昔のゲームはつまらないか
ビデオゲームに関して今のほうが面白い、昔のほうが面白かったという言い回しはよく見かけられる。
「面白さ」という言葉の曖昧さを脇に置いても、具体的な名前すらない「昔と今」のような大雑把な括り自体、あまり意味をなさないものなのだが、ビデオゲームの歴史の短さと出自の猥雑さゆえに許容されてしまう傾向がある。
2000年台以前からのゲームプレイヤーが昔という場合、暗黙の内に80年代から90年代の範囲を指している。つまり、家庭用ゲーム機ならファミコンから初代プレイステーションまでの時代である。
世代にまつわる話の常だが、この「昔」は個人的な経験に根ざしていて、日本においてビデオゲームが認知を得ていく過程でそれぞれが経験したものと、この期間のゲーム特有の文法が渾然一体となって語られている。
「今・昔のほうが面白い」があくまで主観的な意見(私にとっては今のほうが面白い)ならそこで話は終わり、なにも面倒なことはない。しかし、実際には客観的な事実として表明しようとしているケースは多々見られる。
個人的には、ゲームの今昔の面白さについてある程度客観的に言えるものはあると思う。
ビデオゲームの面白さを目新しい発想に求めた場合、その大部分は90年代までにおおよそ収束している(2000年代末からのインディーゲームには斬新さを追求したものもあるが、主流のゲームに対する批判という面もあるため一概に同一視はできない)。他方、ルールのサイクルに没頭する娯楽を求める場合、2010年代以降は非常に発達していると言える。
誰かが「面白いゲーム」といったとき、二つのどちらか(あるいはもっと別の意味を)指しているのか、常に読み取れるとは限らない。
言うまでもなく80、90年代にもルール的に成熟したゲームは存在し、時には現在に至るまで競合が存在しないことも少なくないのだが、若者文化の宿命として世代間対立自体を目的化している面があるため、冷静に検討されることは稀である。
ゲームの面白さも追求すればある程度は同じ地点に落ち着くものであり、プリミティブなものには特有の強みがある。Walter Brightの『Empire』はSid Meierの『Civilization』よりもはるかに単純だが、面白さの中核にあるものがかえって解りやすい。
それはただ単純であればいいというものでもなく、『ギャラクシアン』と『ギャプラス』のどちらよりも『ギャラガ』のほうが完成度が高いように、多すぎも少な過ぎもしない理想的なバランスが存在するのである。
しかし、商業的な理由、そしてユーザーの欲望を鑑みると、完成したゲームばかりをリリースするわけにもいかないのが実情である。4版までのダンジョンズ&ドラゴンズに代表される追加ルール・サプリメントの坩堝は商売になるだけでなく、支配戦略の開拓をある程度先延ばしにする効果もある。
ルールの完成度とは関係なく、コンピューターの発達と共に確実に進化するジャンルにはシミュレーションがある。車、飛行機、都市環境など。それゆえに古いシミュレーターは不毛な論争を避けて、純粋に懐古的なものになり得る。
シミュレーションジャンルの問題は、精度が上がれば開発費も嵩むが、娯楽として販売するにはユーザーベースがそれほど大きくないことだろう。かつてはコンピューターゲーム世界の一角を占めていた現実的シミュレーターも、今日ではマイナージャンルとなっている感は否めない。
ところでこの文のタイトルに「昔のゲーム」と書いたが、最古のビデオゲームは(このジャンル名を生み出し、産業を勃興させたという意味で)アタリの『ポン』ということになる。しかし、単にゲームといえばもっと範囲は広い。
一般的にゲームが「昔」のもの扱いされるのは廃れてしまったときである。チェスはいうまでもなく古いゲームだが、世界で遊ばれている限り「昔のゲーム」にはならない。
その点でゲームを名乗りながらも、同時にメディアでもあるビデオゲームの立場の曖昧さがあり、おそらく「今昔ゲーム論争」の泥試合に一役買っている。