(2)
星座ケンタウルスの中でも、他の墓地とは大きく離れた荒れ野の中に、それはあった。
みすぼらしく、名すら刻まれていない、不揃いな形の石の数々。
罪人として生を終えた者たちの、墓とも呼べない墓だ。埋葬された者の数だけ石は置かれているが、もはや誰がどこに埋まっているかすらわからない。
すぐ近くの大木が生ぬるい風を受けて葉を鳴らす中、烏鴉は一人、花の供えられた石の一つを見ていた。
「あなたにも罪悪感があるとは思わなかったな」
背後からやって来た昴祝の言葉に、烏鴉はつややかに笑ってかぶりを振った。
「違うわ。自分で真実を確かめようともしなかった愚かな女を嘲笑いに来ただけ」
月界を揺るがす大事件が起きたのは、八年前の今日だ。彼女のために賊を動かしたのは、自分。
第一皇子に見初められる幸運に恵まれたのは、はかなげで欲とは無縁の女だった。皇太子でありながら自分の輝力の性質では世が荒れるからと、あえて宰相の座にとどまり弟に帝位を継がせた夫の選択にも、文句を言わなかった女。
もともと体が丈夫ではなかった彼女は産後の経過が思わしくなく、その後何年も寝たきりになった。そんな彼女の専属薬師を探しているという話に飛びついたのは、第一皇子の目にとまる自信があったからだ。そして同性であったことが幸いし、自分は雇われた。
病弱な母親とは正反対に、生まれた子は健やかに育った。彼女の夫に似た、とても利発な子。この子が帝位を継いだほうがいい。あの、何をするにものんびりした皇子が皇太子などあり得ないと、皆が言っている。彼女の診察に通いながら、そうささやいた。同時に、あなたの夫は今、妻としての務めを果たせないあなたの代わりに別の女を閨に引き込んでいると。
妃は体調がすぐれないからと、会えないようにしたのは自分。皇子から彼女へ贈られた見舞いの品や手紙は、すべて自分が預かり処分した。彼女には何も届かないふりをし、皇子には、彼女は贈り物が気に入らないようだと伝えて。
そんな自分の声に彼女が耳を傾けるようになったのはいつ頃か、正確にはわからない。己のことには無欲でも、母として我が子に期待しないというわけではなかったのだ。特に、夫が自分をかえりみなくなったと信じた女には。
やがて彼女は目を患った。どこが悪いとはっきりしない。おそらく、精神的なものだったのではないかと思う。日に日に視力が衰えていく中、ついに自分は、そばに女官がいるときに彼女の願いを引き出した。何も見えなくなる前に、我が子が星帝になる姿を見たい――と。
だから自分は、つきあいのあった賊の頭領に話をもちかけた。宰相の妃が、皇太子の命を欲している。切り捨ててもいい者に仕事を与えてくれないかと。見目よくたくましいところを気に入って時折体を重ねていた頭領は、二つ返事で引き受けた。
そして決行の日、彼女の言葉を一緒に聞いた女官を連れて、一人寝をしている皇子の寝室に駆け込んだ。
妻の企みを伝えたときの皇子の顔は、今でも覚えている。即座に動いた皇子は、確かに皇太子の星宮を今しも襲おうとしていた賊を捕らえると、その手で妻を殺し、息子とともに自身も命を絶ったのだ。
最後まで自分に惹かれることはなかった皇子に、少しも未練がないとは言えない。しかし、自分は貪欲な男が好きだ。責任を取り、潔く死を選ぶ者をいつまでも想ったりはしない。
「こんな場所にも花を供える人がいるのね」
星たちから忌避される存在に心を寄せる者がいることに、烏鴉は目を細めた。
「烏鴉、あちらから連絡が届いた。第二皇子が来るそうだ」
「まあ」と烏鴉は目をみはった。
「いい男だと嬉しいわ」
「それは自分で確かめてみるといい。少なくとも、僕にとっては吉報だ」
目障りな女をこの世界から消せると、昴祝はとても楽しそうに笑った。
二人が去ってからも、木陰に腰かけていた男は動かなかった。茶色い外衣がはためかないようしっかり押さえつけていた男は、ずいぶん時間がたってから、ようやく体の力を抜いた。
