11.エトヴァス
アリスが魔力まで使って全力で抵抗してきたのははじめてのことだった。
エトヴァスは抵抗する身体も、魔力もすべてねじ伏せ、アリスの記憶に踏み込む。それはさほど難しいことではなかった。莫大な魔力を持つとはいえ、魔術はおろか、自分に魔力があるともよくわからない彼女だ。
千年以上魔術を使い続ける、卓越した魔族であるエトヴァスに抵抗できるはずもない。
自分にとって食糧でもある彼女を意のままにするために、彼女に魔術も何も教えていないのだ。魔力だけでは圧力になるだけで、形にならない。確かに普通の魔族なら大けがと言うこともあり得ただろうが、そんな抵抗、エトヴァスにはどうとでもなるものだった。
だが、突然悲鳴でも何でもない、不思議な息がアリスの口から漏れる。
「・・・かっ、」
変な「音」だった。そして次の呼吸がなくなる。ぴたりとアリスの抵抗がなくなり、かわりに表情が凍り付く。白い喉からひぅっと異常な空気の音が漏れた。みるみる彼女の顔色が白くなって、わなわな震える小さな唇が色を失う。
過呼吸だ。
このまま記憶をこじ開けても良かった。もはや彼女は抵抗もできないし、合理的でもある。過呼吸で死ぬことはほぼない。だが、結局エトヴァスはアリスの安全を優先した。
押し倒したアリスの体をおこし、自分の上に抱き上げる。
「落ち着け、息を吐け」
抱きしめ、強く背中を叩く。アリスがひ、ひっ、と喉元から息を吸おうと必死になっているのがわかった。だが、そうしても過呼吸はまったく緩和されない。ますます息が吸えないことに恐怖を覚え、苦しくなるだけだ。
「息を吐け。吸うことは考えるな。」
強く背中をさすれば、そちらに意識がいき、少しエトヴァスの言葉が耳に入ったのだろう。喉元から変な音のする空気を吸い込みながら、少しずつ息を吐き出す。エトヴァスは小さな背中を撫でる。それをどれだけ続けただろうか。
腕の中でアリスがひぅっと嗚咽を漏らした。
「・・・・ご、め、」
「なんで謝る」
「・・・で、でも、あれは、いや、こわい、こわいの、」
アリスはしゃくり上げ、言葉を繰り返した。
アリスが自分の記憶を説明するより、エトヴァスが直接見た方が得られる情報は多い。だから魔術でアリスの記憶を見ようとした。それは彼女も重々承知だったようだ。合理性はわかってはいる。だが、魔術で無理矢理暴かれるというのは、あまりにも恐ろしく、怖い感覚だったらしい。
確かに相手の記憶を読むというのは、相手の魔術防壁を突破すると言うことだ。魔族はある程度魔力があるため、自分の記憶に魔術防壁をかけることができる。それを無理矢理突破されるのは、エトヴァスでも決して心地の良いものではない。
感情の機微に疎い自分ですらもそう思うのだから、感情に敏感な人間であるアリスが過呼吸を起こすほど恐怖するのもおかしくはないのかもしれない。
「・・・」
アリスがぼろぼろと紫色の瞳から涙をこぼす。ゆらゆら水面のように揺れ動く、濃淡を抱く紫が酷く新鮮に思える。それをエトヴァスはただ眺めた。
先ほどは、自分でアリスの記憶を見た方が合理的だと思った。今もその判断はかわっていない。彼女に説明させたところで、何を見、何を聞き、何を言ったのか、正確にはわからないだろう。だが、過呼吸を起こすほど恐怖させてまで見る情報ではない。
どうせ彼女の言う「わんちゃん」が「誰」なのかはわかっているのだから。
エトヴァスはアリスを抱え直そうとアリスを揺さぶる。するとまた記憶を見られると思ったのだろう。アリスはふるりと首を横に振った。
「ま、まって」
おねがい、と声を震わせ、小さな手で涙を拭う。覚悟を決めるように、何度も息を整えようとして、アリスは震える手で自分の胸を押さえる。
「がまん、できる、ようにがんばるから、まって、」
記憶を無理矢理こじ開けられる魔術は過呼吸を起こすほど怖かったのだろう。だがそれを受けいれ、我慢するとアリスは言う。
いつもエトヴァスはアリスからその血肉を奪っているが、拒絶はしない。最初の頃はよく泣いていたが、それでも暴れて抵抗することはなかった。それはあらかじめエトヴァスがやることをアリスが知っており、納得しているからだ。
そう、彼女は知ってさえいれば納得し、いつもエトヴァスのやることに抵抗しない。
「・・・なら、記憶をわたせるか?」
「わ、わたす?」
声が細く、まだ震えている。
「あぁ。記憶のなかで、渡しても良いと思うところを、渡そうと思うだけで良い。」
