(1)
夢を見た。左足に黒く長いものが絡みつく夢。鱗のようにも、ざらついた手のようにも感じられるそれは、やけどしそうなほどの熱気とともに這い上がってくる。
体が重い。動けない。太腿からさらに上――秘部にまで届きかけたとき、拒絶するとそれはとまった。
――我を受け入れよ。
できないと答えると、繰り返された。
――我を受け入れよ。命あるかぎり、我とともに。
我が妃、と呼ぶ声は熱く、息苦しく、そして……焦燥と哀切に満ちていた。
「摩羯は今日は用事か?」
出勤前、天鵝宮に現れた室女に天鵝は小首をかしげた。
衛士統帥になってから、天鵝は馬車ではなく己の白馬で衛府に向かうようになった。昴祝に襲われるのを警戒して、摩羯が毎朝護衛を兼ねて迎えにきているのだが、都合が悪いときはたいてい室女が代わりを務める。
「昨夜、コローナ・ボレアリスの夜盗がようやく捕まりまして、団長は報告書の作成をするからとそのまま衛府に残られました」
今朝のお迎えを団長に頼まれましたのでと室女が微笑する。
「そうか。これで兄上も義姉上も安心されるな」
コローナ・ボレアリスは仙王帝の妃である北冕が星司を務める星座だ。つい最近、三人目を懐妊していることがわかった北冕の星座で、夜に賊が押し入る事件が相次ぎ、早期解決を望んだ仙王帝のために地使団が捜査を引き受けていたのだ。
まだ安定期に入る前の星妃に心痛を長引かせるわけにはいかず、摩羯たちはほぼ不眠不休で働いていた。報告書を急いだのも、少しでも早く星帝に知らせたいからだろう。きっと自分が執務室に着く頃には、机の上に書類が置かれているに違いない。
そして衛府に到着した天鵝は、やはり完成した報告書が提出されているのを見て、青紫色の双眸を細めた。
「今朝は一番に団長会議があるので、遅いようなら起こしてくれと言われております」
「朝食は?」
「姫様のお迎えにあがる前に用意しておきましたので、これから持っていきます」
手にした袋を軽く持ち上げる室女に、「私が行こう」と天鵝は言った。摩羯が休んでいるなら、副団長の室女が代わりにする仕事がある。
「そうですか。ではお手数ですが、お願いいたします」と室女が笑って引き下がる。はっきり追及されたことはないが、室女にはおそらく自分の気持ちがばれているのだと思う。
気をきかせてくれた室女から朝食用の弁当を預かって、天鵝は二階の仮眠室に足を運んだ。使用中の部屋は戸口に名札がつるされているので、誰がいるのかわかるようになっている。一つずつ確認しながら歩き、一番奥の部屋に摩羯の名前を見つけた。
扉を軽くたたくが応答がない。しばらく待ってから、天鵝はそろりと開けて中に入った。
「摩羯……?」
上着を寝台横の椅子にかけ、上半身裸で摩羯は眠っていた。胸元では首飾りが鈍い光を放っている。
昴祝を捕縛するまでは、このままの形で持ち歩くことにすると摩羯は言っていた。自分の耳に飾ると、昴祝を刺激してしまうからと。
天鵝は弁当を椅子の上に置き、寝台の端に腰を下ろした。揺れを感じたのか、摩羯が薄く目を開ける。
「……昴生? 眠れないのか?」
その名に聞き覚えがあると思った天鵝を、「おいで」と摩羯が抱き寄せた。寝台に倒れ込んだ天鵝は、驚きと恥ずかしさで摩羯の腕から逃れようとしたが、摩羯はぎゅっと力を入れてきた。
「大丈夫だ……怖がらなくていい……私が……る、から……」
優しい響きだった。同時に伝わってきた悲しみに目頭が熱くなる。
思い出した。昴生は人馬の本名だ。一度だけ摩羯の口から聞いたことがある。
衛士として活躍する人馬はいつも明るい。調子がよくて、楽しいことが大好きだと全身で語るような人間だ。そんな人馬を、摩羯が静かに目で追っているのを何度か見た。悪乗りすれば叱るが、人馬が誰かと一緒にいるときは、摩羯は基本的にそばに寄らない。特に火使と行動しているときは。
むごい襲撃事件でただ一人生き残った人馬を、摩羯がどんな思いで守ってきたか。どれだけ大事に考えているかを垣間見たようで、天鵝は胸が震えた。同時に、摩羯の腕に包まれているだけで安心感がわいてくることにも。