コツンと後頭部を幹にぶつけ、宙をあおぐ。何もない空間をにらみつけた男は、やがて眠るように鉄紺色の双眸を閉じた。
「薄明帝第二皇子の東雲という。衛士統帥だ」
仙王帝の星宮で顔を合わせた赤銅色の髪の男は、口の端をりりしく上げてから天鵝と握手をした。年は兄帝より少し上くらいだろうか。彼の背後には、水使と思われる胴着を身につけた若者が立っているが、そのすきのなさそうな灰色の瞳は、天鵝とそばにいる摩羯を見つめている。
二人とも肌が浅黒かった。優しく静かな光に満たされる月界と違い、陽界の光は目がくらむほどまぶしいと聞く。精悍な顔立ちの二人の来訪者に名乗ってから天鵝は手を放そうとしたが、東雲はなぜか天鵝の手をにぎりしめたまま動かない。じっくりと顔を凝視され、天鵝は困惑した。
「あの……?」
「失礼。衛士統帥がこのように美しい姫君だとは思っていなかったので、少々驚いた。月界の衛士たちは毎日がさぞ楽しかろう」
薄い笑みは、摩羯に向けられていた。ちらりと見ると、摩羯も東雲をじっと見ていた。さすがに団長だけあって客人にいきなり言い返すようなまねはしないが、その表情には不快感がにじんでいる。
地使団長の摩羯だと天鵝が紹介すると、東雲は自分の背後にいる男をあごで指した。
「水使団長の霧雨だ」
暗緑色の髪を一房だけ腰まで長くのばした霧雨が、軽く頭を下げる。彼の左耳には、東雲の目の色と同じ深紅の玉の耳飾りがあった。
「さっそくだが、先日、月界の武器が陽界で見つかった。その件について情報交換をしたい」
「こちらでも陽界の武器を使用した者がいます。兄上、一室お借りしてもいいですか? 摩羯、団長たちを……」
「いや、このまま衛府に出向こう。案内してくれ」
残る団長三人を摩羯に呼びに行かせようとした天鵝は、東雲の申し出にとまどった。
仙王帝が傍らにいた宰相の猟戸皇子と小声で話し、猟戸がうなずく。
「かまわない。ただ、皇子はこちらで休まれるので、話が終わったらまたお送りしてくれ」
猟戸の言葉で、東雲がしばらく月界に滞在する予定なのを天鵝は知った。
「わかりました。では」
こちらです、と天鵝が歩きだす。ついてくる東雲と霧雨の不可解な視線をずっと背に感じながら、天鵝は二人を衛府へ導いた。
衛府に到着すると、すぐに衛士たちがいっせいに道の両脇に整列した。陽界の者は肌の色が違うので、客人だとわかったらしい。まもなく三人の団長と四人の副団長も出迎えに現れたので、天鵝は簡単に紹介した。
「団長はこのまま一緒に合議室に入る。摩羯、茶の用意を頼む」
「承知いたしました」
衛府内で他の団長もいるなら安心と思ったのか、摩羯は特に渋ることなく離れていく。東雲が不思議そうな顔をした。
「ここでは団長が給仕をするのか?」
「いいえ。ですが摩羯の茶は特別なので」
おいしいですよと笑う天鵝に、それは楽しみだと東雲も目元をやわらげる。先ほどまではぶしつけな態度が少し怖かったが、案外気さくな面もありそうだと天鵝は思った。
合議室で、大机をはさんで天鵝と東雲が向かい合う。東雲の隣には霧雨が座り、天鵝の隣は一つ空けて天蝎、獅子、双子が腰を下ろした。
雑談をしているとまもなく扉がたたかれ、摩羯が入室してきた。運ぶ手伝いをした金牛が一礼して出ていき、摩羯は一人一人の前に茶を置いてから、天鵝の横に着席した。それを見て、東雲と霧雨がかすかに首をかしげる。見た目にも団長の中では一番若い摩羯が天鵝のそばに座ったことが奇異に映ったようだ。二人のまなざしが摩羯の耳のあたりに向けられたことに天鵝は気づいたが、素知らぬふりをした。
「――いい香りだな」
手元の茶器からたつ湯気に、東雲が深紅の双眸を細める。どうぞと天鵝が勧めると、二人は口をつけた。
「……これは、うまいな」
