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魔族の将軍に捧げられた人間の少女のお話  作者: るいす
五章 少女、寒桜を見る
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20.エトヴァス


 エトヴァスはこの一週間、これ以上ないほど精神的にも肉体的にもアリスを追い詰めた。

 基本的に食事を運ぶとき以外の接触はしない。世話係のメノウも遠ざけた。アリスが窓もない部屋で人と関わることもなく過ごした幽閉時代を思い出し、精神的にくるだろうことは予想できた。

 毎日アリスの血肉を奪う際も痛みを魔術で緩和することもやめた。傷を治すことはしたが、罰だと思って噛みついた左腕の傷は今も治していない。たまに抉ることすらした。

 精神的負荷と、肉体的苦痛。

 それにこたえて二度としないと謝ってくるか、逃げだそうとするか。逃げだそうとすれば、引きずり戻せば良い。エトヴァスはアリスが二度と他者に情をかけないと誓うまで、それを何度でも、何年でも続ける気だった。アリスの体調がこれほど悪くならなければ。

 エトヴァスはバルドルの言葉が、頭の中でふと浮かぶ。


『俺はアリスを優先してる。あちらもそうすべきだろう』


 エトヴァスは心の底からそう思っていた。だがバルドルはエトヴァスにはっきり言った。


『人間はそんなことできない。それがわからないなら、うちの馬鹿な父親みたいに、人間の妃を殺しちゃうよ?』


 バルドルの母親は人間で、当時はまだ将軍だった魔王オーディンの妃だった。有名な話ではあるが、千年前まだ子供だったエトヴァスが詳しく事情を知るわけではない。

 ただ一般的には彼女はエトヴァスの父親でもある前の魔王に迫られ、白銀の檻の中で自死したとされる。だが、バルドルの言い方をふまえれば、前の魔王だけでなく父親であるオーディンにも、バルドルの母親を自死に追い詰める何かがあったのだろう。

 バルドルは少なくとも人間の母親と、自分の父親であるオーディンのやりとりを長く見てきたはずだ。事例は母親と父親だけだろうが、彼は頭が良い。人間と魔族の感情の持ち方の差について、自分なりの見解があるのかもしれない。

 だが、感情の持ち方に差があったとして、何が違うのだ。

 エトヴァスは自分がアリスを一番に優先するように、アリスにもそれを求めているだけだ。決して自分にできないことを他人に求めているわけではない。


『わたしは、エトヴァスのようには生きられない』


 先ほどアリスは震える声でそう言った。それは当然だと、エトヴァスも思う。

 魔族は食欲と性欲の生きものだ。感情の起伏はとぼしく、合理性を優先する。食欲と性欲のこと以外はどうでも良い。エトヴァスに性欲はないが、食欲には固執する。だから莫大な魔力を持つアリスに食糧として執着し、すべてを自分のものにしたいと思っている。

 そして、そこでエトヴァスは気づいた。


『同情するなと言ったはずだ。俺の言うことより他人を優先して楽しいか』


 エトヴァスはそう言ってアリスを責めた。

 だが、アリスを食糧だとしか見ていないのならば、その身を危険にさらしたことを叱責するはずだ。それなのにエトヴァスはアリスが他者に情をかけたことが、自分の言うことよりも他人を優先したことが、不愉快でたまらなかった。

 その気持ちは嘘ではない。嘘ではないけれど、そんなことを怒ってどうするのだ。

 今まで生きてきて、エトヴァスは他人に何の興味もなかった。他人に期待したこともないし、他人にどうして欲しいと思ったこともない。他人など思い通りにならなくて当然のものだ。どうにかしたいと思うこと自体が、おかしい。

 なのに、エトヴァスはアリスに自分と同じ感情を持つことを、求めている。

 エトヴァスはアリスを常に誰より優先する。魔族で感情の起伏に乏しいエトヴァスは今、恐らくアリスに対する情を抱き始めたばかりだ。当然もともと他の生きものに情など抱いたことがないのだから、ほかなど気にするはずもない。

