09.エトヴァス
「アリスが窓辺で寝てる?」
夜にエトヴァスが城に戻ると珍しくメノウがやってきて話したのは、アリスの寝る場所のことだった。
最近エトヴァスは情報収集のために外出することが多く、城に戻ることが少なくなっていた。世話役としてメノウは城に残しているが、アリスの身の回りの世話や食事作りをひとりでやることになり、四六時中見張っているわけではない。また一緒に眠るわけでもない。ただ部屋を見に行けば、アリスがよく窓辺で眠っていると報告してきた。
「はい」
「そうか・・・近いうちに開けるかも知れないな」
エトヴァスは近くにあったソファーに腰を下ろし、少し考える。
最近エトヴァスが出かけることが多く、アリスが退屈しているのは予想していた。ここに来て半年以上たつから部屋に慣れ、飽きてきたというのもあるのだろう。
アリスの部屋には強力な結界が張られている。窓を開けたぐらいでは本来何も入って来ることができない。だがここで問題になるのは、アリスの魔力だ。彼女の魔力は莫大で、あれほどの逸材は数百年にひとりしか生まれない。
ただ彼女は今まで魔力制御の訓練を受けたことはなく、自分の魔力を感じたこともないだろう。
彼女が仮に本気で外に出たいと思って窓を開ければ、彼女が例え無意識だったとしても、彼女の魔力はその願いを叶えようとする。いかに外部からの攻撃に耐える強固な結界でも、なかから彼女ほど莫大な魔力で圧力をかければ、一瞬で崩壊する。
彼女の魔力は非常に安定していて、ぶれない。揺れない。だがあれだけ莫大な魔力だ。本気で願うだけで簡単に結界を破壊してしまうだろう。そもそもあれほどの魔力をもつ人間が結界から出たいと思ったとき、止める手段など本来ありはしないのだ。
彼女は幼い頃から要塞都市クイクルムの動力源として幽閉されていたというが、幽閉されたのは五歳前後だろう。仮に意志のしっかりした年頃なら、幽閉された部屋をぶち壊して普通に外に出ていたはずだ。だから幼い頃から閉じ込められたのだろう。
そしてだからこそ窓も開けるなと注意はしているが、本人の自発性に任せる以外どうしようもない。
あとは開ける瞬間に、エトヴァスが同席できるかどうかだが、まさか注意している本人の前で開けたりしないだろう。一応アリスには防御の魔術を何重にもかけてあるが、あの莫大な魔力でそれごと吹っ飛ばす可能性もありうる。
エトヴァスがあの部屋にたどり着くまで、他の上位の魔族が気づかないことを願うくらいしかできない。
教育的観点で少しくらいなら痛い目にあってもいいかもしれないが、なんと言っても人間は腕や手が再生するわけではないのだから、それで何かを損なっても困る。
「そういう意味ではなく、極力、アリスさまと過ごす時間を取っていただけないかと」
メノウは冷たい視線をこちらに送りながら、口を開いた。もともとメノウに嫌われているのは知っているので、気にはならない。だが、彼女の発言がよくわからなかった。
「何故だ?」
何故アリスが窓辺で寝ていることと、エトヴァスがアリスと過ごす時間を増やすことは関係がないだろう。エトヴァスが尋ねると、メノウは心底嫌そうに三つある金色の目を細めた。
「以前、幽閉されていた場所では、話す相手もおらず、窓すらなかったと仰せでした」
「・・・?」
「窓辺におられるのは、かつてと違う場所だと思いたいのでは?」
エトヴァスはアリスが窓辺で眠るのは、外に出たがっているのだと考えた。だがメノウの考えは違う。
エトヴァスが忙しくなり、メノウもいつでもいるわけではないため話す相手がおらず、幽閉されていた頃を思い出すから、違うと感じるために幽閉時代にはなかった窓際に寄るのではないかというのだ。