人馬もきっとそうだったのだ。目の前で起きた惨劇を思い出しては眠れなくなり、何度となく摩羯のふところに入っていたのだろう。もう幼子とは言えない年齢だったはずだが、そんなことは関係ない。恐怖と絶望を振り切るために、摩羯の存在が必要だったのだ。
ふと何かの匂いが鼻をついた。少し記憶をさぐり、茶葉だと察する。獅子はしゃれた香りを身につけていたが、摩羯からほのかに漂う茶葉の匂いに、天鵝は癒された。
まるで大きな匂い袋だな、とくすりと笑う。そして天鵝もしだいに眠気に誘われ、目を閉じた。
寝返りを打とうとしたら体を引き戻された。「転がり落ちると顔面を強打しますよ」と注意してくる相手に「うん」と返事をしてから、天鵝の意識はゆっくり浮上した。
「おはようございます」
顔を上げると、鼻先が触れ合うほど近くで摩羯が微笑んでいる。ただし、こめかみにうっすら青筋を立てて。
「あっ……え? な……」
「問いただしたいのは私のほうです。なぜ私の寝床に姫様がいらっしゃるのか」
かあっと顔がほてる。口をぱくぱくさせるものの言葉が出てこない天鵝を、色違いの双眸が怒気とあきれをにじませながら見据える。
「お、お前が引き込んだんだが」
眠れないのかとかおいでとか言って。もっとも、摩羯が呼んでいたのは天鵝ではなく昴生だったのだが。ようやく絞り出した天鵝の返答に、摩羯が目を見開く。しばしの沈黙後、長大息をつきながら摩羯が髪をくしゃりとかいた。
「……寝ぼけていたようです。大変失礼をいたしました」
ですが、と摩羯は不機嫌な容相で続けた。
「それならそれで大声をあげるなり蹴飛ばすなりしてください」
天鵝がすぐに抵抗すれば目を覚ますのも早かったのにと文句を垂れる摩羯に、天鵝は眉尻を下げた。
「ここで大声を出せば、お前の立場が非常に危うくなると思ったんだが」
「私のことより、ご自身のことを心配なさってください」
何か間違いがあればどうするつもりだったのかと責められ、天鵝は言い返した。
「お前以外の団員が寝ているところに、一人で行ったりはしないぞ」
特に獅子の近くには、とまではさすがに口に出すのをやめる。
「今日はたまたま室女の代わりに起こしにきただけだ。室女を叱るなよ。私が行くと言ったんだから。私も寝不足だったんだ。そもそも、お前のそばが一番安全じゃないのか」
まくしたてる天鵝に、痛いところをつかれたような顔をして摩羯が黙る。勝ったとちょっぴり喜んだ天鵝に、摩羯の声が一段低くなった。
「確かに、私は全力で姫様をお守りすると申し上げました。しかし場合によっては私のそばが安全でないことは、先日おわかりいただけたかと思っておりましたが」
寝台がギシリと音を立てる。馬乗りの姿勢で摩羯は天鵝を見下ろした。
「それとも、続きをお望みですか」
摩羯の指が、耳飾りをしていない天鵝の左耳にのびる。あの日をなぞる動きに、天鵝はびくりとした。
「摩……羯……?」
「言ったはずです。私にとって姫様は、もう子供ではないと」
強く、弱く、こするようにもてあそんでいた天鵝の耳から離れた摩羯の指が頬を伝い、今度は唇のほうに滑る。
息ができない。唇の輪郭を確かめるようにゆっくりと這っていく摩羯の指の感触が、羞恥とともに甘美な胸の高鳴りを呼び、何も考えられなくなっていく。
こわばったまま摩羯と見つめ合っていた天鵝に、やがて摩羯が短く嘆息した。
「……願望が強すぎて、幻を見たのかと思いました」
体をずらし、寝台の端に腰を落とした摩羯は、うつむいて顔をひとなでした。
「日中ならまだ抑えられますが、寝起きの朝は本当に……心臓に悪いのでやめてください。もしまた同じようなことがあれば、私はあなたを傷つけてしまう」
起き上がった天鵝の顔を見て、摩羯は困ったような笑みを浮かべた。
「そんな泣きそうな顔をしないでください。あなたが私を受け入れるお気持ちを整えられる前に、あなたを壊すようなまねをしたくないんです……怯えさせてしまい、申し訳ありません」
言われて気づいた。ぽろりとこぼれた自分の涙を、摩羯が指でぬぐう。
なぜ涙が出たのかわからない。摩羯の行為を怖いと思ったから? 本気で怒っているのがわかったから? それとも、自然に応じられない自分の幼さに腹が立ったから……?