「陽界にはない茶ですね。とてもおいしいです」
素直に驚いた表情を見せる二人に、摩羯が「恐縮です」と答える。天鵝も自分のことのように誇らしくなったのが顔に出たらしい。東雲が小さく吹き出した。
「なるほど、姫君が言うだけのことはある。いい趣味だ」
あっという間に飲み干してしまった二人に、摩羯が腰を浮かしておかわりをそそぐ。よほど気に入ったのか、霧雨が後で茶葉を分けてほしいと摩羯に頼んでいるのを聞きながら、天鵝は本題に入った。
まず、陽界の武器が月界でどう使われたかを報告する。黙ってうなずいていた東雲は、予想される武器の数について話が及んだときに、眉をひそめた。
「こちらで発見されたのは五つだ」
「それは……少なすぎますね」
「やはりまだ隠し持っているな」
あごをなでながら、東雲が口の端を下げる。
「狙われたのは?」
天鵝の問いかけに、東雲は皮肉めいた笑みを漏らした。
「私だ」
天鵝は目をみはった。
「ですが、月界の武器は……」
月界だけでなく陽界の武器も、帝室の者にはただの武器でしかない。貫かれれば血は出るが、やけどのような追加の傷を受けることはないのだ。
「私にきかないのはおそらく承知の上だろう。だから正確には、私ではなく私の周囲を狙ったというべきか」
月界の者が陽界の武器に傷つけられると燃えたり焼けただれたりするが、陽界側にとっては月界の武器は冷たすぎて血の流れすら凍らせてしまう。そんな武器に対し、月界で火使がかろうじて死なずにすんでいるように、陽界で月界の武器に耐性があるのは水使だ。
「あなたが狙われることに、心当たりは?」
「ありすぎて、誰が主犯かわからんな」
今度はにやりと不敵に笑う東雲に、天鵝は半分あきれ、半分感心した。自分の命が脅かされていることに、まるで危機感をもっていない様子だ。しかしその豪気な雰囲気が清々しく、魅力的でもある。
陽界の衛士たちはきっと彼を慕い、まとまっているのだろう。そう思わせるものが東雲から感じられた。
「何だ?」
「いえ……そちらの衛府も活気がありそうだと思いまして」
「そうだな。皆よく働いてくれるし、よく飲む」
ここにいる霧雨など、陽界で一番強い酒を朝まで飲んでも平気なくらいだと笑う東雲に、天鵝と月界側の団長たちがそろって驚いた。
「そちらの水使も酒豪ぞろいですか」
「も、ということは、月界の水使もか」
東雲がおもしろそうに天蝎を見やる。天蝎と霧雨はすでにどちらが酒に強いか探り合っている目をしていた。
「ははっ。これは一度飲み比べをする必要があるな。どうだ、姫君、どちらの水使が強いか賭けないか?」
「泣きを見るのはそちらですが」
「見かけによらず傲岸だな。では霧雨が勝ったら――姫君には陽界へ来てもらおうか」
東雲が深紅の瞳をすがめる。天鵝は首をひねった。
「それくらい……」
「姫様、なりません」
わざわざ賭けなくても、事前に通達すれば普通に訪れることができるのではと言いかけた天鵝を摩羯がとめた。
摩羯は眉間にしわを寄せ、鋭い眼光を東雲に向けている。摩羯がいつになく警戒の姿勢をとっていることに、天鵝は口をつぐんだ。
「どうしてもとおっしゃるのであれば、宰相と陛下にご相談したうえで、最低でも衛士一使団をお連れください」
百名あまりを率いていけという摩羯に、東雲が低く笑った。
「そちらの地使団長はずいぶんと過保護なようだ。ただ見学に来るだけのことに大げさすぎるのではないか?」
摩羯は唇をかたく結んで東雲を見据えている。馬鹿にされてもいっこうに引かない摩羯の横顔をしばらく見つめてから、天鵝は東雲に答えた。
「あなたが刺客に襲われなくなったら、また考えさせていただきます」
「衛士の言いなりでは、統帥は務まらないぞ」
鼻白んださまの東雲に天鵝は反論した。
「言いなりではありません。信頼しているんです」
摩羯の視線が天鵝をとらえる。それに微笑で返して、「今日はこの辺で。そろそろ兄上の星宮へお送りします」と腰を浮かした。