「アリスさまは外の生活を知りません。だから、外を怖がっている節があります。出たいと単純には思わないでしょう」
だから外に出たがるはずがないと、メノウは言う。それはエトヴァスも感じたことがあった。
『まぁ、良い子にしていれば、街にでも連れて行ってやる』
『うーん・・・、』
色よい返事にはほど遠かったのが、エトヴァスの記憶にもはっきり残っている。
アリスは人間によって魔族であるエトヴァスに差し出された。
幼く、詳しい事情はわからなくとも、その認識は持っているはずだ。幼い頃から要塞都市に幽閉されていた彼女に、知り合いは少ないだろう。人間でありながら人間に捨てられた彼女には、窓から外に出たところで行き場所がない。
「そうだな、アリスに聞いておく」
推測を重ねても仕方がない。どう考えているのかは本人に聞くのが早いだろう。それに戻ってきたのは一週間ぶりで、エトヴァスももうそろそろ食事がしたかった。
前に莫大な魔力を持つ人間を食ったあと、エトヴァスは百年ほど腹が減らなかった。だが今回はアリスをすべて食らったわけではないので、一週間もたてばエトヴァスは飢える。これが喰わない弊害だ。
アリスの莫大な魔力は少量口にするだけで、エトヴァスのすべてを最高レベルで保ってくれるが、少量なので数日もすると腹が減るのだ。ただそれでも、アリスを飼い続けられるのならたいした問題ではない。
窓の外を見るともう真っ暗だ。夜の闇のなか、煌々と月がのぼっている。もう夜の十二時近い時間だから、アリスは眠っているだろう。
起こすことを前提に話をすると、あからさまにメノウは眉を寄せた。
彼女はアリスに情がある。鬼というのは情が深いと、メノウを見て知った。だがそれを黙殺して、エトヴァスはアリスのもとに向かう。そのためにアリスを食糧として飼っているのだ。
廊下からも同じ月が見えた。丸い月だった。
アリスの部屋に入ると、部屋には明かりはついていなかったが、メノウが言っていたとおり、窓辺でアリスが蹲って眠っていた。亜麻色の髪が長い絨毯に広がっていて、ついでにエトヴァスが彼女に課した宿題も散らばっている。
どうやら窓辺でやっていたらしい。
ベッドに運ぶために、アリスを抱き上げる。少し身じろいだが、結局そのまま眠ってしまった。それを確認してから、エトヴァスは彼女に課していた宿題を確認し、嘆息する。
「遅い。ほとんどやっていないな」
課題は与えていたが、ほとんど進んでいない。
エトヴァスは五日間帰ってこなかったが、一日数頁もやっていないだろう。嫌いな算術もだが、もともと好きだった社会系もあまり手を出していない。これだけ何もしていなければ、この部屋で過ごす時間はたいそう暇だろう。
何を考え、何を思っていたのか。
ベッドに視線を向ければ、白い寝間着を着たアリスが眠っている。エトヴァスは亜麻色の髪からのぞくうなじに、そっと手を伸ばした。くすぐったいのか、横向きに転がる。その拍子に真っ白の首筋が露わになった。
「・・・」
一週間ぶりだ。その首筋に吸い寄せられるように、牙を立てる。魔術で痛みを緩和したが、それでもざっくりいったのがよくなかったのだろう。びくんっと細い体が跳ね上がった。
「っ・・・!」
声にならない悲鳴が漏れる。抵抗される前に小さな手を押さえ込み、存分に貪る。とはいえ、殺しては困るので、血と少しの肉くらいのものだ。吸血鬼のような血液を吸うための牙などないから、血と肉といってもある程度広範囲に傷を作る必要がある。
舌に広がるのは、あまりに甘美で例えようのない充足感。この瞬間、悲鳴や抵抗など一切、耳には入ってこない。
