プロローグ
まず気づいたのは体の痛みだった。
首に激痛。起き上がりたかったが、体が動かない。手すらうまく動かせないことに気づく。体に力を入れるが、少し動こうとしただけで体中が痛い。ただそれ以上に首が酷い痛みとともに熱も放っているので、体の痛みが些細なもののように思えた。
自分はなにをしているのだろう。
痛みをこらえながら、もう一度身を起こそうとするがちっとも動かない。かわりに眼だけを動かす。視界の端にあるベッドの白いシーツには血がまだらににじんでいた。それが痛む首からの血なのか、他からなのか、なにもわからない。
「・・・治さないのか?」
低い声でなにか問われた。酷く落ち着いたその声を聞き心地が良いと思ったのは、頭がうまく働いていなかったからだろう。
頭をそちらに向けようとする。簡単な動作のはずが、首に激痛が走った。それでも相手を確かめなければならない。昨晩は真っ暗で、ほとんどなにも見えなかったのだ。首が動かないので、恐る恐る視線だけを声の方へと向ける。
朝方なのか部屋は薄暗いが、部屋を見渡すに十分な光が窓から入り込んでいる。ベッドの傍にある椅子に誰かが足を組んで座っていた。
男の人だ。
しっかりとした体つきの男性で、座っていても高いとわかるほどだ。薄暗い部屋の中でもわかる明るい金色の髪は中途半端に長く、柔らかに波打っている。顔立ちは彫りが深くそつなく整っているけれど、表情というべき表情がない。
ただそのなかで印象的なのが、目だった。
彼の切れ長の目は決して大きくはない。だが独特の光彩を持つ金のまざった翡翠色の瞳は感情の色がなくて、静かで、吸い込まれてしまいそうな何かがあった。
誰だろう。
素朴な疑問が心の中に浮かぶ。
見たところ男の人だ。ただ彼の着ているシャツの首元が赤く汚れているのに気づいて、ずきっと首が痛みだした気がした。
その血が自分のものと理解すれば、勝手に体が小さく震え出す。逃げたいと思うけれど、足はベッドに投げ出されたまま重力に逆らってはくれない。なのに、手や体は小刻みに震える。
そうだ。自分は魔族にさしだされ、食べられたのだ。
魔族は人を食べてしまうお化けだと、母に昔教えられた。きっとこの男の人がそのお化けなんだろう。噛みつかれた首の傷がずきずきと痛み増す。逃げ出したい。でも体が動かない。逃げたいけれど、逃げられない。
そして、逃げる場所もない。
「治せないのか?」
また言葉がかけられる。
「・・・ぁ・・・」
意味がわからず無意識に首を傾げれば、痛みが走る。顔を歪めると、「その傷だ」と低い声がまた響いた。
「魔力はあるだろう。治せば良い。それともできない理由でもあるのか?」
「ま、・・・?」
口を開き、声を出す。喉から出た吐息は擦れて、音にならなかった。
「あぁ」
彼は頷いた。どうやら口の動きでわかったらしい。だが、「まりょく」とはなんだろう。言われていることが、ちっともわからない。
傷は酷く痛む。むしろ治せるならなおしてほしい。
そもそも傷はいったいどうなっているのだろう。疑問に思えば、彼が座る椅子の後ろに大きな鏡があるのに気づいた。金の縁取りがある見たこともないほど立派な鏡だ。そこにはベッドに力なく横たわる幼い少女が映っていた。
薄汚れた服は血にまみれている。ぼさぼさの長い亜麻色の髪がベッドに広がっていて、青白い肌、頬がこけて黒っぽくすらみえる顔のなかで、大きな紫色の瞳だけが活力を持っているように鮮やかな色を保っている。ただそれが逆にぎょろぎょろしていて怖い。
自分は、こんな姿だっただろうか。
一見すれば目の前にいる魔族の男より、ずっと自分の方がお化けみたいだ。だから、自分を魔族に差し出した男は、自分を「化けもの」と呼んだのかもしれない。
傷もまた酷いものだった。首の下からうなじに広がるように肌がずたずたになり、血も止まっていないのか白い肌を流れている。鏡に映る自分の首の下あたりのベッドは真っ赤に染まっていた。
このまま、自分は食べられてしまうのかもしれない。
『来い!』
ずっと光も入らない狭い部屋に閉じ込められていた。母にその部屋において行かれたきり、そのままずっとだ。たまにうっすら目を覚ますだけの、誰とも話すことのない、動くこともない、生きているだけの生活。
なのに、突然男たちが部屋にやってきた。
よくわからないけれど、なにかが壊れた感覚があって、眼を覚ましていた。男たちはまだぼんやりしていた少女の手を掴み、引きずるようにして外へと連れ出したのだ。
