12.エトヴァス
「アリス」
庭に出てアリスを見つけると、彼女はばらばら上から散ってくる結界の破片もそのままに、呆然とした面持ちで立ち尽くしていた。
白銀の杖は、地面に力なく落ちている。ヴァラも呆然とした面持ちで、散りゆく結界を眺めていた。
エトヴァスが上をみて確認すると、中心に大きな穴が開いていて、そこからガラガラと崩れている。かなり複雑な構造式を積み重ねた結界だ。要塞都市の結界もそうだが、穴があかなければ強固だが、穴があけば崩れるのは一瞬。修復する暇もない。
複雑な構造式を有する強固な結界など、そういうものだ。
「え、エトヴァス、わたし、魔力を、」
どうしようと小さな手をわなわなさせ、完全に声がうわずっていた。
ただアリスが危惧しているのは魔力制御に失敗したことだが、そちらはたいした問題ではない。むしろ結界の方が壊れているのを見て、エトヴァスは思わず感心してしまった。
ここの結界は千年前の大魔術師ルシウスが作った逸品だ。
それを完全に破壊することは、簡単ではない。これは人間の結界だ。だからエトヴァスでもおそらく十年以上かけて構造式を分析して、人間に手伝ってもらって解法まで見つけなければ絶対にできない所業だ。十歳そこそこのアリスがそんなことをできるわけもないのだが、どう考えても先ほどの爆発的な魔力は、アリスのものだった。そして事実として結界は完全に破壊されてしまっている。
一体どうやってぶち破ったのか。
「落ち着け、今のおまえの魔力は安定している」
エトヴァスはアリスが落ち着くように小さなアリスの体を自分の方へと引き寄せる。アリスはこわごわとその紫色の瞳をこちらに向けてきたが、エトヴァスの表情がいつも通りであることにほっとしたのだろう。腰に抱きついてきた。
アリスに腰にまとわりつかれたまま、杖を拾い上げる。触れた瞬間わかった。
「おまえ、魔力を調節せずに通したな」
随分と魔力を通しやすい杖だ。一瞬にして魔力が通る、物理的にも軽いが、莫大な魔力を使うという点で速度の出やすい杖だ。
アリスはこの杖にはじめて魔力を通した。しかもアリスはまだ魔力制御を学び初めて数週間だ。通す魔力を制御できず、莫大な魔力をそのまま通した。そしてそれをそのまま上へとぶち上げたのだ。結果、結界が破壊された。
「と、通せって言われたから、そ、そのまま」
ぎゅっと腰に回された細い腕に力がこもる。
魔力を通せと言われ、そのままその莫大な魔力を赴くままに杖に通した。ただそれだけのことだとアリスは言うが、不味いことをしたというのは大いにわかっているのだろう。
エトヴァスはぼんやりと空を見上げる。清々しいほどに晴れた青い空から透明な結界の破片がバラバラ落ちていく。光が反射するこの光景を見られるのは、魔力の高い生きものだけだ。魔力の低い生き物は魔力を視認できない。当然壊れる結界の破片もみえない。
ばらばらと崩れ落ちるそれは、しばらくすれば跡形もなく存在をなくすだろう。千年前の天才の結界は、同じ人間の、しかも魔術を習いはじめて数週間の人間の手で無残な姿になり、こんなに簡単に崩れていっている。
何故こうして壊れたのか、理由はわかった。だが普通、そんなスピードで杖に魔力を通すことはできない。恐らくアリスは無意識に莫大な魔力を圧縮して、一方方向に押し出したのだろう。
「あははははは!!」
甲高い声があたりに響く。弾かれるようにそちらに視線を向けると、ヴァラが笑っていた。
「なんて、なんて素晴らしいんだ!」
手を叩いて、ヴァラが笑っていた。心から、酷くおかしそうに、全身で面白さを表現している。
だが壊れたように笑うエルフにアリスは恐ろしさを感じたのか、その様子をこわごわと眺め、エトヴァスに抱きつく腕に力を込めてきた。だが、ヴァラの喜びはわかる。彼女は戦闘狂だ。アリスの能力は彼女の望むものだっただろう。
ただアリスは自分がしたことすら、まだよくわかっていない。
「アリス、おまえはここの結界が誰によって張られたのか、俺が話したのを覚えているか?」
