エピローグ エトヴァス
アリスはゆっくりと回復し、一ヶ月後には概ねいつもどおりに戻った。
「なんか、シヴさんから飴が届いたよ」
紫色の瞳をきらきらさせて、アリスは報告してくる。
小さな手に持っているのは、色とりどりの飴の入った瓶だ。先日はトールからクッキーが届いていた。きっとアリスに対するお礼のつもりだろう。
「歯は磨けよ」
「うん」
アリスはうれしそうにこくんと頷く。
そもそも一ヶ月ほど前の外出の発端は、アリスがヘルブリンディの屋敷にある寒桜をみたいといったことだった。
しかしそれには裏がある。
エトヴァスの弟のヘルブリンディは、エトヴァスと同じように将軍職にある、領地を持つ魔族だ。三百年前、人間の妃を殺され、領民を皆殺しにしてから、自分の屋敷周辺の山に結界を張り、ずっと引きこもっていた。この結界は出るのは自由だが、一度出ると入ることはできない。
三百年のうちに結界内で魔物が繁殖し、それが出てきては戻れなくなり、隣のトールやバルドルの領地を襲い、問題になっていた。
アリスとエトヴァスは、両方とも異なった方法で結界を破る手段を持っていた。
だから魔王であるオーディンは結界を破る能力のあるアリスに手紙で頼んだし、トールの妃であるシヴはアリスにヘルブリンディの屋敷の寒桜のカードを送り、アリスの気を引いてエトヴァスを引っ張り出せないかと試みた。
そんな魔族の将軍たちの意図を、エトヴァスは承知していた。その上で、アリスが寒桜を見たいというならば、それでいいと思ったのだ。
「あと、シヴさんがヘルブリンディさんの領地は、バルドルさんとトールさんの共同管理になったって言っておいてねって」
シヴの手紙の内容だろう。
三百年、間魔力のあるものを何も食べていなかったヘルブリンディは息子と結託して、たまたま領内にやってきたアリスを狙っていた。アリスはエトヴァスの食糧だ。エトヴァスがそんなこと許そうはずもない。ただアリスはヘルブリンディもその息子も殺そうとするエトヴァスに逆らい、彼の息子をトールの領地に逃がした。
人間のアリスは殺された人間の妃に同情した。そしてトールとヘルブリンディは友人同士だったから、彼の息子を匿うだろうと考えたのだ。
結局、飢え、衰え、どうにもならなくなっていたヘルブリンディは、エトヴァスが殺した。いまのところヘルブリンディにかわって将軍になれるような魔族はいないし、そもそも領民の皆殺しにされた領地を引き受ける魔族もない。
ヘルブリンディの領地はバルドルとトールの領地に接しているので、共同管理になるのは自然だろう。
バルドルは将軍のなかでも穏健派の筆頭、トールは過激派だ。そのため両者ともに派閥の力関係を考慮した上で、共同管理という方法に同意したのだろう。
そしてシヴがそれをわざわざ言ってきているのは、強いものがすべてである魔族の慣習を優先するならば、将軍職にある魔族を殺した場合、その将軍の地位と領地は、殺した魔族に引き継がれるのが当然だからだ。
今回の件であればヘルブリンディを殺したのはエトヴァスなので、エトヴァスが引き継ぐべきだ。エトヴァスは将軍のなかでも中道派の筆頭で本来無視できない存在だ。ただ領民がおらず、自分の元々の領地と接していない領地をエトヴァスが手に入れる気にはなれない。
シヴは夫のトールとは異なりエトヴァスと同じく中道派の将軍で、確認はそれを見越してのことだろう。
「領地なんていらんが、殺し損ねたのは気に食わんな」
エトヴァスは不愉快な感情をそのまま口にした。
一過性の感情だとはいえ、不愉快だ。エトヴァスはアリスを殺そうとしたふたりを殺したかった。なのに、エトヴァスの意向に逆らいアリスは片方を見逃した。エトヴァスにとってそれは不愉快この上なかったわけだが、実際にもなんのうまみもない。
エトヴァスにとって今回の一件は不快な思いをしただけとなった。
「・・・ご、ごめんなさい」
アリスがおずおずと謝る。
「あ、飴、いる?」
「いらない」
「わたしを、食べる?」
「どうせ夜に喰う」
「・・・」
アリスはというとエトヴァスが不快感を示すと、なんとかそれが解消されないかといろいろ提示してくるようになった。