相手が同意している場合、単純な記憶の共有は魔術で道筋をつければ、片方が魔術を使えなかったとしても決して難しいことではない。ただそうすると都合の悪い記憶は隠す可能性があるから、エトヴァスは無理矢理見ようとした。
だが、考えてみれば、何も理解できていないアリスがそんな器用な記憶の選別ができるとも考えがたい。
「無理矢理見ようとしたのは、悪かった」
エトヴァス謝罪を口にした。
人間は己の感情の機微に敏感だ。無理矢理なのか、自発的なのか、例え結論が変わらなかったとしても、その過程を、感情的な納得を、何よりも大事にする。それはかつて人間と過ごした数十年の間に、そしてアリスと過ごした半年で、よくわかっていたはずだ。
「見られたくないと思うところは、渡さなくて良い」
言えば、手の震えが止まる。涙をたたえたままだが、紫色の瞳がぼんやりとこちらを映している。
記憶が見られるという事実が同じだったとしても、その過程に納得できなければ、それは過呼吸を起こしてしまうほどに恐ろしいことなのだ。だからこそエトヴァスは、アリスに選択肢を与える。そして彼女がそこからどう答えるかは、知っていた。
「うん、見られたくないところはないよ」
アリスはおずおずと言った。
アリスはエトヴァスがいなくてさみしかったと言っていた。エトヴァスはなんとも思わないが、アリスは小さな子供でそれが化けものでも一緒にいるというのが重要なのだろう。関わるのはエトヴァスと世話係のメノウだけだから、なおさらともに過ごすエトヴァスがいなくなるのが泣くほどさみしい。
アリスは精神的にエトヴァスに依存しきっている。だから、心の準備さえできれば何も拒まない。
エトヴァスが左手で三角形の外縁を持つ構造式を開くと、それにアリスの小さな右手を重ねる。
途端にアリスの記憶が映像として流れ込んでくる。フェンリルと会ったこと、エトヴァスやメノウと会ったこと、騎士団とおぼしき男達に部屋から引きずり出されたこと、そして要塞都市に幽閉されていたこと。必要ないことも含め、彼女の持つ、エトヴァスに比べればあまりに短い記憶がすべて流れ込んでくる。
そして、さぁっと景色が変わった。
『おとうさん、おかあさん』
幼いアリスの声。今とあまりかわらず、高い。
声に反応して、夕日を背にした男が優しく微笑んで振り返る。すべてが赤と黒に染まっている。
顔はぼやけている。その隣に並んでいるのは、小柄な体躯の女だ。女の髪の色が薄いのか、夕日のせいで何色なのかすらわからない。口元には笑みも何もない。風が女の長い三つ編みをなびかせている。口元が動いているが、声も聞こえない。
この映像からわかるのは、アリスには両親がいることだけだ。アリスはもうふたりを朧気にしか覚えていないのだろう。姿形はおろか、声すらも、ぼやけている。それでも思い出だけを覚えている。
男が、色すらわからず、逆光に途切れた杖を握った。次の瞬間、何かに弾き飛ばされる。
「・・・!」
魔術が端から崩壊する。アリスが気づいたのか、紫色の瞳を見開き、戸惑いの表情を浮かべていた。
魔術で記憶に防壁がはられている。アリスの記憶だが、アリスがやったわけではないだろう。誰かが昔のアリスの記憶自体に防壁をはっているのだ。もともとアリスは要塞都市の結界の動力源だった。そのため何かを隠すために記憶にロックがかけられていてもおかしくはない。
こういう記憶に強く根付いた魔術を引き剥がすのを他人がやると、アリス自身に負担がかかる。仮に記憶を見るのであれば、アリスが魔術を使い、解除することが前提になる。だからエトヴァスはこの問題を棚上げすることにした。
気になりはするが、どうせ今どうこうできるものではない。淡泊な感情しか抱けないので、気持ちの切り替えが早いのが魔族の利点だ。
「・・・わたし、わんちゃんにいらないこと言ってた?」
アリスは細い眉をハの字にしてしおれたように肩を落とし、尋ねてきた。
ただアリスが心配しているのは、いらない情報を漏らしていないか、それだけのようだ。エトヴァスは最初からそれを心配していなかった。
「おまえが答えられることは、どれもたいしたことじゃない。俺が正確に知りたかったのは、相手がおまえにした質問の内容だ。相手の意図が現れているからな」
アリスがフェンリルに話したのは、別に問題のないことばかりだったし、そもそも彼女が「話せる」ことはたいしたことがない。
アリスの知識や会話力は多少成長したとは言え、十歳以下だ。魔術も使えない、魔族としてのエトヴァスの動向も知らない。たいそうなことを聞いたとしてもまともな回答など帰ってこない。自分のことですら、よく知らないくらいだ。