 切り捨てるというたいした意識もなく、アリスだけを見ていることができる。そしてその情をアリスだけに傾けることができる。

 だが、アリスは違う。


『きもち、は、勝手に出てくるもので、変えられないの』


アリスはそう言っていた。

 アリスはエトヴァスとともにいる。いたいというアリスの言葉に、恐らく嘘でない。実際にエトヴァスに痛めつけられてもエトヴァスが与えた檻のなかから逃げようとは絶対にしない。

 だがヘルブリンディの件は、人間の妃が関わっている。アリスは人間であり、彼女を哀れに思うのは自然な流れだ。エトヴァスが情をかけるなと言い、アリスも頭ではわかっていただろう。だが、だからといって情は自然と出てくるもので、制御できるものではないのだ。

 感情は人間にとって恐らく、エトヴァスたちが抱く、食欲と性欲のように衝動的で、自分ではどうにも出来ないものなのだろう。


『だから、本当にごめんなさい』


 自分はこんなふうにしか生きられない、だから、ごめんなさい。

 そしてだからこそアリスは、こんなに酷い扱いをされてもまだ、エトヴァスのもとにとどまり続けている。


「吐き気は、いつからだ?」


 尋ねると、アリスはゆっくり顔を上げて「4日くらい前かな」と答えた。アリスにこうした扱いをして一週間だから、ほぼ食事をできていないことになる。


「いつから寝てない」

「・・・うーん、いつからだろ。怖い夢を見るから、ねたくないんだ」


 答えは力がなかった。


「・・・」


 まだエトヴァスのなかでは、あのとき感じた不愉快や不快感が残っている。

 理論的に理解できたからと言って、この不愉快をどこかにぶつけたい、アリスに責任をとらせたいという気持ちはある。

 だが、どれほどエトヴァスが追い詰め、酷いことをしても、同じようなことは二度としないとは約束しないし、約束させても守れないだろう。アリスが精神的に静かに死んでいくだけの徒労だ。

 それでも、アリスはエトヴァスを責めない、逃げない。


『・・・俺の不愉快はどうなる』

『子供に何の発散を求めてるの?僕ら、大人だろ?』


 バルドルはエトヴァスが自分の不愉快の解消をアリスに求めているとわかったとき、そう笑って見せた。

 エトヴァスは感情の起伏に乏しく、共感性が低い純血の魔族であるため、自分の感じることや自分のことが最優先だ。しかしながらバルドルは混血の魔族で、だから真っ向から子供であるアリスに不愉快をぶつけようとしているエトヴァスを諫めた。

 エトヴァスはこうした不愉快を抱くのはアリスが来てからなのでよくわからないが、恐らくこういうことは子供であるアリスで解消するものではなく、多分自分でどうにかするものなのだ。

 同時に今回の一件でアリスに非があるとするならば、彼らに同情したことでもエトヴァスの言うことを無視したことでもない。

 勝手にヘルブリンディと相対し、その身を危険にさらしたことだけだ。

 少なくとも、アリスは死の瞬間までエトヴァスとともにいようとここにとどまる。エトヴァスと生きること以外未来は考えていない。どんな責め苦も受け入れ、死ぬまでここにとどまると、アリスはその気概をきちんとエトヴァスに見せた。

 まだエトヴァスのなかで不愉快という感情はくすぶっているが、アリスが死ぬ前に、エトヴァスは矛をおさめねばならない。


「・・・」


 アリスの左手を掴む。軽く引けば、アリスがその顔を歪めた。

 痛いのだろう。左の二の腕には、エトヴァスが肉を食った痕がある。こちらは柔らかくて美味しかったが、生きながら喰われるというのは例え少しの傷だったとしても相当痛かっただろう。傷が塞がらないように抉ったから、膿んでいて傷はまだ塞がっていない。

 またはじまると思ったのだろうか。

 アリスは一瞬俯き、覚悟を決めるように目を閉じた。

 アリスは叫ばない。悲鳴も上げないように奥歯を噛みしめ、泣きもしない。エトヴァスの怒りが過ぎていくのを待つ。それを受け止めるのが当然だとでも言うように、逃げたりもしない。

