10.エトヴァス
エトヴァスはソファーに座ったまま、土下座している少年に視線を向ける。
土下座というのを本で読んだことはあったが、されたことはなかった。個人主義の魔族に強さという尺度はあるが、礼儀という概念はない。これは人間の文化だ。もしかしたら他の種属にもあるのかも知れないが、どちらにしても千年生きてきて、はじめてのことだった。
「魔族を見つけてください!」
シグルズは頭を絨毯の敷き詰められた床に打ち付ける。
ヴァラはというと近く腰に手を当て、にやにやしている。恐らく嫌がらせという奴なのだろうが、これも魔族にはあまりない概念なので、よくわからない。
エトヴァスの隣に座っているアリスはというと土下座の意味がわからないのか不思議そうに首を傾げている。よく考えてみると、アリスが頭を下げる生物を見たのははじめてかもしれない。確かに鬼のメノウはアリスの世話をするとき、アリスに頭を下げることはなかった。
これからのために、会釈くらい教えた方がいいかもしれない。
「なぁ、あんた、魔族なんだろ」
地べたに座ったまま、シグルズがその藍色の瞳を真っ直ぐエトヴァスに向けてくる。アリスが顔色を変えた。
シグルズには核心があるのだろう。あるいは、ヴァラが教えたか。ならばあえてそれを口にするのは何故なのだろう。
「人間にとって魔族は天敵だろう。それをわざわざ言って、俺に殺されると思わないのか」
「・・・あんた、俺に興味ないだろ」
「ないな」
エトヴァスは臆面もなく認めた。
エトヴァスは彼にまったく興味がない。ヴァラですら実力があるし、襲ってくるから警戒しているだけだ。そういう興味しかない。だからたいした実力もない彼は、エトヴァスの興味にすら値しなかった。
「あんたはこの間、アリスに手を出した魔族を殺したって言ってた。魔族は魔族を殺すってことだろ」
人間は基本人間を殺すことを忌避する。アリスのように魔族に差し出されることもあるが、それはまれな例だ。逆にこれが魔族なら、住民と天秤にかけたとかそんなたいそうな理由がなくても自分が助かるためならやるだろうし、同族が目の前で殺されていても助けない。
だからこそ魔族のエトヴァスなら利害が一致すれば魔族を殺すのに協力する可能性があると踏んだのだ。
「あんたはあの騎士団がうっとうしいはずだ」
シグルズは藍色の瞳を窓の外にいる騎士団に向ける。
ヴァラの屋敷の外には間違いなく、要塞都市フェーローニアの騎士団の何人かがいる。彼らは恐らく魔族がこの屋敷にいると思っているのだろう。当たっている。エトヴァスはここで何人もの人間を食い殺した魔族ではないが、人間を喰っているのに魔族であるのには変わりない。
「俺は、あいつらが嫌いだ。そしてあんたは騎士団のやつらがあんたを疑っていることを知ってる」
要するに騎士団の排除を手伝うから、魔族を殺すのを手伝えと言うことだ。エトヴァスがソファーの肘置きに頬杖をつくと、すっとシグルズの視線がエトヴァスに見えるように、ヴァラの方へ向けられた。ヴァラには見えなかっただろう。
これからの話のために、彼はヴァラを退出させたいのだ。
「だから魔族を見つけるだけで良いから、お願いします!」
頭を下げるシグルズの焦げ茶の旋毛を眺めながら、エトヴァスはこめかみに手を当て少し考える。
この事態を持ち込んだのは間違いなくエトヴァスだ。動物園であったフロールフという男は、うすうすエトヴァスを疑っていたのだろう。動物園など行くべきではなかったのかもしれないが、アリスも動物について学んだだろう。仮に魔族だと気づかれていたとしてもそうだったとしても些末なことだ。
外の奴らを始末するのは、容易だ。騎士団など、エトヴァスにとってたいした問題のない相手である。魔族数人も、別に問題はない。考えるべきは状況が混乱すれば、ヴァラに襲われたときに逃げ損なう可能性があることだ。
もちろんヴァラはエトヴァスとふたりの舞台をのぞんでいるだろうが、アリスを巻きこまれては困る。ヴァラの目的は強い相手と戦う事で、アリスなど眼中にない。ただ目的のために巻き込む可能性は十分にある。
あるにはあるが、仮にそうだったとして、今のエトヴァスにはたいした問題ではない。
「杖は?」
エトヴァスは当初の目的を、興味深そうにシグルズの行動を見ていたヴァラに確認する。