帰りは天鵝と摩羯、そして天蝎が東雲たちと馬を並べた。天蝎と霧雨は酒の話で盛り上がっている。東雲もいかに霧雨が底なしかをおもしろおかしく語るので、仙王宮に着くのがあっという間に感じられるほどだった。
星宮の石畳まで来て、一度馬を下りる。すっかり意気投合したのかまだ話している天蝎と霧雨に、東雲が苦笑した。
「やれやれ。まさか霧雨と互角に飲めそうな者がいるとはな」
今度訪れるときは、陽界の自慢の酒を持参してこないといけないなと肩をすくめる東雲に、天鵝も笑った。雑談が楽しくてすっかり油断していた天鵝は、ゆらりと身をかがめてきた東雲に反応が遅れた。
「ところで姫君、体のどこかに黒い痣のようなものはないか?」
耳元にささやかれ、びくりとこわばる。
「……なぜそんなことをお知りになりたいのですか? 痣の一つや二つ、誰にでもあるのでは?」
「確かにな」と東雲は笑った。
「もしあれば……あなたの白い肌に映えるだろうと思っただけだ」
東雲の視線が天鵝の全身をめぐる。まるでその痣がどこにあるのかを探すかのように。そのとき、今まで遠慮して少し離れていた摩羯が駆け寄ってきた。天鵝を背にかばい、東雲をにらみつける。高位の者同士の間に割り込むのはかなり無作法な行いだったが、東雲はわずかに目を細めただけで叱責はしなかった。
天鵝は摩羯の後ろに隠れるだけで、不思議なくらい安堵の念がわき上がってきた。その腕にすがりつきたくなるのを必死にこらえ、「ではここで失礼します」とだけどうにか告げる。天蝎と霧雨も急に変わった空気を察したのか、表情をかたくしてやって来る。
「今日はよい時間をもらった。また明日」
東雲の笑顔に見送られ、天鵝は摩羯と天蝎を連れて場を離れた。
「姫様はこのまま星宮へお帰りになったほうがいいと思います。私が付き添います」
勤務終了を告げる宰相府の鐘の音が響く中、摩羯がそう提案する。天蝎も天鵝の顔色が悪いことを気にして賛成したので、二人の言葉に甘えて天鵝は衛府には戻らず天鵝宮へ向かった。
摩羯はいつも天鵝を送り迎えするときと同じく、天鵝の私室までついてきた。そして人払いをしてから、摩羯は天鵝の両肩に手を置いて顔をのぞき込んだ。
「姫様、皇子はあなたに何をお話しになったんですか?」
天鵝は心配そうな摩羯を見て、少しだけためらってから答えた。
「体に、黒い痣のようなものがないかと聞かれた」
「……もしや、左足の?」
天鵝ははっとした。
「どうしてそれを――」
「前に姫様が落馬された際、仙王宮で手当てさせていただいたときに偶然見ました。黙っていて申し訳ありません」
天鵝はかぶりを振った。
「ただのホクロか痣だろうと、今まで気にしていなかったんだ。まさか人に探られるようなものだとは……」
抑え込んでいた震えが急に表に出てきて、天鵝は自分の両腕をさすった。
「お前のおかげで助かった」
何が問題なのかわからないままあの場で暴かれていたかもしれないと想像するだけで、怖くなった。
「あの方がこちらにいらした理由は、武器の流出の件だけではないかもしれません」
天鵝を見る目が最初からずっと気になっていたのだと、摩羯が言う。
雑談の中で、東雲たちの乗る茶馬も白馬と性質が同じだと聞いた。だから彼らが悪事を働くことはないと信じていたが……。
「少なくともその痣が何を意味しているのかわかるまでは、今まで以上に周囲にはお気をつけください。決してお一人で行動なさらないように」
天鵝はこくりとうなずいた。それでもまだ落ち着かないのを見て取ったのか、摩羯がそっと抱きしめてきた。
「私があなたを守ります」
先ほど飲んだ茶の香りが鼻に触れる。摩羯の匂いだと思うだけで安心できる。自分を包み込む優しい腕の力に、天鵝は息をついた。
「私は、お前に頼ってばかりだな」
「かまいません。むしろもっと頼ってください」
