(4)
その日、初めて竜を目撃した星たちは、それがいったい何なのかわからなかった。
黒く、太く、大きな胴体をくねらせながら宙を泳ぐ竜は、あちこちの星座を巡りながら、ただ一人を探していた。自分たちにとって唯一無二の存在――自分たちの膨れ上がった炎を繰り返し鎮めることのできる、優しい妃を。
「宰相よりご指示です! 姫様を陛下の星座にお連れするようにと!」
星座ペルセウスの近くで黒い竜と応戦していた天鵝たちに、宰相府から駆け戻ってきた風使副団長の宝瓶が声を張り上げる。
衛府に出勤するところだった天鵝は、自分目がけて突っ込んでくる黒い竜に驚いた。一緒にいた摩羯がかばおうとしたが、竜は天鵝だけを執拗に追いかけていく。衛府に逃げれば竜が衛府を破壊しかねない。もし監獄に穴でも開けば大変なことになると、天鵝はあえて宙を逃げ回ることを選んだ。そうしているうちに、衛士たちが助けにきた。しかし竜に触れただけで衛士は焼けてしまい、無駄死にを防ぐために天鵝は衛士の増援をとめた。今、天鵝とともに竜に立ち向かっているのは、摩羯と火使団だ。
「絶対、陽界の生き物だろう。なんでこんなのが月界にいるんだ!?」
火使第一小隊の一人がわめく。隣で馬を馳せながら「知るわけないだろっ」と人馬も返す。
「人馬! 賀壁! 第五、第六小隊を連れて白羊の隊と入れ替えだ!」
摩羯とともに天鵝の隣を駆けていた獅子がふり返りざま命令する。白羊の隊は一番最後尾で竜の行く手を阻んでいる。「はい!」と声をそろえて二人は隊を離れた。
なぜ地使なのに摩羯が竜の攻撃に耐えられるのかはわからない。それでも兄が天鵝を守る立場でいられてよかったと人馬は思った。
白羊率いる第二小隊と第三小隊は半分がボロボロになっていた。負傷しながらも懸命に竜の進路を妨害する形で走っている。天鵝が星座ケフェウスに到着するまでは何としてももちこたえる――ただその一心で火使は踏ん張っていた。
「白羊、交代する!」
人馬の呼びかけに白羊がふり向いた。さすが副団長だけあって、白羊はまだ無傷のようだ。
「わかった! 第二、第三小隊は下がれ!」
白羊の号令に、動ける者から竜のそばを離れていく。衛士たちの列の隙間をぬっていこうとした竜を、人馬と行動をともにする第五小隊が防いだ。
竜は明らかに怒っていた。雄叫びをあげて先へ進もうとするが、そのたびに火使が目の前を横切り、また視界を遮って足止めするからだ。
まもなく星座ケフェウスが視認できる距離にまで近づいてきた。天鵝が星座に入れば、星帝が輝力で星座ごと防御壁でくるむことになっている。あと少しだ。
けがを負って動きの鈍い衛士の間を白羊が行ったり来たりして、逃げる方向を指示している。時には白馬の尻をたたいて無理やり進ませていた。そして何とか第二、第三小隊の全員が星座ケフェウス目指して駆け出し、しんがりを白羊が務める。
天鵝はもうケフェウスに入りかけている。そのとき、竜がいきなり火を吹いた。慌てて回避した人馬たちはかろうじて免れたが、竜に背を向けている白羊は気づいていない。
「白羊!!」
炎の直線上にいる白羊に獅子が叫ぶ。白羊がようやくふり向き、目を見開いた。しかし白羊はよけない。自分の前を行く負傷した団員たちの盾になるべく、馬首を反転させて炎を迎える。
「青斗、ごめん!」
人馬は愛馬を疾駆させた。そしてギリギリのところで炎と白羊の間に割り込んだ。
ゴオッと赤黒い炎に飲まれたと思った瞬間、反対側から飛んできた輝力に包まれた。熱さと痛みに苦しむ前に、柔らかい優しさを肌に感じる。
天鵝だ。星座サギッタリウスが救われたときと同じ波動に、人馬は安堵した。キラキラとした天の川のような輝きの帯の先を見ると、やはり天鵝が全身を光らせている。
ちょうど天鵝の輝力の範囲内にいた衛士たちも、けがが癒えて驚いたさまで互いを見合っている。そして黒い竜は――小さくなっていた。
ケフェウスから出てきて天鵝の脇を茶馬で駆け抜けた東雲が、手にしていた網を竜に放り投げる。捕獲された竜はすっかりおとなしくなっており、東雲の後ろにいた霧雨の持つ籠の中に入れられた。
天鵝や摩羯、火使団からの驚きと困惑の視線を浴びながら、ゆったりと天鵝のそばに戻ってきた東雲が満足げに口角を上げた。
「やはり、あなたが冷妃か」