 アリスはエトヴァスの傍にいる。どんなにエトヴァスが酷いことをしてもだ。

 恐らくこれを何年繰り返しても、アリスの態度は変わらないだろう。緩慢にアリスが衰弱するだけだ。魔族ならいつまでも結論を待てるが、寿命の短い人間のアリスにそんな時間はない。

 そして、どれほど酷いことをしてもエトヴァスの隣にいるというこの事実で、エトヴァスは納得すべきなのだろう。

 そうでなければ、きっとアリスを殺してしまう。

 それを食糧として以上に惜しく思う自分に、アリスに対する食欲以上の情に、エトヴァスはもう気づいていた。

 エトヴァスは、馬鹿ではない。

 自分でも頭が良く、慎重な方だと理解している。だからこそ、自分がアリスに抱きはじめたこの情の名前は知らないが、異常性も、自分の本心も、きちんと理解していた。

 アリスを思い通りにしたい。だがエトヴァスはアリスを壊したくない。失いたくない。


「痕は残るだろうな」


 エトヴァスは魔術を使い、その傷を治す。

 腕の傷は一部治りかけており、それをまた抉っている。傷を受けてすぐならともかく、魔術で治してもそれは現状から治るので、痕は残るだろう。


「・・・」


 アリスは紫色の大きな瞳を瞬き、少し驚いた顔をした。


「おまえはフレイヤの一件の時、俺になんて言ったか覚えているか?」

「え?」


 思い当たらないらしい。


「怖いから、次、同じことをするときは、最初からごまかさないで、教えて欲しい。そしたら、わたしもちゃんと意見を言うから」


 エトヴァスはアリスの言葉をそのまま復唱する。

 エトヴァスが同じ将軍職のフレイヤがアリスを襲うように仕向けたとき、アリスはエトヴァスにそう言った。自分とエトヴァスは一蓮托生だから、計画や考えを共有しようとアリスが言ったのだ。


「・・・言った」

「都合のいい話だ。おまえは俺が反対するような、都合の悪いことはだんまりか」


 エトヴァスが言うと、アリスは静かに目を伏せた。

 ヘルブリンディの屋敷で、確かにエトヴァスはアリスを喰おうとする視線に、気づいていたし、狙っていることもわかっていた。ヘルブリンディが幻術まがいのものまで使ってエトヴァスたちを屋敷に誘ったのも、殺して欲しいと喰いたいの半々だろうと予想していた。

 屋敷に入ったときから、アリスを狙う魔族がふたりいるのもわかっていた。魔術の構造式というのは隠していても見える魔族にはそこそこ見える。ましてやヘルブリンディはそういうことが得意ではない。そして構造式の癖がふたつあった。

 アリスを狙うなら、容赦などしない。もちろん殺す気だった。

 アリスもそう思っていたのだろう。だが人間の妃に同情していたアリスは、ヘルブリンディはともかく、彼の息子だけは助けたいと思った。だからエトヴァスから離れて、直接その息子に会おうとし、ヘルブリンディとも相対することになってしまった。

 なにもなかったとはいえ、それは危険な行為だ。

 もちろん、アリスに止められたとしてもエトヴァスは自分がふたりを殺すことを譲ったとは思わない。ただアリスが命を張っていやだと言えば、少しは考えたと思う。


「ごめんなさい」

 

 やっと普通の、素直な謝罪が帰って来る。そして紫色の瞳にあっという間に涙がたまり、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。


「何故泣く」

「・・・わ、わかんない・・・でも、ごめんなさい、」


 ぎゅっと寝間着の裾を握り、アリスは謝る。ぽたぽたと寝間着に涙がこぼれ落ちる。素直に甘えられなかったり、言いたいことを上手く言えないとき、アリスは抱きつくかわりに服や寝間着の裾を握る。