もともと感情の起伏の激しくない魔族であり、今までエトヴァスは物事にたいした不快感を抱くことがなかった。だが最近はたまにアリスに関連することで不愉快に感じることがある。そしてその不愉快をアリスに無視されるとなおのこと不快感が増すので、アリスの対応は間違っていない。
アリスが自分の言うことを無視し、ヘルブリンディの息子を助けたことは、エトヴァスにとってかなり不快な経験だった。だからそれを二度と味わいたくなくてアリスを無視したりして痩せさせるほど肉体的にも精神的にも追い込んだのだが、今となればエトヴァス自身もなぜあれほど怒っていたのか、ピンとこない。
他人など、自分の思い通りにならないものだ。
なのに、いつも一緒にいるアリスが自分に従うのを当然だと考えていたし、違う意見を持ち、自分に従わなかったことを不愉快に感じた。そして彼女を責めた。
本来違う意見を持つのは、違う生きものだから当然だ。
ましてや魔族と人間なのだから、違わない方がおかしい。今までエトヴァスは妃はおろか、誰かと一緒に生きたことがない。当然、誰かに何かを望むことは一度もなかった。だから見失ったのかも知れない。
今回のアリスの行動にもし間違いがあるなら、エトヴァスとは異なる自分の意見をエトヴァスに素直に口にしなかったことだけだ。
そのかわりアリスは、エトヴァスの理不尽な怒りを文句ひとつ言わずに受け続けた。失血で気を失おうが、血肉を食われる痛みも歯を食いしばって耐え、ストレスで食事ができなくなっても言い訳ひとつしなかった。
だから、今回の一件がエトヴァスにとって不快なものに終わっていたとしても、“おあいこ”にはほど遠い。本当はエトヴァスの方が酷いことをしている。エトヴァスにはその自覚があった。
ただ申し訳なさそうに眉をハの字にしているアリスを見ると、それをわざわざ訂正するのも面倒で、エトヴァスは早々に話を変えることにした。
「寒桜はきれいだったか?」
エトヴァスはソファーの前のローテーブルに用意されているコーヒーをすすりながら、アリスに問う。
もともとヘルブリンディの屋敷に行ったのは、アリスが寒桜を見たいといったからだ。最近冬で景色は雪ばかりだった。退屈していたのも知っていたから観桜もいいと思った。
アリスはぱっと顔を上げ、「う、うん」と躊躇いがちに頷く。
「・・・す、すっごくきれいだった。あんな大きなお花の木がいっぱいなのははじめてみたんだよ。だから、エトヴァスが連れて行ってくれてすっごくよかった」
不愉快を示していたエトヴァスの手前、最初こそ控えめだったし、いつもどおりおっとりした言い方だったが、感情が高ぶってきたのだろう。その紫色の瞳をきらきらさせて、最後は小さな拳を握りしめてぶんっと振った。
熱弁されても、エトヴァスにはよくあんな大きな寒桜を何本も集めたなと思うだけで、「きれい」と思う感性はない。
だが、テンションの高いアリスを見ていると不思議な心地になる。
アリスがこんなにエトヴァスがすることに喜んだのは、はじめてかもしれない。前に動物園につれて行ったときは、人間が多かったこともありアリスは怖がってばかりだった。動物に餌やりをしたことはそれなりに楽しかったようだが、それなりだ。
こんなに力説することはなかった。
「花なんて、どうせ春になればたくさん見れる」
エトヴァスは揺れる自分の感情を隠すように言った。
今は冬で、雪に覆われているからこそ濃い桃色の花はアリスにはうれしかったのだろう。だが、春になれば桜並木などいくらでもある。畑は一面、蓮華畑や菜の花畑にかわる。花が好きなら数本の寒桜などではなく、美しい光景は季節ごといくらでもある。
「そうなの?素敵だね」
アリスは紫色の瞳を瞬き、笑う。
花など次世代を残すための生殖行動の結果に過ぎない。それでもアリスの笑顔を見ていると、エトヴァスですらどこに花が咲く場所があったかと無駄なことを考えてしまうのだから、おかしな話だ。
先ほど感じた不快感はもうない。
「来い」
エトヴァスはアリスに腕を伸ばし、抱き寄せる。アリスは少し驚いた顔をしていたが、そのまま身を委ねてきた。
はじめて喧嘩をしてからアリスは躊躇いがあるのか、前のようにエトヴァスに抱きついてきたり素直に甘えてこなくなった。ただエトヴァスにひっついておきたいという感情は変わらないらしく、エトヴァスが手を伸ばせば必ず抱きついてくる。