最初からエトヴァスが必要としたのは相手からの質問だ。アリスの言語能力では、エトヴァスに相手の質問を正確につたえることはできない。
だからアリスの記憶を見ようとしたのだ。
アリスは「わんちゃん」と言っているが、灰色の狼の姿をした魔族は、エトヴァスが予想していたとおりフェンリル、ロキの息子で、エトヴァスの甥だった。
アリスの「わんちゃん」という表現から、そうではないかと考えてはいた。そもそもここに入り込める魔族はほとんどいない。それなりの強さの魔族だけだ。ただしフェンリルだけでは、エトヴァスの強固な結界を突破できない。間違いなく弟の入れ知恵があったはずだ。
エトヴァス自身もロキ本人に気を取られすぎていた。そういうことだ。
要するに、あの弟は結局、アリスにちょっかいを出してみたい、あわよくば食べてしまいたいのだろう。少なくとも結界の点検と強化は急務だろう。場合によっては、城か部屋を空間ごとわけた方が安全かもしれない。
エトヴァスは冷静に頭の中で算盤を弾いていたが、黙り込んだことがアリスの不安を煽っていたのだろう。
「・・・ごめん、なさい・・・」
アリスはか細い声で謝罪を口にした。
「これからは、動物がいたらちゃんと言う・・・」
ごめんなさいと、再び謝ってくる。だが、エトヴァスは思わず「・・・動物?」と問い返してしまった。そんなものは心底どうでも良い。
「動物は報告されてもな」
「・・・え?わんちゃんが来たら言わないといけないんじゃないの?」
「別に動物全般を報告されても困る。魔族だけ報告してくれ」
「・・・どうやって?」
アリスが途方に暮れたような表情でエトヴァスを見上げてくる。エトヴァスも彼女が何を言っているのがつかめず、眉を寄せた。
最初からそうなのだが、何故これほど話がかみ合わないのだろうか。
会話をする動物など、魔族か違う種族に決まっている。そもそもフェンリルは「わんちゃん」と表現するより、誰が見ても「狼」と表現するだろうし、かなり大型で、普通の人間が見ても恐ろしいと感じるはずだ。見た目の可愛らしい、愛想の良い「わんちゃん」ではない。サイズ的にアリスを食える。明らかに違和感があるだろう。
なのに、何故、報告しようと思わなかったのか。エトヴァスは理解できない。
だが、ふと気づく。
アリスは素直だ。最近帰ってきていなかったので聞いていなかったが、鳥がバルコニーに来たときも、何色の鳥がいたと報告に来る。そこに喋る鳥がいれば、報告に来ただろう。その点では、エトヴァスがこの城に戻らなくなったのが気づかなかった原因だ。時間をとって無駄話を聞いておくべきだった。
ただ些細なことでもそれだけ話すのだ。違和感など覚えれば、エトヴァスがいなくてもすぐにメノウを呼んだだろう。アリスは話す「わんちゃん」に違和感がなかったのだ。ならば違和感とは、どう定義づけられるものだろうか。
エトヴァスは息を吐いた。
「おまえ・・・動物がどんなものか知らないのか」
普通がわからねば、違和感などない。
エトヴァスはアリスに動物について教えたことはない。そのためアリスはいまだ幽閉前の幼い頃の知識を土台にしているはずだ。
アリスが持つ動物の知識は、幽閉される前に両親と暮らしていた頃、四歳程度ということになる。
「わんちゃんとか鳥とかシカとかでしょ?」
アリスが情けない顔で反論してくるが、その答えがエトヴァスの推測が正しいことを物語っている。あまりにおかしくてアリスから少し身を離し、口元に手を当てた。
おかしい。この少女は、すべてがおかしい。
「何が動物かじゃない。どんなものかと聞いている」
「どんなもの?」
「おまえ、そのわんちゃんがなんて鳴くか知らないんだろう」
アリスは一瞬黙り込んだ。それから少し考えて、小首を傾げる。
「え・・・泣く?泣き方?うぅっ、うえーえぇんって、泣くでしょう?」
動物が自分と同じように泣くとアリスは主張する。
その答えがおかしい。常軌を逸しているとすら言える。本当にこの少女は、動物が人間と同じように話して泣くとでも思っていたのだろう。
疑いようもなく、だ。
「わんちゃんはペットだと“犬”、野生だと“狼”だ。犬や狼は人間の文化圏の多くでは“わんわん”とか“ばうわう”と表現される鳴き声を上げる。だから“わんちゃん”だ。そういう鳴き声しか上げない」
「・・・え?・・・わんわんって泣かなかったよ?」
「だからあれは動物じゃない。魔力により特殊な声帯を形成できる、もしくは擬態した魔族だ」