寝ぼけていて最初は何が起こったのかわからなかったのだろう。アリスは恐怖と痛みのあまり体をばたつかせたが、すぐにエトヴァスとわかったようだ。激しい抵抗はやめた。
「・・・う、いた、痛っ、うぅ、」
押し殺した悲鳴。角度を変えて牙を突き立てれば新たな悲鳴が上がる。だが、ベールがかかっているかのように、気にならない。
もともと魔族など食欲と性欲に忠実な生きもので、我慢などできない。
『だから、おまえらとは相容れない』
紫色の瞳は嫌悪感でいっぱいで、いつも軽蔑の眼差しをエトヴァスに向けていた。
紫色の瞳をしたエルフの女が、千年変わらず理解していたことは正しい。どれほど綺麗ごとを言おうと、論理的に位置づけようと、エトヴァスたち魔族は食欲と性欲に貪欲で、他種族とは相容れない。
常に魔族が人間の敵になるのも、他種族に憎まれるのもこの食欲と性欲が原因で、それはわかっている。だが感情の起伏は乏しく、食欲はあまりに大きく、欲望を抑える感情はどれほど年月を重ねようと育たないのだ。
『あり得るのは、捕食者と食糧という一方的な関係だけだ』
そしてだからこそ、あの女は常に魔族の敵だった。今とてエトヴァスはアリスを守っているのではない。あまりに美味しすぎて自分の食糧をとられるのが、喰うのを邪魔されるのが嫌だから、アリスを飼い、大事に大事に守っている。
『良いじゃん。ならその食糧を大事にしなよ』
ふっと柔らかな男の声が、エトヴァスの意識を奪う。
『飼ってみたら?鼠でも情が移るもんだよ』
その男が言うことに興味を抱くことはついぞなかったが、記憶力の良いエトヴァスは、彼が言ったことを覚えている。ただ、覚えている。
変な男だった。エトヴァスに自分の血肉が欲しければ、自分が死ぬまでの十年の間、人間と暮らせと言った、変な男。
「・・・いたっ!!痛い!!」
びくんと押さえ込んでいた体が大きく跳ねる。調子に乗って深く牙を立てすぎたようだ。我慢しきれなくなったのか、アリスがつんざくような大きな悲鳴を上げる。その高く大きな声が、エトヴァスの意識を切り裂いた。
そうだ。あまり喰いつけば、貪れば、死んでしまう。
名残惜しいが口を傷から離し、身を起こす。ベッドに横たわるアリスを見下ろせば、アリスはそこそこ酷い状態だった。首から胸元にかけてずたずたで、血が止めどなく流れている。シーツが真っ赤に染まっていた。
「・・・」
ある程度血肉を貪れば、こちらも落ち着く。そして強い後悔は存在しないが、エトヴァスとて失敗したなくらいには冷静に思った。
まず痛みを緩和する魔術を強める。それでもまだ痛むのか、アリスがか細く泣いた。押さえ込んでいた手を離したが、アリスは動く気力もないのか、荒い呼吸を繰り返して呆然とした面持ちをしている。紫色の瞳は丸く見開かれたまま、涙すらたまっていない。
エトヴァスは傷を確認するために、彼女を横に向ける。どうやら自分は彼女の首と肩の左側の付け根をざっくりいってしまったらしい。
アリスの体は恐怖と緊張で強ばっていて、いつもの柔らかさがない。それでも食欲には勝てない。エトヴァスは傷にまだ溢れる血を綺麗になめとってから、魔術で彼女の傷を治す。だが、一向に小さな体はこわばったまま、力が抜けなかった。
「アリス、」
名前を呼び、その柔らかな頬にそっと触れる。途端に、緊張がほぐれるように体から力が抜け、呆然としていた紫色の瞳に、一気に涙がたまった。突然だったから、驚いたのだろう。起こしてからにすべきだったと次からはそうしようと冷静に考える。だが、きっとまた食欲に負けて忘れてしまう気もした。
紫色の瞳に涙をいっぱいにためる様は、最初来た頃と変わらない。よく思い出してみるとここ最近、またよく怖い、痛いと泣くようになった気がする。
