葉も、アリスが今、エトヴァスの手を取ることに躊躇いを覚えていることも大して気にしない。攻撃を受けていることも、気にしていないのではないだろうか。本当にいつも通り、彼の腕が伸びてくる。
あ、抱っこしてもらえる。それしか、考えなかった。
杖を抱えたまま、片手を伸ばす。案の定、アリストは違う力強く大きな手に軽く抱き上げられた。自分の太ももの下にある、温かい腕に体重を預ければ、もう片方の手がアリスの背中を支えてくれる。甘えるように彼の首に手を回すと、ぽんぽんと宥めるように背中を撫でられた。
いつもそうだ。彼はアリスがどんなに悩んでいようと、考えていようと、アリスになんの重みも感じないように振る舞う。
きっと彼は心底アリスを些細なものだと、思っているだろう。
彼が魔族であり、自分が人間であるというのは、重たいことなのかもしれない。でも彼にとっては重たいことではない。単純で、些細で、どちらでもよいことだ。だからアリスも躊躇わずに彼に手を伸ばす。誰がなんと言おうと、それでいいのだと思う。
思わなければ、アリスはきっと生きていけない。
人間に捨てられたアリスは、人間として生きられない。だからどんなにおかしくとも、捨てられ、喰われることに怯えながらも、魔族である彼と生きるしかないのだ。
アリスはエトヴァスの肩に手をつき、抱えられたまま、騎士団の面々の方を向く。魔術師も酷く驚いた顔だ。フロールフはどこかで気づいていたような顔をしていた。
「それは魔族です、あなたを喰らうものだ・・・」
「知ってるよ」
声は想像していたよりもずっと、自分の高い声はよく通った。まだ人間は怖い。怖くてたまらない。手はまだ震えていて、足もガクガクする。でも、エトヴァスがいる。騎士団の攻撃はひとつも通らなかった。だからアリスも話ができる。
「貴方は、多くの人間が魔族に襲われていることを、何も思わないのですか」
「そういうわけじゃないよ」
何も思わないわけではない。自分と同じ人間が殺されているというのは、心が痛む。痛むけれど、そこに相反する気持ちがあるのも本当だった。
「でもわたしを魔族に差し出したのは、あなたたち人間だよ」
結界の動力源としてアリスを閉じ込めたのも、魔族に差し出したのも人間だ。それで多くの人は助かったんだろう。
「それはきっと、魔族が脅したから」
「そうだったとしても、わたしは捨てられたんだよ」
沢山の人間を救うために、アリスは捨てられた。そしてそれを魔族のエトヴァスが拾い上げた。
彼は人じゃない。そんなことはアリスが一番知っている。でも少なくとも目の前のこの男は、半年自分を裏切ったことがない。もちろん、血肉を喰らう魔族であることに変わりはないけれど、だからこそ食糧の自分を大事にしてくれる。
アリスが身体的にも精神的にも健やかであることが重要だと、望むものはなんでも与えてくれる。
もちろんエトヴァスのすべてが信じられるわけではない。手ひどく裏切られるのかも知れない。でも、既に人間には、捨てられている。まだアリスを裏切ったことのない彼以上にアリスが信じられるものなどこの世に存在しない。
「だからわたしに、同じ気持ちを求められても、困る」
人間は同情や悲しみへの共感を求めてくる。だがそれは共通の育ちや経験、背景があってこそで、アリスにはそんなものない。同じ種族だからと言われても、犠牲の尊さもその温かさを甘受したことなどないのだ。
アリスは沢山の人間を救うために捨てられた命だ。人間への哀れみを求められても、アリスは共感できない。
「わたしを抱っこしてくれるのは、彼だけだもの」
アリスはエトヴァスの肩に手をおき、首を伸ばす。そして幼い頃、昔、父がしてくれたように彼の頬にそっと口づける。それが最大限の慕わしさを示す方法だと、アリスは父から教えられていた。