「あまり甘やかすと、天狼のようになるぞ」
「私がそばにいないと泣き騒いでくださるなら、喜んで甘やかします」
天鵝は吹き出した。
「それはだめだ。衛士統帥が務まらない」
「姫様」
不満げな摩羯の顔を両手ではさむ。少し緊張したが、前に進むために天鵝は思い切って言った。
「だが、そうだな……二人でいるときは、お前だけを見ていたい、と思う」
色違いの双眸に喜色と熱情が浮かぶのを見て、もう後には退けないと覚悟する。
「今度は、覚えていないとは言わせないぞ」
「もちろんです」
「……お前、やっぱりあのときの記憶があるんじゃないか?」
とがめる天鵝に摩羯はただ微笑み、ゆっくりと顔を寄せてきた。
触れるまでの時間に鼓動が速まる。触れてしまうと時間がとまった。
今はまだこれが精一杯だった。それでも摩羯は満ち足りた表情で、恥じる天鵝を抱く手に力を込めた。
仙王宮に用意された寝所に腰を落ち着けた東雲は、目の前の卓上に酒と杯を置いた女官を抱き寄せながら、持ってきた荷物を開ける霧雨を眺めていた。
就寝時にもう一度来るようささやくと、若い女官は頬を朱に染めて出ていった。星帝の星宮ゆえに女官も貞淑な者ばかりかと思っていたが、そうでもないようだ。
「あの地使団長は、姫君に懸想しているようだな」
「お美しい方ですので、無理はないかと」
陽界で東雲に従う衛士たちとはまた違った崇拝の仕方を月界の衛士たちの間に見たと、霧雨は笑った。剣も扱えるし、指揮もとる、決してお飾りではない衛士統帥は、月界で絶大な人気を得ているらしい。
「もし陽界に連れ帰れば、衛士が私の言うことを聞かなくなるかもしれんな」
「そうですね」
否定しない霧雨に東雲は鼻を鳴らした。
「お前はあの水使団長を持ち帰りたいだろう」
「妙な言い方はやめてください。話があうのは確かですが、彼には妻子がいるそうですし、私も」
「愛する女がいる、か?」
幼馴染として育ちともに水使に入団した女と、結婚の準備をはじめたと霧雨から報告されたのは、出発する直前だった。
「ずっと同じ女とつきあって、よく飽きないな」
「あなたは、こちらの世界にまで胤を落とさないよう、気をつけてくださいね」
霧雨が背を向けている間にこっそり耳打ちしたつもりだったが、女官への誘いにどうやら気づいていたようだ。
「姫君のほうも地使団長を憎からず思っていそうな気配だったが、そうなると姫君の耳飾りは誰が持っているんだろうな」
片方しかないので何者かに与えたのは間違いないはずだが、団長と副団長の耳にはそれがなかった。そういえば、星帝と宰相も耳飾りが一つしかなかったなと、杯に自分で酒をつぎながら思い出した。
「目の前を歩かれると追いたくなるほど魅力的だが、さすがに手を出すわけにはいくまい」
冷妃も側女も、婚儀の間には無傷で送らねばならない。
「お年は十六でしたか。まだどなたとも通じておられないですかね」
「どこかのあばずれと違って、その心配はなさそうだ。ちょっと話すだけで、初々しさに毒気を抜かれた」
しっかりしているかと思えば素直で純粋な面が時折顔を出すので、危なっかしくてついかまいたくなる。地使団長が過保護になる気持ちもわかる。
「天蝎殿の話ではもうお一方、月界一と噂される皇女がおられるそうですが」
天鵝の姉君だという霧雨の話に、ほうと東雲は口の端を上げた。
「では、私はそちらの姫君を狙うとしよう」
さっそく明日星帝に紹介してもらおうと言って、東雲は杯を手に立ち上がった。黒い布をかぶせられた籠に近づき、布をめくる。
「こいつが反応すれば確定だ」
中でうずくまっていた黒い竜が、頭を持ち上げる。
「待ち望んでいた冷妃が本物なら……朧は解放してもらう」
先に生まれた側女が姑息な逃げ方をしたせいで、犠牲になることを決定づけられて育った幼い妹の姿を眼裏に描き、東雲は雑に布をかけ直した。