「……私の準備ができたら」
「もちろん、そのときは遠慮なくいただきます。そろそろお気づきかと思いますが、私はいささか短気なうえに強欲なので、もう少しだけ急いでくださると助かります」
色違いの瞳が揶揄を含んで細められる。そこに確かにちらついている熱を見て、天鵝の鼓動がはねた。
「ど……努力する」
摩羯の笑みが深くなる。そして摩羯は天鵝の額に軽く口づけると立ち上がった。椅子にかけていた上着を取って袖を通しはじめたところで、天鵝をかえりみる。
「そう言えば姫様、先ほど寝不足だとおっしゃいませんでしたか? 何か気になることでも?」
「ああ、最近ちょっと、妙な夢を見ることがあって」
「どのような夢ですか?」
「何だか、黒いものに……」
迫られている、と言うのは何となくためらわれて、天鵝は口ごもった。話せば摩羯が余計な心配をしそうだ。
「……巻きつかれている夢だ」
摩羯が眉間にしわを寄せる。そのとき室外で争う気配がした。
「双子様、だめです。今はまだ――」
「何がだめなんだ。もう団長会議が始まるぞ」
バンッと扉が開かれた。
「おい、摩羯。いいかげん起き……ろ」
すがりつく室女を引きずったまま入ってきた双子が目をみはる。まだ服を着る途中だった摩羯と、寝台で掛布をにぎりしめている天鵝、そして双子の三人がかたまって動かない中、「だからだめだと言ったんです……」と気まずそうにしながら室女がぼそりとつぶやいた。
「部屋の前で室女が入りにくそうにうろついていたから、てっきり摩羯が全裸で寝ているとばかり思ったんだが……まあ、姫様は寝床に入られるようなお姿ではなかったし、冷静に考えればないなとわかるんだが、しかしな」
四人並んで階段を下りながら、さすがに目を疑ったぞと双子が苦笑する。摩羯も指でこめかみを押さえながら小声であやまっている。
見られたのが獅子や人馬でなくてよかったと、天鵝もほっとしていた。もしあの二人に目撃されていたら、衛府内どころか宰相府、ひいては兄帝のいる星宮にまで噂が飛びそうだ。
室女は、天鵝と摩羯がなかなか現れないので、気になって様子を見に来たらしい。そして狭い一人用の寝台で眠っている二人に驚いたものの、どう起こしていいものかと悩み、結局そのまま部屋の外で待つことにしたのだという。
「だいたい、地使団は根を詰めて働き過ぎだな。室女も時々寝ぼけることがある」
えっ、と室女が瞠目した。
「双子様、そんなこと今まで一度も――」
「言えばお前は気にするだろう」
そうなると安心して眠れなくなるだろうから黙っていたという双子に、室女は困惑顔になった。
「もう聞いてしまったんですが」
「大丈夫だ。そんなこと考えられなくなるくらい、ドロドロに眠れるようにしてやるから」
にやりと笑われ、室女は頬を赤らめて視線を泳がせた。
「双子様、姫様が聞いておられる前でそういうことは……」
室女の反応から恥ずかしい内容なのだと想像がつき、つられて天鵝もうつむいた。衛士はたまに世間話ののりで猥談を飛ばすことがあるので、たとえ団長や副団長がいるときでも油断できない。
ちらりと見やった摩羯の表情は変わらない。慣れ過ぎて聞き流しているのだろうか。すると目があったので、ついそらしてしまい、天鵝は密かにため息をついた。努力するとは言ったものの、これでは心の準備などまだまだ先になりそうだ。
それでも、嬉しくもあった。摩羯は自分を一人の女性として大切に想ってくれているとわかったから。
きっと摩羯に対する自分の気持ちはこの先も変わらない。それなら少しでも早く摩羯の気づかいに応えたい。
そして四人が一階に下り、室女以外の三人で団長共同執務室に向かいかけたときだった。仙王帝の使者が足早にやってきて、天鵝の前で片膝を折った。
「姫様、急ぎ陛下の星宮へお越しください」
「何かあったのか?」
天鵝の問いかけに、離れかけていた室女の足もとまる。
「陽界から客人がお見えです」
天鵝は眉をひそめた。摩羯と双子をふりかえると、二人とも驚惑の顔つきで天鵝を見返す。
「……団長会議は延期だ」
「お供いたします」
天鵝の一声に摩羯が応じる。双子は天蝎と獅子に伝えるために団長共同執務室へ急ぎ、摩羯は室女に今後の指示を出した。
そしてひとまず摩羯だけを連れ、天鵝は仙王宮へ馬を飛ばした。