月界で起きたという火事を鎮めたのもあなただなと、ほぼ断定の問いかけをする東雲の深紅の双眸は、本当に嬉しそうにきらめていた。
天鵝の護衛として奮闘した火使団は仙王帝から直接ねぎらいの言葉をかけられ、仙王宮で休むことを許された。天鵝の輝力を浴びた者が多かったおかげで治療の必要な衛士はほとんどおらず、皆が光り輝いていた天鵝について興奮気味に話している中で、白羊は人馬を力一杯こぶしで殴った。
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまで馬鹿だとは思わなかった。いったい何を考えてるんだ、お前は!?」
床に尻をついて殴られた頬をさすりながら、人馬はうつむいている。
「姫様が輝力を放出されたから助かったものの、そうでなかったら今頃丸焦げだぞ! 火使第一小隊は生き残るのが隊則だろうがっ」
「……白羊は、丸焦げになってもよかったのか」
ぼそりとつぶやく人馬の声が低い。白羊は一瞬詰まってから答えた。
「私は、自分の隊の団員に対して責任がある」
けがをしている団員を放って一人だけ逃げるわけにはいかないと言う白羊を、人馬が仰いだ。
「俺は――嫌だ」
半分怒っている目だった。もう半分は、いろんな感情が混ざりすぎて読み取れない。初めて見る人馬の顔つきに、白羊はとまどった。
人馬が立ち上がる。そのままむすっとして去ろうとした人馬に、白羊は念を押した。
「もう二度と、あんなまねはするなよ」
「……約束はできない」
「人馬!」
足早に部屋を出ていく人馬を追いかけた白羊は、入り口で獅子にぶつかりそうになった。
「かばってくれた相手をこぶしで殴るとはな」
どうやら見ていたらしい。苦笑する獅子に、白羊は反論した。
「あいつはあんなところで死んでいい男じゃないんです。それなのに……」
「お前だって、あんなところで死んでいい女じゃないだろう」
「私は――」
「お前が団員を見捨てられなくて炎を受けようとしたように、あいつもお前を放っておけなかったんだよ。あいつにとってお前は大事な副団長なんだから」
獅子が言葉の裏に込めた意味に気づいて、白羊はかたまった。獅子がにやりとする。
「なんだ、今まで本当に、まったくわかってなかったのか」
「いや、だってまさか……私はあいつより七つも年上ですよ?」
「摩羯と姫様は九歳差だろうが。双子と室女も六歳差。七つくらいたいした差じゃない」
女性が年上という点で言えば星帝と星妃がそうだろうと獅子が言う。
「それとも、二十の男はまだまだ子供にしか見えないか?」
「子供というより、弟のような感覚だったので」
「ああ、まあそうだな。じゃれついてくるところなんか特にな」
獅子が発笑する。
「なんで私なんだ……人馬なら、いくらでも選べるだろうに」
驚いたのと、こんな近くで想われていたことの恥ずかしさで、頭が回らない。明るい灰青色の髪をかきなでながらつぶやく白羊に、獅子は小首をかしげた。
「そうか? 俺は見る目があると思ったがな」
「こんなときまで、からかわないでください」
ますます困惑して眉間にしわを寄せる白羊に、獅子は浅緋色の瞳を弓なりにした。
「女なんかいくらでも選べそうな奴に選ばれたんだ。よけいなことをうだうだ考えないで、素直に好きか嫌いかで判断してやれよ」
最後にポンと肩をたたいて、獅子が脇を過ぎていく。室内で休憩している団員たちを回って様子を確認している獅子を、白羊はぼんやり眺めた。それから、人馬が出ていった先へ視線を移す。
「……そんなことを言われたって」
よろめくように壁によりかかり、ぼやく。
嫌いだと即答できる相手なら気にしなくてすんだのに。もしくは、何の感情もわいてこない相手なら。
驚惑の中にほんの少しだけ嬉しいという気持ちの種があったことにとまどい、白羊は目を伏せた。
謁見の間で東雲は説明した。陽界において、灼熱竜は太陽の光と熱そのものとして崇められているという。竜は年追うごとにその身の炎を大きくし、いずれは世界を飲み込み、消し去ってしまうと言われている。そのため、灼熱竜のまとう炎を抑えるための妃を、陽界で奉っているのだと。
「冷妃は月界でしか生まれないと伝えられている。しかもめったに誕生しないと。だから陽界では長年の間、代わりに側女を用意してきた。だが側女は一度灼熱竜を受け……触れると死んでしまうんだ」