「少し使ってみて欲しい。あとは微調整だけだ」
ヴァラは白銀の杖をその手に持っていた。
彼女はおろかエトヴァスの身長よりまだ長い杖だが、柄が細く繊細な飾りがついており、軽そうだ。上には緑色のきらきら光る宝石のような菱形の石が銀色の繊細な装飾に絡め取られるようについている。
見慣れた杖だ。エトヴァスが百年前一緒に住み、そして喰った莫大な魔力を持った魔術師の杖だ。それをアリスが選ぶとは、思わなかった。だがいまさら憐憫もないので、彼女がそれでいいと思うのなら良い。もう喰った男のことだ。いまさらどうでも良い。
アリスはソファーから立ち上がり、杖を受け取る。
「うん。使いやすそう」
「魔力を流せるか?」
「えっと」
ヴァラに尋ねられ、アリスの紫色の瞳がこちらに向けられる。
この屋敷には庭も含めて結界が張られているため、外からは中のことはわからない。シグルズもアリスがそこそこの魔力を持っていることに既に気づいているだろう。
「じゃあひとまず、庭に出るか」
ヴァラがアリスを促す。エトヴァスは「行ってこい」と短くアリスに言った。
「え、エトヴァスは?」
「行ってろ。あとで行く」
エトヴァスは躊躇うアリスを送り出し、目の前にいるシグルズを見下ろす。これで彼はヴァラに聞かれずに話ができるはずだ。
「立て」
「え、でも」
「純血の魔族には土下座どころか礼儀の概念がない」
「・・・」
シグルズはものすごく戸惑った顔をした。自分の労力がまったく無意味だったと理解したのだろう。ぽんぽんとつなぎのズボンの裾についた埃を払う。
「正しい判断だな」
エトヴァスが言うと、彼は意味がわからないようだった。だがエトヴァスは心底そう思っていた。
「ヴァラはおまえに協力しない」
シグルズがヴァラではなくエトヴァスに頼んできたのは、正しい判断だ。
ヴァラとエトヴァスなら、まだエトヴァスの方が魔族を殺すのに協力する可能性がある。人間は天敵である魔族を危険であると幼い頃から教え込まれる。そのため人間ならエルフと魔族を比較すればエルフのほうがと考えてしまいがちだが、その点少年の判断は冷静だった。
魔族を探す魔術など、ヴァラでも十分にできる。だが、ヴァラは絶対シグルズには協力しないだろう。彼女はそういう奴だ。シグルズを弟子としてそれなりにかわいがっていたとしても、手助けなど絶対にしない。可能性すらない。
「あんただって、アリスがいなけりゃ、いや、ヴァラもだよな。ふたりがいなけりゃ俺なんてどうでもいいだろ」
シグルズは的確にエトヴァスの性格を読んできていた。
確かにその通りだ。ヴァラという脅威がなければ、エトヴァスはシグルズに協力しようとは微塵も思わないと、彼は予想しているのだろう。
「俺がそれを言って、不愉快になると思わないのか」
「そんなことならアリスを不愉快に思ってるはずだ。あんたにそういう神経はない」
たまに感じていたことだが、人間が見るにアリスのエトヴァスに対する懐き方は異常らしい。ヴァラからは親にしがみつく小猿のようだとまで言われた。アリスは動物をほぼ知らないから、意味がわからなかったに違いない。人間の価値観で言うなら、べったりというのが正しいだろう。
エトヴァスとしては求められることをしているだけで特別優しくした記憶はないが、特別冷たくする理由もない。
アリスが望むのはいつも些末なことだ。魔族で筋力の強いエトヴァスは、軽いアリスがしがみついても普通に動けるし、抱っこをねだられても視界さえ塞がなければどうでも良い。時間に急ぐこともないので、何を聞かれても、何を望まれても大方どれも特別拒む理由にならない。
「さすがに・・・礼儀の概念がないとは思わなかったけど」
「一応人間の文化はよく知っているからな」
エトヴァスは人間の中で暮らしたことがある。だから概念がなくとも、人間の文化や習慣に沿って動くことはできる。だからまさか礼儀の概念がないとは思わなかったのだろう。
「俺だって魔族が好きなわけじゃない。でもあんた、絶対魔族のなかでも変な奴だろ」
「典型ではないな」
エトヴァスは控えめに言った。
