第4章・追憶その4
私はまた独りになってしまったのだと気づいた後でも、私はやはりどこかで彼と自分が一緒にいるような心地がしていた。それぞれ今立っている立ち位置が離れているだけで、彼が私を忘れてしまうはずなど絶対ないと。
時々思う。人は人生でどれくらいの異性(もちろん同性の人もいるでしょう。)と出逢う確率があるのだろうかと。その人その人で違うのは当たり前だけど、そういうことではなくて、本当にのちの人生を揺らぐほど影響を残す出逢いにどれくらい巡るのだろうかと。そんな出逢いはかなり稀有なはずだ・・・。
私にとって彼はまさに稀有な人であり、それは彼にとってもそうだったと・・・それは今でも確信がある。この事態でも。でもそれは誰も知らない。彼以外は。今、私がどんなに大声で彼への気持ちを叫んだとしても、私と彼がどんなに深く愛しあっていたかを語っても、それは絵空事にしかならない・・・誰にとっても。そしてその“誰”の中には彼も入っている。
・・・どうしてこんなことになったのだろう。私は頭を線路に軋みに合わせて揺れる座席にもたれながら窓の向こうの暗闇を見つめてまたそう思った。
私の稀有な人。私の凍てついた心を溶かした唯一の人。那智。でもあなたの中に私はいない。どこにもいない。あの日、三年ぶりにあった彼の私を見る目は他人を見るより遠い目だった。他人、という意識さえない。人ごみの交差点でたまたま同じ青信号で横断歩道をわたる時すれ違った通行人くらいだろうか。いや意識そのものがないのに、それにさえ気づくはずもない。
おでんのお礼をしたくて次の日私はそのコンビニへ行った。その日は残業がなかったので一度アパートに帰り、昨日とだいたい同じ時間を見計らって。彼は汚れた作業着を着ていて、外で仕事をしている。それしか知らなかったけど、どうしてももらったままにするのが嫌だった。もしかしたら“親切”というのが珍しくなった日常にふっと舞い降りたそれを、私はもう少しはっきりとしたものにしたかったのかもしれない。今となってはわからないことだが。そんなに深く考えてなかったかもしれない。
でもその日は彼に会えなかった。私は店員と顔見知り(しかも夜遅い時間のバイトはだいたい同じ顔ぶれ)なので、昨夜のことを詫びた。
「お姉さんのこともびっくりしたけど、あの兄さん、あのあとおでんを二つの袋に分けてすっ飛んでったからそっちの方が驚いた。」と彼は笑った。「やっぱりお姉さんを追いかけたんだね。」
「あの人、毎晩来る?お礼したいの。」
「毎晩は俺は見ないよ。来る時間もまちまち。」
「どこで働いてるかなんて知らないよね。」
「さすがにそれはわからないっすね。」
「そう・・・」
「あ、でも、ここの近所のはずっスよ、現場。たまに夜中2回来るから。仕事中だって。」
「そう。」
それを聞いたところで大した情報ではなかったがないよりマシだった。私はその店員に私が大根をとても感謝していて是非お礼をしたいと言ってた、と伝えてほしいと頼りない伝言を頼んだ。
最終的には私はコンビニに通うこと5日めにやっと彼に会うことができた。それは私が駅を出てきてそのコンビニの前を通った時、彼が中にいるのが見えた時だった。
「ああ。よかった。やっとお会いできて。」
那智・・・、彼の顔を見た途端私はそう言い、彼も私の顔を見た。目があった。
「ああ、君。気を使ってくれてたらしいね。よかったのに、あんなのどうでも。」
「そうはいきません。」
私たちは話しながらコンビニを出た。彼は煙草を買っただけのようだった。
「本当にいいから。その気持ちだけで十分だ。じゃあ。」
「ちょっと待ってください、それでは私の気持ちがおさまりません。」
歩きだした彼の作業着の上着を思わずつかんだので、彼はちょっと驚いたようだった。
「まだ仕事中なんだ。」
「待ちます。」
「待ちますって・・、何時になるかわからないよ。」
「・・・じゃあ、休みはいつですか?」
「休み?」
もっと驚いた顔をした。だけどもう引き下がれない。何か私の中で意地になっている部分があった。
「あの、よかったら、おでんでも・・。安くておいしいとこ知ってます。」
「・・ああ・・。」
なるほど、という彼の心の声が聞こえるようだった。そして私たちは2日後の夕方に駅の前で待ち合わせをして別れた。
今思ってもどうしてあんな風に言えたのかわからない。どうしてあんな風に誘ったのかもわからない。おでんを一緒に食べに行くつもりなんてなかった。コンビニで少しのおでんを買って渡すくらいにしか思ってなかった。だけど思えばあれが出逢いだったのだ・・・私と彼の。
外はゆっくりと夜中と夜明けのほんの一瞬の狭間を探してゆらゆらと揺れていた。私はまた眼を閉じた。瞼を閉じると那智が見えた。
あの出逢った夜、初めての約束をした夜、手を振って高層ビルのネオンの下を汚れた作業着で歩いていった那智。もしあのまま約束が実現しなかったら・・・。ううん、もしあのまま私が彼の言葉だけで引き下がっていたのなら・・・。いや、出逢うことさえなかったら・・・。何度も何度もこの問いを繰り返したのに。何度も何度も。そして今、こうしていても私にはその問いの答えの断片さえ見つかっていない。