両親がいなくなるまで、アリスは比較的普通の生活をしていたはずだ。だから「わんちゃん」という表現から考えても、教えたのは両親だろう。ただしアリスは当時まだ四歳。アリスが犬を飼っていたなら「わんちゃん」ではなく、その犬の名前を覚えているはずだから、本物の犬を直接触ったことがあるとは考えにくい。
図鑑か絵本で、こういうのを「わんちゃん」というのだと教えられたはずだ。四歳くらいであればちょうど「わんちゃん」が「犬」に変わるか、変わらないかぐらいの頃だろう。文字の読みもあやふやだ。
アリスはそのまま幽閉されたので、動物の知識は図鑑で見たそれで終わりだ。実際に見て、理解することはなかった。大きさなど図鑑や絵本ではピンとこないし、窓辺にいる灰色の狼を見て「わんちゃん」と考えた。
四歳のアリスは難しいことはわからないため、当然姿形だけで生態は知らない。
アリスにとって姿形が「わんちゃん」なら多少大小が違っても、色が違ってもそれはただの「動物」だった。バルコニーに現れても、話しても、認識は動物の「わんちゃん」だ。だから警戒もしなかったし、報告もしなかった。違和感がなかったのだ。
アリスはやっとエトヴァスの言うことが理解できたらしい。
「え?・・・動物って、話さないの?」
誰でもこんな質問を少女からされれば、笑い転げただろう。この少女は動物を実際に見たことがない。どういう生態のものかすら知らなかったのだ。
「そうだ。もっと言うなら、ここはこの城の中でも一際高いバルコニーだ。犬も狼も四つ足の生きもので飛べない。魔族でもなければこんなところには上ってこれない」
「・・・わんちゃんは、飛べない?・・・あれ?」
「飛べない。羽がないだろ」
アリスは大きな紫色の瞳をぱちぱちと瞬いて、現実を受け止めきれないようだった。
恐らくバルコニーにやってくる鳥のような感覚で、狼を受けいれていたのだ。そして鳥たちはあまり近づいてこないが、たまたま犬が近づいてきてくれたくらいに考えていたのだろう。
「ちなみにあれが仮に野生の犬、狼だったとして、肉食で、人間も襲う動物だぞ」
「・・・え・・・、わたし死んじゃう?」
「あぁ、窓ぐらい割るだろうな。結界ごしでなければ、死んでたな」
野生の狼は獰猛な動物だ。結界がなければ窓硝子など割ってアリスを食べただろう。狼にとって弱そうな人間は魔力の有無問わず、「食糧」である。
「良かったな」
「・・・う、うん・・・」
アリスはやっと自分が危なかったことが少しわかったのか、安堵の吐息にも似た、なんとも言えない声を絞り出した。エトヴァスは膝の上にいるアリスを見下ろし、その丸い旋毛を長めながら、フェンリルが何をしに来たのかと思案する。
フェンリルはアリスと話していたが、別にたいしたことを質問したわけでも、アリスを不安にさせるようなことを言ったわけでもなかった。少なくともアリスの記憶を見る限り、エトヴァスは何も感じなかった。
フェンリルは魔族であるロキと巨人であるアングストボーティンの息子だ。
混血の場合、その能力や性質の出方は多様だが、別に人間を好んで食べる習性はなかったと記憶している。また争い事を好む性質もなく、鉄の森で家族と暮らしていた。何故、ロキの話に乗ってこんなところまでやってきたのだろうか。特別父親が愛しいという様子も見たことがない。
アリスと話しているときも、父親に脅迫された云々と話していたが、もしかすると父親のロキに家族を人質に取られ、協力しろと言われたのかもしれない。ロキならやるだろう。だがどちらにしても今はどうでもいい話で、エトヴァスは膝の上にいるアリスを見下ろし、小さな背を撫でる。
「動物園にでも行くか」
尋ねると、紫色の瞳が丸くなった。
「どうぶえん?」
「動物園。人間が動物を飼うために作った場所で、一部危険のない動物は触ることもできる。展示の仕方である程度、危険性もわかるだろう」
エトヴァスたち魔族からしてみると、収集癖も人間の非常に興味深い習性の一つだ。
食欲にも性欲にも関係ないそんなことをしてどうするのかと思っていたが、アリスに「普通」を理解させるためには必要かも知れない。そもそも今回のように「普通」の動物の知識がなければ、動物の中に紛れる魔族に違和感などない。
「うん。それは見てみたいな」
アリスは街に行くかと問うたときとは異なり、ふわっと崩れるように笑う。人は怖いが、動物は怖くないらしい。
膝の上の重みを感じながら、良い退屈しのぎができたなと窓の外に目を向けた。
それまでに二つほどしなければならないことがあった。