先ほど天鵝を追い回していたのは黒点竜といい、灼熱竜の幼竜だと東雲は話した。もし灼熱竜が命尽きた場合、数多く存在する黒点竜の中の一匹が次の灼熱竜になるそうだが、現在の灼熱竜はかなり長生きをしているらしい。そしてあれは冷妃の匂いに敏感で、もし冷妃がこの世界にいれば寄っていくのだと。
「つまり、あなたの目的は最初から冷妃を捜すことだったと?」
壇上の玉座に座る仙王帝がけわしいまなざしを東雲にそそぐ。いつも穏やかな微笑をたたえている兄のめったに見ない顔つきに、天鵝は不安をあおられた。思わず背後にそっと手をのばすと、すぐそばに控えていた摩羯がこっそりにぎり返してくる。
「正しくは、二つあったと申し上げる。一つはお話ししたとおり、月界の武器が流入してきた件についての確認だ。そしてもう一つは、冷妃が実在するかどうかを知りたかった」
「どう見ても、重要視しているのは冷妃のほうに聞こえるけど」
猟戸皇子からの連絡で天鵝より先に仙王宮に到着していた天琴が、腕を組みながら冷ややかに東雲をにらむ。
「それは当然だ。陽界が消滅するかどうかがかかっている」
「今まで側女で対処できていたのだろう。なぜ今、冷妃を必要としているのか?」
猟戸皇子の問いに、東雲は一度悔しげに唇をかんでから答えた。
「側女として生まれてきた女が、役目を放棄したんだ。次の側女に選ばれたのは私の妹だ……妹はまだ八歳だ。すでに限界近くまで膨れ上がっている灼熱竜の相手をするには幼すぎる」
天狼と同い年の姫が側女に決まっていることに、天鵝は動揺した。仙王帝も宰相も天琴も痛ましげな目を東雲に向ける。
「側女は一度で死んでしまうが、冷妃は何度でも灼熱竜の炎を鎮められると言われている。だから姫君に頼みたい。どうか私と一緒に陽界に行ってもらえないか? 灼熱竜の炎が落ち着くまでの間だけでいい。無事におさまれば、あなたは月界にお帰しする」
妹を助けてくれ、と東雲が頭を下げる。静まり返った謁見の間で、天鵝はじっと東雲を見つめた。
天鵝の手をにぎる摩羯の手に力が入る。
もし自分が陽界へ赴くとなれば、きっと摩羯はついてくる。摩羯は陽界の武器で傷つけられても燃えることはないから、同行は可能だ。しかし――。
「……陽界には……行きません」
さほど大声ではなかったが、謁見の間に天鵝の返事が響いた。
皆が驚いた表情を浮かべている。天鵝なら申し出を受け入れるのではないかと予想していたに違いない。
顔を上げた東雲は、あせりと失望の色をあらわにしている。彼の妹のことを考えると心苦しかったが、天鵝は引きずられそうな思いを断ち切った。
「あなたは嘘をついています。あの黒い……竜は、命ある限り添い遂げようと言っていました」
だから一度竜のもとへ行けば二度と帰れないはずだと答えた天鵝に、東雲が口元をゆがませる。
「だから……私は行けません」
すみませんとあやまって、天鵝はきびすを返した。摩羯が後に続く。
「ちょっと待ってくれ!」
東雲が駆け寄ってくる。天鵝の腕をつかもうとした東雲の前に摩羯が立ちふさがった。剣の柄に手をかけて東雲を見据える摩羯に、すぐさま霧雨が間に入り、東雲をかばって同じく剣の柄をにぎる。
二人の衛士がにらみあう中、東雲は怒気を言葉に込めて吐いた。
「無礼な行為も一度は見逃してやったが。団長とはいえ、たかが衛士の分際で客人に刃を向けようとするなど、しつけがなっていないのではないか、衛士統帥殿」
東雲の嫌味にも天鵝はひるまず、正面から受けとめた。
「摩羯はただの衛士ではありません。そこにいる霧雨と同じ、耳飾りを下賜された……私の盾です」
主を守るためならば自分より高位の者を害しても罪には問われない――摩羯がその限られた存在であったことに、東雲と霧雨が目をみはる。
やがて東雲がため息にも似た苦笑を漏らした。
「なるほど。それならば不問だな」
東雲の合図に霧雨が下がる。それにあわせて摩羯も剣から手を放した。
「しかし、それならなぜ堂々と身につけないのか?」
摩羯がきちんと耳飾りを耳につけていれば誤解はなかったのにと文句を言う東雲に、天鵝はすげなく答えた。
「それはこちらの事情です。あなたに説明する義務はありません」
「……しくじったな。すっかりあなたに嫌われてしまったようだ」
