番外 エトヴァス
目の前にいる少女は、ソファーに沢山のクッションとともに大人しく座っていた。
元々着ていた服は薄汚れていて血もついていたので、体を洗って綺麗にしたあとはひとまずエトヴァスのシャツを上からはおっている。長い亜麻色の髪は前髪が伸びすぎていたので切った。エトヴァスのシャツからのぞく、アリスの足は細く、見たからに歩けるレベルではない。そもそも筋力がなさそうだ。
一体どんな暮らしをし、魔族に差し出されることになったのか。
間違いなく良い暮らしはさせてもらっていなかっただろう。声はろくに出ない。歩けもしない。手の力もほぼ入らない。一人で座らせようとすれば重力に負けてどっち向けにでも倒れるので、ソファーに沢山のクッションを挟んでしか、まともに座ることもできない。
人間は、対魔族結界の動力になったはずのこの少女に、どんな仕打ちをしてきたのだろう。
「名前は?」
エトヴァスは濡れた亜麻色の髪を拭き、魔術で乾かしてやりながら尋ねる。
「ぁぃ、う」
答えたのだろう。だが声は擦れて出なかった。話すことがほとんどなかったから、声帯が劣化しているのかもしれない。ただ名前もないのでは、不便にもほどがあるし、どうせエトヴァスは暇だ。僅かなヒントから探すのも悪くはないだろう。
「Aから始まる名前なのか?」
少女はこくこくと何度も頷く。
「もう一回言えるか?」
「あぃう」
「短いな」
エトヴァスは人間の名前をいくつか頭に思い浮かべる。
頭文字はAで、どうも最後の音が比較的口を閉じて発音している。少女の口の動きに比較的近い名前を探していくことにした。
「アデル、アレク、アレックス、アリア・・・は口が開くか。アリス、アリシ・・・、」
「!」
ぱっと少女の表情が明るくなり、紫色の大きな瞳がますます大きくなる。
「アリスか?」
少女が頷く。エトヴァスは少女の名前を確認し、「俺はエトヴァスだ」と告げた。
「ぇぉあ」
よくわからない片鱗しか声として出てこない。
「必ず口に出せ。繰り返せば、うまく発音できるようになる」
こくんとまた少女が頷く。エトヴァスはそれに対して首を横に振った。
「返事は“うん”か“はい”だ。ちゃんと口に出せ」
これだけ酷い擦れ方で声を出すことができていないのなら、ジェスチャーよりまず声を出すことが必要だ。それは僅かであっても多い方が良い。
「ん」
やはり綺麗には出なかった。だが、これを繰り返すことが大事だ。見たところ年齢はまだ10歳前後。声帯も固まっていないので、普通に声が出るようになる可能性が高い。
体もそうだ。
「良いか、アリス。極力動け。少し痛いかもしれないが、座ること、歩くこと、自分でしていかねばならない。時間がかかってもいい。手伝ってやる」
「ぅ・・・ん」
「健やかで長生きをしてもらわないと困る」
「・・・ぉし・・・?」
アリスは不思議そうな顔で何かを尋ねてくる。だが声は声にならない。
「もう一度言えるか?」
「・・・ぉし・・・?」
やはり何を言っているかはわからない。あまりに滑舌が悪いし、発音するときの口の形も曖昧だ。読唇ができるほどに口が開いていない。
エトヴァスがどうすべきか思案していると、アリスは酷く狼狽えたような表情できゅっと唇を引き結ぶ。
人間らしい表情だった。躊躇い。どうしたらいいかわからない。わかってもらえないのであれば、話さない方が良いのかと迷っているのだろう。通じないのに何度も何度も聞いてもらうのが、申し訳ないとでも考えているのかも知れない。
躊躇いは事実を事実としか捉えない、感情の起伏の乏しい魔族にはない感性だ。これはエトヴァスが人間と暮らしていた頃、自分にはないが理解していた。
だから言葉にする。
「おまえはすぐには話せない。だから、俺が聞く限り俺がわからなくても、何度も口にしろ。それが何十回であってもだ」
どうせエトヴァスは暇だ。彼女のわからない言葉を百度聞こうが、さしたる問題ではない。そのうちうまくなって、もしくはエトヴァスが彼女の口の動きや文字数から、彼女の言いたいことが何か把握することが出きるだろう。
「で、もう一度言って見ろ」
「・・・ぉし?」
「・・・どうして、か?」
繰り返してくれれば、文字数でなんとなくはわかる。まだ10歳前後なのでさほど難しいことは話さない。
「何故長生きして欲しいのかか?」
「ぅ、ん、」
「おまえが俺の食糧、食べものだからだ」
そう言えば、ぴくっと固まる。怯えた目をしたが、エトヴァスはそれを変える気はない。
「おまえは俺の食糧だ。だから、毎日少しずつ食べることになる。だが、そのかわり、俺はおまえが健やかに生きられるようにする」
「・・・こ、か?」
すこやかの意味がわからなかったようで、アリスは首を傾げる。
「なんだろうな・・・、昔、人間が言っていた健康で文化的生活というやつかもしれんな。身体的には少なくともきちんと話せて、食事ができ、歩けることだな。精神的には・・・」
エトヴァスはあらためてアリスを見下ろす。
頬のこけた、がりがりの子供だ。どう見ても普通の育ちはしていないし、表情にも乏しい。自分もたいがい無表情だが、感情の起伏の乏しい魔族とは一緒にならないだろう。
「そうだな、笑えることだな」
「・・・ぁえう?」
わらえる?とアリスが言葉を反芻する。
「そうだ。少しずつ努力しろ」
エトヴァスはそう言ったが、いくつか懸念があるなと考えた。
百年ほど人間のなかで暮らしたとはいえ、エトヴァスがアリスの世話を全てするのは暇だとは言え無理だ。そして自分がいないときにアリスにつけておく大人が必要になるだろう。ただそれは人間を喰らう魔族であってはならない。
さて、どうするか、エトヴァスは外から捕まえれば良いかと安易に考えた。