ここにアリスが来てから、血肉を喰らうのは毎日のことだったし、毎日なのでそれほど多くをもらう必要もなかった。だがロキが来襲し、エトヴァスが情報収集のために出かけて帰れない日が増えると、自然とエトヴァスも食いだめしようとするので、大きな傷をつける。
魔術は痛みのすべてを緩和してくれるわけではないので、アリスはここに来た頃のように泣き、体を強ばらせるように戻ってていた。
だからといって魔術も使えない、魔力の制御もできない彼女を、他の魔族たちもいる情報収集の場につれていくわけにはいかない。
アリスは涙がこみ上げてくると止まらないのか、拭うことすらせず、泣く。声もなく、表情もなく、大きな紫色の瞳から涙だけがとめどなくこぼれ落ちた。目尻を伝ってぽろぽろとシーツに涙が落ち、血が滲む。
魔術で治しはしたが、あまりに牙を深く立てすぎたらしい。痛みが残っているようだ。
人間は魔族より遙かに痛点の多い生きもので、しかも手足をなくしてもその手足が痛むと脳に電気信号を送るほど、思い込みが激しい。ただ脳内物質が出たら、思い込みも立派な真実になる。
どうすべきか。アリスを見下ろし、エトヴァスは迷った。
自分は彼女に恐怖と痛みを与えた存在だ。彼女から離れた方が良いのか、それとも傍にいるべきなのか。
「アリス、俺は離れた方が良いか。ここにいた方が良いか」
人間なら間違いなく場違いな質問だと言うだろう。だがエトヴァスはわからないからこそ素直に問うた。
するとアリスは今気づいたとでも言うようにのろのろと視線をエトヴァスに向けてきた。すぐに答えは返らない。その柔らかそうな唇は小刻みに震え、何度か開いて、閉じてを繰り返していたが、うまく声が出なかったのか結局閉ざされてしまった。
かわりに、小さな手がのろのろと伸びてきて、震えながらもぎゅっとエトヴァスの服を握る。エトヴァスはそれを彼女の意思表示と受け取ることにした。
エトヴァスは横たわっていたアリスの体を抱き上げ、自分の膝に乗せる。そしてそっと小さな体を抱き寄せるが、やはりいつものように身を委ねてくることはなく体はびくりと恐怖で強ばった。少しやり過ぎたのだろう。それでもぽんぽんと規則的に背中を叩けば、彼女も失血と疲れのせいか少しうとうとし出した。
ゆっくりと体のこわばりが溶けていく。しばらくするとエトヴァスの腕のなかで胸にもたれかかるアリスの紫色の瞳はぼんやりしてきて、半分くらい閉じているようにすら見えた。
もう夜中を過ぎている。十歳には寝る時間だ。
「そう言えば、なんで窓辺で眠っていたんだ」
まともな答えが返ってくることは期待していなかったが、エトヴァスはふと思い出して問う。
「だって、そら、きれい」
空が綺麗だからとアリスが擦れた声で言う。もう意識が起きているのかいないのかもわからない。
「わたし、は、とじこめ、」
私は閉じ込められていない。ふわふわと浮いた声が自分に言い聞かせる。逆に言えば、アリスは怖いのだ。かつてのように窓のない、誰もいない部屋にひとりきりで閉じ込められるのが怖い。
エトヴァスのもとにアリスが来てから、もう半年もたった。
おそらく閉じ込められている頃、アリスはそれに恐怖を感じたことはなかっただろう。当たり前だったからだ。いま、閉じ込められなくなってはじめてその時に受けていた仕打ちが酷いものだと知り、閉じ込められることが怖くなった。
そんなふうにアリスは、ひとつひとつ恐怖を覚え、そしてまた、それを越えていかねばならないのだろう。
エトヴァスは間近にあるアリスを見る。もうアリスはその目を閉じ、穏やかな寝息をたてて眠っていた。