エトヴァスはそれを拒まない。きっと彼は今、アリスがこれみよがしにこうする意味が、わからないだろう。わからないけれど、放っておいてくれる。アリスは人間だからこそ、この挑発的な行為の意味がわかっていた。そして相手もわかったはずだ。
「っ、魔族に与するというのか!!」
黒いマントを着た魔術師が叫んだ。アリスはそうとりたいならそうとれば良いと思った。だってアリスにとって、一番大事なのはエトヴァスだけだ。人間などどうでもいい。
人間はアリスをおいていった、捨てたものだ。アリスが捨てて、何が悪い。
「話は終わったか」
「うん」
エトヴァスの確認に、アリスは頷く。もう十分だ。アリスの答えはもうとっくに出ていいる。出ていたのだ。
だからぎゅっとエトヴァスの首につかまる。
「ヴァラ、そいつ、大丈夫なんだろうな」
エトヴァスが最初に視線を向けたのは、ヴァラだった。
彼女は「もちろん」とにやりと笑う。シグルズは何が起こるのかと腰を低くした。どうやら武器を腰に隠し持っているらしい。杖や剣はいくらでも魔術で小さくできるので、当然だ。それを確認してから、エトヴァスははじめて騎士団の面々に目を向けた。
「おまえらの言うことはよくわからないが、身に覚えのないことで詰め寄られるのは迷惑だな」
平坦な、いつも通りの声音だった。
フロールフをふくむ騎士団の人間はそれぞれ武器を取り、エトヴァスを攻撃しようとする。エトヴァスは僅かに口角を上げ、アリスを抱える腕とは反対の手を、振り上げた。
その手には三角形の魔術の構造式が浮かぶ。それがエトヴァスが左手を地面に平行に振るだけで、八つ現れた。
「マーキングして正解だった」
構造式が八つ、宙に現れ効力を持って魔術を紡ぐ。人が入れそうな位の大きさの外縁は三角の、内縁は複雑な幾何学模様の構造式は、淡く緑色に光ると途端に何かを吐き出した。
「いたたたた、」
落ちてきたのは、作業着姿の男だ。アリスが動物園で見たダチョウの傍にいた若い男性で、飼育員をしていた。エトヴァスがあとから魔族だと言っていた男だ。
魔術からは次々と魔族が出てくる。
「なっ!」
騎士団の人間は、突然現れた魔族たちに驚く。魔族の人数は八人。
複数魔族がいるという話はエトヴァスから聞いていたが、二,三人だと思っていた。アリスが予想していたよりも遙かに多くて驚いていると、エトヴァスはこの混乱した状況にもかかわらず、落ち着いた様子で「帰るか」と言った。
「え、帰るの?」
「参加したいのか?」
至極、不思議そうに返され、アリスはそんなはずもないので、首をぶんぶんと横に振った。
いつの間にか騎士団と魔族が交戦状態になっている。しかも騎士団と同じくらいの数なので、酷い混乱状態だ。突然放り出された魔族たちも、自分の身を守るために騎士団を見れば戦わざるを得ない。引っ張り出した本人であるエトヴァスに気を配る余裕もないようだった。
「相変わらずなクソみたいなやり方だな・・・」
近くにやってきたヴァラがげんなりした様子で、ため息をついた。
「え、相変わらずって、よくやるの?」
「あぁ、自分で戦うの、面倒だろ」
アリスが尋ねると、エトヴァスは臆面もなく言う。
ヴァラはというと、ちらりとシグルズに目をやる。気の毒に魔族のひとりに襲われている彼は、ヴァラの方を見る余裕もない。ヴァラはというとこちらがわかるほど大きく空気を吸い込んだ。
「シグルズ!!先に行ってるぞ!」
「お、俺だけおいてくのぉおお?!」
明るいヴァラの声と裏腹に、シグルズの声は悲痛だ。
「俺たちは行くぞ」
エトヴァスは、シグルズはおろか誰も振り返らない。先ほどのアリスとフロールフの会話も、何も興味がないだろう。
だから、いいのだ。アリスは彼と自分の関係だけを考える。
「うん!」
アリスが大きな声で返事をし、腕を首に回せば、宥めるように背中をぽんぽんと叩かれる。それが酷く安心できて、アリスは体の力を抜いた。