 ヘルブリンディに相対する前にも、そうしていた。だからすぐになにかするとわかった。


「来い、」


 呼べば、すぐに、でも躊躇いがちに細い腕が伸びてくる。エトヴァスはその小さな体を引き寄せ、強く抱きしめる。

 一週間ぶりの小さな体は少し痩せたのか骨張った気がした。それでも相変わらず温かく、自分より体温が高いとわかる。ただの小さな子供の体だ。それなのにその重みが、温もりが、エトヴァスの心を満たしていく。張り詰めていたなにかが、なくなっていく。

 頭を優しく自分の肩に押しつけるように撫でると、あんなに柔らかでさらさらしていた髪は何故か指が通らなかった。


「・・・おまえ、髪もとかなかったのか」

「うん」


 エトヴァスはアリスの亜麻色の髪を見下ろす。そして眉を寄せてしまった。


「それ以前の問題だな。きちんとすすがなかっただろう。石鹸が固まってる」

「え?・・・本当?」


 アリスはまだ十歳、人間らしい生活を始めてから一年くらいしかたっていないため、生活習慣はずさんだ。子供だと言うこともあり、エトヴァスが少し言わなくなれば全部やらなくなる。


「しかも、そのまま絨毯に転がっただろう」

「なんでわかるの?」

「絨毯と同じ色の埃がついてる」


 すんっと、アリスが鼻をすすった。


「メノウを呼んで、まず風呂だな」

 

 エトヴァスはそう言ったが、エトヴァスの背中に回されている小さな手は必死に縋りつくようにエトヴァスの服を掴んでいる。その手を振り払うことは容易い。ただ、別にこのままで良いと思う。どこか、この温もりから離れがたいと思う自分がいる。

 アリスと離れていたこの一週間、アリスのことばかり考え、不愉快で仕方がなかった。

 自分でアリスを痛め付けるために一緒に過ごさないと決めた。なのに、唯一アリスに触れる夜が早くくればいいと思った。早く謝ってくれれば、この小さな体を抱きしめられるのにと思った。

 腕のなかの温もりからあまりに離れがたくて、エトヴァスは口を開く。


「風呂は、手伝ってやる」

「・・・ほんとう?」


 アリスが嬉しそうな顔をする。手伝うといってもせいぜい長い髪を綺麗に洗ってやり、着替えたのを見計らって髪を櫛ですいて、乾かしてやるだけだ。


「だが、メノウには言うなよ」

 

 エトヴァスはアリスに言った。

 アリスの世話係の鬼のメノウは基本的にアリスを食糧にするエトヴァスを軽蔑しきっているし、アリスを大切にしている。

 そんなメノウが来たと同時にアリスに説いたのは、エトヴァスが男性で、その前で服を着替えたり、風呂に入るというのはあり得ないという、至極一般的な思考だった。実父ならともかく、エトヴァスは他人だ。それを気にしてのことだろうが、アリスにはほぼ定着していないらしい。

 むしろ、エトヴァスと離れる方が不安なようだ。


「仕方のないやつだな」


 エトヴァスはアリスを抱き直す。

 風呂が終われば、少し消化に良いものを食べさせねばならない。それから寝かしつけだ。アリスがいれば、エトヴァスのやるべきことは突然増える。

 安心したようにひっついてくる小さな体を軽くも重たくも感じるようになったのは、自分も変わったという何よりの証だろう。いらいらしたり、不愉快になったり、でもこの温もりに安堵する自分がいる。

 変わったんだなと思うし、これから自分がどう変わるのか不安もある。

 だが、小さなアリスを眺めながらぼんやりとアリスのことを考え、今、エトヴァスは千年以上の人生のなかではじめて自分が生きているような気がした。

 自分も生きている、そんな気がしていた。


・エトヴァスさんはいつでも慎重で理知的で平坦な大人であり、同時に感情的には無垢な子供

・単に自分が好きな人に自分を優先して欲しいという気持ちを、いろいろ大人らしい論理をこねくり回して理由をつけてそれっぽくアリスに押しつけているだけ

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