エトヴァスが問うと、アリスはおずおずと口を開いた。
「う、うん。大魔術師ルシウス?」
覚えてはいたらしい。
「あははは!それではアリスが理解するには説明が不十分だ。ここはもともと奴の屋敷で、私がもらった。大魔術師ルシウスが、千年前に張った、不撓の結界だ!」
笑い転げていたヴァラが、腰に手を当てて言い放った。
大魔術師ルシウス、有史以来人類最高の魔術師だ。
千年前に実在した人物で、彼が六つの要塞都市に対魔族の結界を張った。それが人間の安定した発展の基盤を気づいたと言っても過言ではない。エトヴァスも知っている。彼はまさに天才と言うにふさわしい人物だった。現在でも人間の使う魔術の四分の一の構造式は彼が考案したといっても間違いない。
エトヴァスは半年ほど前にその要塞都市の一つクイクルムの結界を破ったが、千年ではじめてのことだ。ただそれはエトヴァスが数十年結界の傍で暮らし、構造式を分析し、人間の力をかりて解法まで探し当てていたからであって、他の都市の結界は別の構造式を持つため破壊できない。
この結界も同様だ。ただそれを、アリスは力で押し破った。
「・・・実は、たいしたこと、ないひと?」
「どうしてそういう結論に達する」
アリスの出した結論に、エトヴァスの方が異を唱える。確かに彼女にとってはそうなのだが、そう認識して欲しいわけではない。
「あははははは!そうだ!おまえにしてみればどの結界もたいしたことがないだろうな!!」
ヴァラは高らかに笑っている。おかしくてたまらない。彼女の心情がその態度にあふれ出ている。常に冷笑的に笑っていた彼女が、心の底から笑っている。だが、その姿はやはり狂気を孕んでいた。
「ここの結界の強度は要塞都市のそれに勝るとも劣らん」
これをたいした事がないと言われれば、対魔族結界に苦しみ、侵攻できなかった魔族も、それに守られ繁栄を謳歌してきた人間も、たいそうつまらないものに阻まれ、縋ってきたと言うことになる。いや、近い将来、間違いなくそうなる。
「え、でも、そう言えば結界は内側からなら破れるって・・・」
アリスの部屋には外からの魔族の侵入を阻むための結界がある。
アリスが魔力の制御と魔術を学ぶに当たり、部屋に張られた結界は外側からの攻撃には強いが、アリスが莫大な魔力でそれを内側から破るのは簡単で、可能性であるとも話していた。だが大魔術師ルシウスの結界の素晴らしいところは、そこだ。
「要塞都市の結界は、何らかの理由で魔族に人質を取られた人間の魔術師などが、なかから破ってしまう可能性がある。だから内側も同様の強度があるんだ」
エトヴァスはまだよくわかっていないアリスに説明する。
要塞都市の結界は、内部を魔力を使った攻撃に弱くしてしまえば強度は上がる。だが魔族に人質を取られた魔術師などが、結界を内側から攻撃する可能性は大いにある。そのため大魔術師ルシウスは、結界の両側の強度を最高レベルまで上げていた。
「でも、ここは」
「ここは大魔術師ルシウスが、人間や魔族の争いに関与せず、安住の地を欲したがために生み出された屋敷の遺跡であり、その結界だ」
やっと理解したのかアリスが壊れていく結界を見上げる。だが最初に心配したのは別のことだった。
「・・・え?これ、エトヴァスが破ったって、勘違いされない?」
「おまえが破ったと吹聴されるより、ずっとましだな」
エトヴァスはさして何も感じたわけではなかったが、自分でもわかるほど、面倒くさそうな声が出た。アリスはそれをことのほか気にしたようだったが、それよりも、この結界が破れたことにより反応する奴らに対処せねばならない。頭の中で算盤を弾いていると、またヴァラが高らかに声を上げた。
「だが、予想以上だ!予想以上だよ!アリス!!」
ヴァラは一通り笑うと涙のたまった目尻を拭い、それからその少女らしい細い手ですいっとアリスを示し、その新緑の瞳をエトヴァスに向ける。笑っていたが、その目には明らかな険がある。
「十五年だ」
「・・・」
