番外 メノウ
その少女を見て、メノウは人生で一番驚いた。
少女は、ソファーの上でクッションに埋もれるように座っていた。
年の頃は十歳くらいだ。前髪を切りそろえただけで、とかれているだろうが枝毛だらけでぼさぼさの長い亜麻色の髪に、こけた頬。サイズの合わないぶかぶかのシャツからのぞく太ももは細く、こけたら折れてしまうのではないかと心配になるし、歩けないと即座にわかる。
珍しい色合いの大きな紫色の瞳が痩せこけた姿とは不釣り合いな活力を持ち、メノウを見ていた。
メノウがたじろぐほど莫大な魔力を保有しながら、痩せこけ、まともな生活はしてこなかったであろう人間の子供。
鬼であるメノウが五百年生きてきても見たことがない。なんとも言えない姿だった。
「アリスだ」
感情のない平坦な声で、男が告げる。
メノウは魔族に十二人しかいない将軍であるこの男、天空のビューレイストことエトヴァスに主従関係を無理矢理結ばされた。しかしその命令は異質なものだった。
『アリスのために傍にいて、俺以外がアリスを傷つける場合、アリスを守るのに全力を尽くすこと』
この「アリス」のために自分は主従関係を結ばされた。そう思えばアリスに対する憎しみ一つあってもおかしくはなかったのだが、そんなものを抱く気にもなれない。あまりに弱々しく、酷い状態の少女だった。
「この子・・・」
鬼のメノウでも知っている。
天空のビューレイストは要塞都市クイクルムの千年前に張られた大魔術師ルシウスの対魔族結界を破り、要塞都市は不要となった結界の動力源だった莫大な魔力を持つ人間をビューレイストに差し出し、一年間の休戦を願いでて受けいれられた。
この話はほんの一週間前に起こった事件だが、あっという間に広まった。
魔族は人間を喰う。特に上位の魔族は莫大な魔力を持つ人間を捕らえやすい餌として求めており、間違いなく動力源だった人間は喰われただろう。鬼のメノウは酷いことをするなと人間に対しても魔族に対しても思った。
その魔族の男が連れている莫大な魔力を持つ少女など、噂の動力源に間違いない。
だが、どう見てもこの少女の状況は、一週間で作られたものではない。一週間でストレスのあまり白髪などは考えるが、どう考えてもこのがりがりの少女は、まともな育ちをしていなかった。
「俺はアリスが、健康で、文化的な生活を送ることを願っている」
人間を喰うはずの魔族が、まともなことを言っている。
「でも、その子は貴方の食糧ですよね」
「そうだ。だが飼うと決めた限りは、長生きしてもらわないと困る」
彼は無表情のまま、臆面もなくそう言った。
嫌悪感が湧き上がる。一言何かを言おうとしたが、その前に、ソファーの上で座っていた少女がバランスを崩した。男が先に手を伸ばし、少女が倒れるのを防ぐ。
「えぉあす、・・・ぃ、あい」
擦れた声、発音が悪い。何を言っているのかわからないが、少女がその紫色の瞳を自分のおなかにむける。
「痛いのか?」
「・・・ぅ、ん」
少女が頷く。すると男は少女を近くにあった大きなベッドに寝かしつけた。
「な、なんなんですか・・・この状況は。人間は一体その子に何を・・・」
メノウは意味がわからず、ぐっと拳を握りしめた。
彼女は要塞都市の対魔族結界の動力源で、それがあるからこそ今まで魔族は要塞都市を襲うことができなかった。そうして彼女を利用してきたはずなのに、結界が破られた途端、こんな年端もいかない少女を喰われるのがわかっていて魔族に差し出した。
それだけでもあまりに酷い話だ。
なのに、彼女はどう見ても丁重に扱われてはいない。声もまともに出ない、歩けないほど衰弱しきっており、ガリガリだ。
「さあ、俺は人間がやることに興味はない」
男はベッドサイドに腰掛け、あっさりとそう言って首を傾げた。何故メノウがそんなことを聞くのかわからないと言った様子だった。
「ただ俺はこいつをできる限り長く喰らっていたい。だが、このままではこいつは長生きしない」
「・・・」
「俺は人間のなかで暮らしたこともあるが、俺たち魔族は感情の起伏が乏しいし、わからないことも多い。おまえら鬼は人間との通婚も多いと聞く。人間の習性もよく知っているはずだ」
要するに男はこの少女に体よく世話係と護衛をつけたかったのだ。
メノウはベッドの傍まで歩み寄り、少女を見る。紫色の瞳の少女は、不思議そうにメノウを見返していた。
「今のところ数時間クッションを挟んで座れる程度で・・・」
男は現状だけを端的に話していたが、ふと少女に視線を向ける。
メノウは鬼だ。角は2本あるし、目も三つある。
普通の人間の子供なら恐ろしさのあまり泣き叫んでもおかしくはない。だが魔族である男は、同族なら少女が喰われる可能性があるからメノウを選んだだけで、恐らくそんなこと考えもしていないだろう。
少女はメノウをその紫色の瞳で丸く映している。
泣き出すか、そう思ったが、少女はふらふらと手を上げ、自分の額をなでつけた。少女の不思議な行動に、男もじっとアリスを眺めていた。少女は気にした様子もなく首を傾げ、両手をあげて今度は自分の頭をなでつけた。
一体何をしているのだろう。
「どうした?」
「め、ぁう?」
男の質問に、少女は額をおさえた。男はわからなかったのか、訝しげに少女を見下ろす。
「もう一度言え」
「め、ぁう?」
「・・・?」
男はそのやりとりを何度か繰り返したが、やはりわからなかったのか、少女の方が酷く困った顔をした。メノウは少し考えて、自分の容姿に思い当たる。
「・・・貴方の額に、目はありませんよ。角もありません」
「あぜ?」
「貴方が人間で、わたしは鬼だからです」
おい?と少女は不思議そうにその紫色の瞳をくるくるさせた。恐らく「おに?」と聞いたのだろう。
「おまえ、鬼を知ってるか?」
「まおく?」
男が問えば、少女は魔族かと尋ね返す。どうやら少女は「鬼」という種族を知らないらしい。
「違います。別の種族です。貴方が人間で、この男が魔族であるように、私は鬼という種族です。わかりますか?」
メノウははっきりと少女に説明した。すると少女はこくんと頷いた。
「返事」
「あい、」
男が低い声で注意すると、少女は声を発した。
「アリス、前も言ったが必ず返事をしろ。わからないかもしれないが、無駄でも声を出せ。そうすれば少しずつでも、普通に話せるようになる」
「・・・ぅん」
どうやらこの魔族の男は、少女を「普通」にするために尽力するつもりらしい。少しでも声を出せばまだ幼い少女だ。もしかすると普通に話せるようになるかも知れない。
「・・・どのくらいの権限が、私には与えられるのですか?」
「アリスの生活に関しては基本的にはすべて。家令におまえが言えば用意させるように言ってある」
要するにメノウはいちいち目の前のいけ好かない男の、許可を取る必要はないらしい。
そもそもまず服だ。男のシャツを腕まくりして着ているだけだ。風呂は入れてもらっているし、髪はといてもらっているだろうが、成長期の子供なら男に風呂に入れてもらうのは言語道断だろう。
問題は恐らく山積みだ。それをひとつずつ解消していくしかない。
「よろしくお願いしますね」
メノウは小さな少女に笑みかける。
筋力が足りないのか、少女の表情は動かない。だが僅かに紫色の瞳が細められ、少女が笑い返したのがわかった。
焦らず当たり前の日常を少しずつとりもどすこと、それが一番難しく、少女には重要なことだった。