『化けもの、おまえを喰わせればきっと、魔族も黙るだろう!』
少女を部屋から引きずり出した男のひとりはそう言った。
しっかりとその意味を理解する前に魔族にさしだされ、なにもわからず震えて俯いている間に首元に牙を立てられた。よくわからないままに、気を失った。そうして昨晩、自分は死んだと思っていた。
自分は、どうして生きているのだろう。
少女は鏡から視線をそらし、ぼんやりと天井を見る。綺麗な葉っぱや花が彫り込まれた天井だ。それがぼやける。涙が静かに頬を伝う。
「・・・」
どうして、と唇が言葉を形作るけれど、やはり声にならない。
声を上げて泣ければ良かったのかも知れない。でも喉からは空気が擦れて出るだけだ。叫ぶことはおろか、声が出ない。逃げたくとも、手も動かない。身も起こせない。
狭い部屋に閉じ込められて、その最期が化けもののごはんだなんて、自分はいったいどうして生きて、どうして死んでいくのだろう。そんなことを考えても、なにもかもが、もう終わる。意味がないとわかっていても、頭に浮かぶのはそんな、どうしようもないことばかりだ。
現実も、痛みも、すべてが遠ざかっていく。
「どうして、か。おまえが美味しいからだ」
低く平坦な声音で教えられたのは、この痛みの味だった。
彼が椅子から腰を上げる。そしてこちらに近づいてきた。視界の端でとらえたその動作ははやくも遅くもなかったが、心臓が自分の中で大きく波打つのがわかった。昨晩の痛みはこの男によって与えられた。それはもうわかっていた。
死にたくないなら、抵抗せねばならない。でも、無理だ。手すら上がらない。昨晩も抵抗する暇も与えられず、噛みつかれた。食べられたのだ。暗がりのなかでなにもわからぬままただ食まれるのに耐えねばならなかった。とはいえすぐ気を失った昨日の方が良かったかも知れない。
怖い。どうせ相手を見据えることもできず、こうして視線をそらし俯くことしかできないのだから、どうして昨日、わけもわからないままの自分を殺してくれなかったのだろう。そうすればきっとこうして相手を前に恐怖することもなかった。
ぎしっと音がした。彼はベッドの端に腰をかけたようで、重みにベッドが僅かに片側へと沈む。勝手に溢れる涙が頬を伝う。熱い。なんでこんなに熱いのだろう。熱くたってもう意味なんてない。もう終わりだ。
涙とともに言葉にならない感情が溢れる。
死にたくない。怖い。生きる意味なんて知らない。でも、まだ、生きたい。生きていたいのに、自分はこうして死んでいく。
自分より大きな、人間と変わらぬ手が伸びてきた。それだけで気を失いそうなほど怖い。だから、静かに目を閉じた。その手はなんの気遣いもなく、容赦なく首の傷に触れてくる。あまりの痛みに体が反射的に大きくはねる。かすれた声しか出ないけれど、口が勝手に開く。
「人間は魔族より痛点が多いからな」
男の声音はなんの感情もなく、平坦だ。
ゆっくりを目を開き、ぼんやりと彼を見上げると、彼は静かにこちらを見下ろしていた。金色の光彩のある、翡翠の瞳が自分を映している。彼は笑っても、悲しんでもいなかった。表情がない。瞳にも、なにも映らない。そこに介在する感情が見えない。苦しむ自分に対する哀れみも、悲しみも、なにもない。独特の光彩を放つ金色をまとった翡翠の瞳は、相変わらず硝子玉のようにこちらを映している。
なんて綺麗な色だろう。
これが、自分が人生の最期に見るものなのかと諦めにも似た感情が勝手に沸き上がる。それでも彼の無表情が、自分の涙のせいかぐしゃりと歪んでいく。これが終わりなのかと、ゆっくりと受け入れる。
それなのに予想に反して、触れられた部分が温かくなり、痛みがゆっくりと薄れた。
「・・・ぇ?」
驚き、彼を見上げる。だがベッドに横たわる自分の頭の横に手をつかれ、覆い被さられた。
怖い。痛みを思いだして強く目をつぶったが、先ほど傷があった場所をぺろりと確認するようになめられただけだった。
どうしてだろうと考えていると、涙を大きな手が拭っていく。指先は、温かい。
「殺しはしない。おまえは死ぬまで、俺に飼われ、喰われるんだ」
どういう意味か、ちっともわからない。でも今殺されないとわかってまた涙が溢れた。
涙を拭う手は温かい。自分より少し温度は低いけれど、確かに温かい。今はそれだけだった。その温もりがすべてになる日が来るなんて、考えもしなかった。