「私は十五年の間に、アリスを戦場に引きずり出す」
逃げられない舞台を作るぞと、ヴァラは笑う。アリスの腰が退けるほど、凄みのある笑みだった。
ヴァラは戦闘狂だ。エトヴァスは常にヴァラとの戦いから逃げているし、これからもそうするつもりだ。それなのに彼女は、アリスを舞台に引きずり出すという。しかもそれをアリスではなく、エトヴァスに言うのだ。
「簡単に、引きずり出せると思うか」
アリスはエトヴァスの食糧だ。その血肉はエトヴァスのもので、安全が第一。そんな危険なことさせるわけがない。
「やってみせるさ。ルカニアを引っ張り出してでもな」
エトヴァスが言えば、挑戦的にヴァラが返した。ヴァラの眼には、燃え上がるような熱意があった。先ほどまでの冷めた、平坦な眼とは違う。
「私はさぁ、ずっと血湧き肉躍るような戦いを欲してた。エトヴァス、おまえも、私も何も変わらない!退屈なんだ!退屈なんだよ!」
ヴァラは唇の端をつり上げ、歪に笑う。
ヴァラのように三千年も生きれば、戦う強い相手はいなくなるし、そもそも対等に戦える相手はある程度手数がわかり、数百年たってもさほど実力は大きく変化しない。ある程度何割の確率で勝てるか、どの手を使うか、シュミレーションできてしまうのだ。
退屈だ。退屈でたまらない。
エトヴァスもアリスがいるとやるべきことが多すぎて忘れていたが、抱いたことのある感情だった。無駄なことはしたくない。でも退屈で、退屈でたまらない。
そして退屈は人を狂わせる。
「なら、何故そんな無駄なことをする。嫌がらせか」
エトヴァスは首を横に振った。
ヴァラの言うことは、長く生きてきたエトヴァスには大いにわかることだ。ただ、だからこそ心底理解できない。
アリスがヴァラに勝てることは、恐らくあり得ない。アリスは人間で、彼女には年月で積み重ねた強さがある。仮に魔力量で勝っていたとしても、それは単純な勝利につながり得ない。アリスが千年を重ね魔族であるエトヴァスに敵わないように、彼女にも敵わない。
エトヴァスの言葉にヴァラは愛おしそうに、そして楽しそうにアリスに視線を向ける。
「アリスには、エトヴァスがいる」
アリスを戦場に引きずり出せば、同時にその血肉を餌にしているエトヴァスがついてくる。
「え?・・・エトヴァスと戦いたいの?それなら、ふたりでいいんじゃないの?」
「おい」
アリスの言葉に一応抗議するが、どちらにしろエトヴァスにもアリスにもヴァラの話の行方がわからない。
アリスは変わるから面白い。エトヴァスは変わらないから面白くない。だからアリスを戦場に引きずり出すのならわかる。ただアリスは恐らく一生ヴァラに勝つことはできない。彼女のお眼鏡にはかなわないだろう。
そして彼女も結局、アリスとともにエトヴァスも戦場に引きずり出したいという。確かに彼ならヴァラに勝てるのかも知れない。
だがそれならアリスはいらないはずだ。
「アリス、おまえは五年後、十年後、十五年後、まったく違う動きをしてくるだろう」
ヴァラの言葉に、そういうことかとエトヴァスは理解した。
ヴァラとエトヴァスの姿は恐らく千年間ほとんど変わっていないのだろう。だがアリスがエトヴァスのところにやってきてたった半年でアリスの身長は五cm伸びた。体重も五キロ増えた。そうやって、ヴァラらから見ればアリスは急速に変わっていく。それにともない戦い方も変わっていくのだろう。
「おまえはどんなに努力しても、私には勝てん。熟達度は埋められんからな。だが、その熟練度のたらなさは、エトヴァスが埋める」
アリスが足りないもの、持ち得ないものは、エトヴァスが持っているとヴァラは言う。要するに、彼女は変化に富んだアリスと緻密で熟達した魔術師であるエトヴァス、このふたりとまとめて戦いたい。それぞれと戦いたいわけではないのだ。
そして、そう思った原因はアリスの結界を破壊するほどの突破力だ。
「それならおまえ、勝算がないんじゃないか」
言いたいことがわかっても、エトヴァスは理解できなかった。