それでも、感情の起伏が乏しいことも、食欲に忠実であることも魔族の域を出るわけではない。ただ、力で序列をつける魔族のくせにエトヴァスは戦いが好きではないのですぐに逃げるし、餌となる人間を飼っているのも珍しいパターンだろう。だが、そんなことを言い出せば上位の魔族になるともはや変な奴ばかりだ。
必ずしも常にセオリーに当てはまるわけではない。
「まぁ、どうでもいいことだな」
エトヴァスは騎士団に警戒しているし、ヴァラにも同じだ。
仮にこの町にいる魔族の場所をシグルズに話したとして、エトヴァスには何のデメリットもない。彼が魔族を片付けてくれれば万々歳。片付けてくれなければそれはそれで、どうでも良い。邪魔なら自分が皆殺しにすれば良い。
誰が死のうと、エトヴァスにはアリス以外どうでも良い話だ。
だからこそ、はっきり言ってエトヴァスは今、シグルズにわざわざ魔族の居場所を教えてやる義理はない。それにもかかわらず無駄なのにシグルズの話を聞いているのは、暇だか
らだ。
もうそろそろ話を打ち切ろうかと思い始めた頃、シグルズが庭の方を見て話を変えた。
「あんたさ。天空のビューレイストだろ」
シグルズは、エトヴァスの魔族としての名前を言い当ててきた。エトヴァスは魔力探知で外のアリスとヴァラの様子をうかがう。
アリスの魔力の気配がする。ヴァラがアリスに杖を試しに使わせているのだろう。ヴァラは信頼に値しないが、アリスにはそこそこ強固な防御魔術をかけている。アリスが魔力を暴走させて自分で防御魔術を破らない限りは、ヴァラであっても第一撃をふせぐには十分だろう。
アリスの魔力制御は非常に正確で、ぶれがない。人間に対する恐怖に震えていたときですら、魔力に揺れはなかった。だからここで話しをして、放っておいても問題はないはずだ。むしろヴァラが帰ってきてこの話に変な茶々入れをされる方が面倒だった。
「要塞都市のクイクルムの結界破った魔族の将軍だ。違うか」
「そうだな」
否定することでもない。シグルズは肯定すると、ぐっと拳を握った。
「おまえ、馬鹿じゃないんだな。何故、わかった」
「ヴァラが対等に話すなんて、強いに決まってる。それにあんた、人間のこと知りすぎだよ。でも逆に言えば知ってなかったら人間の結界、破れねぇだろ」
シグルズの考察は概ね、正しい。
魔族のなかで良くも悪くも人間をよく知る魔族は少ない。名の知れた魔族の中では、人間の妃を持ったことがある魔王オーディンと眩暈のヘルブリンディ、人間をよく捕らえる邪神ロキ、そして要塞都市クイクルムの結界を破った天空のビューレイストくらいだろう。
そのなかでもビューレイストは百年前に当時一番有名な魔術師を喰っていることでも有名だ。
ヴァラは三千歳を超える、有名なエルフだ。その彼女に一目置かれる存在だと考えれば、このあたりのどれかだと考えたのだろう。そして人間のアリスを連れていることを考えれば、すぐに思い当たる。
「なら、アリスはクイクルムの対魔族結界の動力源だったんだろ。俺、いらないこといったよな。ヴァラが怒鳴るわけだよ」
シグルズは悲しげにそう言って項垂れた。
「・・・なぁ、アリスも喰うのか」
「当然だろう、あれは俺の食糧として飼ってる。今もそうだし、死ねばその血肉は俺がもらう」
「飼い殺すのか」
「その言葉は語弊があるな」
エトヴァスはシグルズに向き直り、彼の藍色の瞳を真っ向から見据える。
「飼い殺しとは、役にたたなくなった家畜を死ぬまで飼ったり、本人の能力を生かせない場所におくことだ」
「ちがうのか」
「俺はアリスが好きにすれば良いと思っている。だから知識も与えた。魔術も教えている。俺にその血肉を与えてくれる限り、自由にさせてやる」
別にエトヴァスにはやりたいこともないし、長い寿命がある。その百年をアリスにわけても、痛くもかゆくもない。その血肉を提供してくれるなら、何をしてくれてもいい。暇つぶしだと思って付き合うだろう。
だから「飼い殺し」というには語弊がある。せめて「飼育」といってほしい。
「・・・でもあんたが魔族で地位のある奴なら、俺も利用価値があると思うよ」
シグルズの藍色の瞳が真っ直ぐエトヴァスに向けられる。それには見覚えがあった。野心のある、覚悟を決めた人間の眼だ。
「聞かせてもらおうか」
エトヴァスは僅かに笑んで、答えた。
アリスにかこつけた情などに興味はない。立派な利害を提示してもらえるなら、協力の余地は十分にあった。