両手を挙げておどけたさまで笑う東雲をにこりともせず見返してから、天鵝は仙王帝に一礼して場を去った。
仙王宮に泊まる際にいつも使う部屋に入った天鵝は、ようやくほっと息をついた。気を張った状態であれこれ考えすぎて、頭が痛い。
「姫様、大丈夫ですか?」
摩羯がそっと天鵝の額に触れる。星魂はまだ生き生きとしているのがわかったのか、摩羯も一度は安堵の表情を浮かべたものの、天鵝の心の揺れを察したらしく眉をひそめる。
「姫様がお気になさることはありません。あれは陽界側の勝手な都合です」
「……だが私は、天狼と同い年の姫を見殺しにしようとしている」
長椅子に力なく腰を落とし、天鵝はうつむいた。
「皇子は言葉をにごしていたが、ただ触れて死ぬわけじゃないんだ。あの竜は……交わることを望んでいる」
摩羯が息をのむ気配がした。
「夢で見なければ、私も気づかなかった。気づかないまま……安請け合いをしたかもしれない」
東雲の言葉を信じ、灼熱竜の炎を鎮めればまたすぐ月界に戻れると思ったはずだ。
でも自分は、夢で竜の望みを知ってしまった。だからどうしても承諾できなかった。
たとえ摩羯を連れて陽界へ行っても、竜と結ばれれば摩羯とは引き離されてしまう。その後はずっと冷妃として、竜をなぐさめ続けることになるのだ。
隣に摩羯が座り、膝上でにぎりしめている天鵝のこぶしを包むように手を重ねた。
「姫様」
「私は薄情で、自分勝手だ。私より小さな姫が犠牲になるとわかっているのに」
「姫様、もう……」
「自分の幸せを優先したいと思ってしまっている」
こらえきれなかった涙が頬を滑る。摩羯が手を重ねたまま、天鵝の肩を抱き寄せた。小さく嗚咽を漏らす天鵝を、摩羯はさらに強く抱擁した。
「もう何もおっしゃらないでください」
あなたが背負う必要はないのだと、摩羯が優しくささやく。その声に、ぬくもりに安心すればするほど、罪悪感もまたわき上がってくる。幼い姫にはきっと、そういう存在はいないのだ。つくることさえ許されていないに違いない。
「あなたが自分勝手なら、私はもっと非情です。このような話を持ち込んだあの皇子を切り刻んでしまいたいと考えているのですから」
「それは困る……が、やっぱり私は、お前に会えてよかったと思う」
こんなことを言うと死んでしまった摩羯の家族に怒られるかもしれないが、摩羯に耳飾りを授けたあのときの自分をほめてやりたいと泣き笑う天鵝を、摩羯は見つめた。
「陛下にお話しし、皇子には早急に帰っていただきましょう」
あなたを陽界になど行かせはしない――東雲に対する憤りと天鵝への慈しみを込めて、摩羯はまだ涙に濡れる天鵝の目元に口づけた。
「あの好色爺め! 先走って通い詰めていたのかっ」
部屋へ戻るなり、東雲は卓上の杯をたたき割った。
人のよさそうな姫だったから、同情すればすぐにでも動いてくれるだろうと期待していたのに、計画が台無しだ。
それでも天鵝に決まった相手がいなければ、まだ何とかなったかもしれない。しかし恋仲の男がいては、男を捨ててまで陽界に来るなどまずあり得ない。
その男が天鵝から耳飾りを受け取っていたことも、不利な状況を加速させている。どうりで最初からあまり畏まった様子がなかったわけだ。不敵にこちらをにらみつけていた色違いの双眸を思い出し、東雲は歯ぎしりした。
「こうなっては、少々強引に連れ去るしか方法はないな」
「あの地使団長がそばにいるときは、姫君に安易に近づくことはできないでしょう。あれはかなりの手練れです」
霧雨の進言に、東雲は眉をひそめた。
「衛士最強と誉れ高いお前でも苦戦する相手だというのか」
「苦戦どころか……おそらく負けます」
天蝎から聞いた御前試合の話と、先ほど対峙したときの感覚で判断したと、霧雨が唇をかむ。
「何とも厄介な者に耳飾りを与えてくれたな、あの姫君は」
舌打ちし、東雲は赤銅色の髪をかきむしった。
「地使団長を引き離す策を練る間、黒点竜をどんどん送ってもらおう。こちらの者は竜を見慣れていないから、複数に襲われれば慌てふためくだろう」
ついでに人が入るくらいの大きさの箱も用意してもらう、と東雲が言う。
「豪奢な馬車に乗ってもらい、皆に見送られながら月界を出発する予定だったが……」
手荒なまねをするしかなさそうだ、とつぶやいて、東雲は床に散らばった杯のかけらに冷えたまなざしを投げた。