アリスは何もわからないのに大魔術師ルシウスの結界を破壊した。当然これほどの結界がアリスの前で防壁にならないのなら、他の生物の多少の魔術防壁や鎧など、欠片の意味もなさない。紙切れほどの役にも立たず、崩れ落ちるだろう。
それはヴァラ自身の防御も同じだ。アリスは防御をすべて打ち破ってくる。
もちろんアリスは魔術に関してはド素人だ。これからもヴァラの熟達度に届くことはない。だがそこはエトヴァスが補う。アリスへの攻撃は、基本的にエトヴァスが通さなければ良いし、あれほどの威力を発揮できるのなら、遠距離も可能だ。
魔術攻撃が不可能なほどの安全なところから敵を狙わせれば良い。エトヴァスとアリスは極めて有利だ。仮にヴァラが自身で舞台を整えたとしても、ヴァラにとって相当危険な戦いになる。勝算は乏しい。
「どうせ戦場で死ぬなら、本望さ」
ヴァラは楽しそうに即答した。それ酷く楽しそうで、同時に疲れた老婆のようだった。そういう眼をした生きものを、エトヴァスは腐るほど見てきた。
「おまえの自滅に俺たちを巻き込むな」
エトヴァスがそう言うと、彼女は一瞬、目を見開いた。
その言葉は本心ではあったが、エトヴァスは自分でも「俺たち」と自然に発言したことに驚く。エトヴァスはいつの間にか、自分とアリスを「俺たち」であると考えているのだ。それは妃もパートナーもおらず、誰とも時間をともにしてこなかった自分らしくはなかった。
ヴァラが驚いたように、そしてやりきれないとでも言うかのように表情を歪める。それが迷っているようにも見えて、エトヴァスは彼女を見据える。だが、続けて何かを言おうとしたが、ヴァラの視線が動いた。
結界が破れたのに気づいたシグルズが、屋敷の中から庭へと出てきたのだ。
「おいおい、大丈夫なのか?アリスに怪我は?」
シグルズは状況がつかめないらしく、崩れた結界の破片を踏んでしまう。それはもともとなかったかのようにすぐに霧散した。
「おまえ、ちょっとは私の心配もしろよ」
ヴァラは先ほどの話などなかったように笑って、ばんっと背中を叩く。
「いや、ヴァラはぜってー大丈夫だろ」
シグルズはヴァラに軽口を叩き、アリスに視線を向けてくる。確かにこの場で怪我をしそうなのはアリスのみだが、そのアリスが今回の騒動を引き起こした発端だ。罪悪感があるのか、アリスは怒りでも悲しみでもない、なんとも言えない表情をしていた。
「派手に破壊したな」
エトヴァスは破片すらも霧散し始めている結界を見上げる。
「なおせる?」
「無理だ」
アリスが言うが、こればかりはさすがにエトヴァスにも無理だ。
なおせるならくらいなら、ここに千年もとどまる結界ではない。この結界は千年もの間、あらゆる争いからこの屋敷を守っていた。
だがそれも今日で終わりだ。
まだ、杖の使い方がわからないから、アリスが杖先を上に向けていただけ良かったと思うべきだろう。真横に向けていれば、下手をすれば町ごと穴を開けていたかも知れない。
「もうその杖は使えるのか?」
先ほどの会話などなかったかのようにエトヴァスは白銀の杖をアリスの代わりに持ちながら、屋敷の外に視線を向け、ヴァラに尋ねる。
自分を舞台に引きずり出すと言っても、どうせ相当な用意がいる。ヴァラにはパートナーも必要になる。ルカニアは行方不明だというから探して連れてくる方法を考えるしかないだろう。どちらにしても時間がかかるだろうから、エトヴァスにはしばらく関係がない。
「もう少し微調整をしてもらいたかったが、長くは滞在できなさそうだ」
ヴァラも何事もなかったように答えたが、視線は外だ。
庭と通りの境界線となっている、塀。その入り口のところに何人もの人間がいる。
要塞都市フェーローニアから来た騎士団だという人物たちだ。結界の破壊はある程度距離があっても魔術師や騎士にはわかるのかも知れない。聖職者の格好をしたフロールフだけではなく、黒い服を着た魔術師や武器を持った騎士もいる。
全員の目に、こちらに対する明確な敵意があった。