だからエトヴァスは自分から極力アリスを抱くようにしていた。エトヴァスは少し軽くなったアリスを自分の膝に抱き上げてから、あらためてアリスを見下ろす。
そして彼女がまだ持っている飴の小瓶を手に取った。
エトヴァスの手のひらにおさまるほどの小瓶にはギリギリまで丸く色とりどりの飴が入っている。手鞠飴というやつで、飴のひとつひとつに線が入っている飴だった。
「これ、人間のなかで暮らしていた頃に、見たことがあるな」
エトヴァスはこの凝った作りの飴を百年前、人間のなかで暮らしていた頃に見たことがあった。よく考えてみれば、前にシヴがアリスに送ってきていた金平糖もそうだ。
魔族は食べられればいいという文化性がまだ根強いが、人間は見た目にこだわる。人間のなかで暮らしていた頃、女たちがこうしたものを売る店に行列を作っていて、不思議に思ったことがあった。人間のなかでもそれに並んでいたのは大半が「女性」だった。
要するに種族の差を超えて、女はこういうものにめざといわけだ。
「・・・純血の魔族のくせにあの女、こんなものをよく見つけてくるな」
魔族は本来情緒が人間より乏しいと同時に、色彩感覚も人間より悪く、繊細な作業に向かない。恐らく人間ほど微妙な色合いの見分けがつかない。味や見た目に対するこだわりも乏しい。それでもシヴは純血の魔族だというのに、こういうものを購入する感性があるらしい。
男でそんな純血の魔族など聞いたこともないので、エトヴァスは素直に感心する。
「でも、綺麗だよ」
アリスはにこにこと笑う。
シヴはアリスの好みがわかるのか、前に送ってきた金平糖もアリスのお気に入りだったし、今回の一件の原因にもなった寒桜のカードを贈ってきたのも彼女だ。確かシヴには複数子供がおり、ひとりは娘だ。少女の好みそうなものが、わかるのかもしれない。
それが若干しゃくに障ったが、エトヴァスはそれを近くのローテーブルに置き、アリスの手触りのよい亜麻色の髪をなでる。
「・・・飴なんて砂糖があればどうとでもなる。作ってみてもいいかもしれん」
「え?作れるの?」
「人間より魔族の方が表皮が熱に強いからな」
意味がわからなかったのだろう。アリスは紫色の瞳を不思議そうに瞬いて首をかしげている。
人間が飴を店頭で作るところを、エトヴァスはぼんやり見ていたことがある。今思い出しても手順や飴の温度、それぞれの手順の正確な時間などは覚えているし、人間は手袋をはめ、かなりつらそうに作っていたが魔族の肉体の強度は人間の比ではない。それほど難しくはないだろう。
一度、料理など一定の技術のある適当な魔族に方法を見せて、作らせてみてもいいかもしれない。
「それが好きなら、俺が作ってやる」
「すごいね。わたしのために作ってくれるの?」
アリスは本当に嬉しそうに笑う。その背中を撫でながら、エトヴァスは心のなかに広がる心地よい感覚に、内心なぜだろうと首をかしげた。
単純に表現するなら、なにやらとても気分が良い。
アリスに何かすれば、アリスは単純に喜ぶ。別にエトヴァスが花を見たいとか、飴を食べたいとか、そういう感情はない。だがアリスが喜ぶことが、それを自分に示すことが嬉しいような気がする。
アリスとエトヴァスは別の生きものだ。アリスが喜ぶことはエトヴァスに何の関係もない。なのに、変な話だ。たまに自分とアリスの境界が曖昧になっている気がする。
「花は、春になれば領内の蓮華畑につれて行ってやる」
「れんげ?」
「あぁ、濃い桃色の花が見渡す限り一面に咲く」
説明すれば、アリスはきらきらと紫色の瞳を輝かせた。
「そうなの?春が楽しみだね」
説明しただけで嬉しそうな顔をするアリスに、エトヴァスは気分が良くなる。そしてなにやら、早く春が来てほしいような気がした。
「こうして春を待つのか」
「え?」
ぼそりとこぼしたエトヴァスの言葉はアリスには届かなかったらしい。それでもアリスは気にせず嬉しそうに笑っている。
それを眺めながら、まだ雪が多くて暇なので、アリスのために飴でも作ろうかと考えた。
春まで、楽しめることはいくらでもあった。
そしてきっとエトヴァスさんはアリスにせっせとお菓子を作る
5章の結論
・エトヴァスさん、明確にアリスへの情を自覚する
・アリスさん、捨てられたくない感情の増幅→もうそろそろ不眠と不安が限界
・バルドルさんとトールさん仲良くなる