第3章・追憶その3
もう一軒のコンビニに行けば済むことだった。でもその店は私のアパートとは反対方向だったし、何よりその晩はとことん疲れていた。もういいや、今夜はお風呂だけ入って寝てしまおう・・そう思いながら足を速めた。
「おーい、ちょっと待って。待ってよ。」
どこからか声が聞こえる。酔っ払いか?と、急に私の中に不安が広がった。性格に言うと思いだした。一度だけ私はここでとても怖い思いをした。狙われるという恐怖。私は胃が縮みあがり、すぐのど元まで来ているような感覚に襲われ、でも足はもっと速めた。鼓動が動悸に変わる。
「あ、あの、君・・、大根の、き・・み・・」
え?大根?
私は思わず振り向いた。少し向こうにさっきの彼が小走りに走ってくる。びっくりして足を止めた。彼は私の前に立つと、はあはあと息を整えた。
「歩くの・・早いね・・。」
「あ、あの・・。」
「ほら、これ。」
そう言って彼は小さなコンビニの袋を私に手渡した。
「え、これ・・?」
「大根。」
「いや、あの、さっきはすみませんでした、あの、本当にいいんで、私。」
「だけど食べたかったんだろ?」
「いや、あの、そうだけど・・・。」
「あんなに切実に食べたがってたじゃないか。」
「いえ、本当にごめんなさい。私・・」
「いいから、ハイ、受け取って。俺もう帰りたいし。」
彼はそう言って私の手を取ると、無理やりその袋を握らせた。重さでわかった。その中には缶チューハイも入ってる。
「じゃあ。」
「あ、あの・・、」
私の声が届く前に彼は後ろを向いてまた走りだした。
「ちょっ、あの・・・、」
もう追っても追いつかない。私は半ば茫然として彼の後姿を見ていた。が、ハッと我に返ってもう一度袋の中を見た。
・・・・・おでんを入れるプラスチックの容器。缶チューハイ。私が持ってたもの。
暗い部屋に一人帰る。もう一人暮らしには慣れたけど、この暗い部屋に帰ることと電気をつける瞬間の緊張には慣れない。そそくさと靴を脱ぐ。テーブルには今朝広げていたままの化粧品やら鏡やらが置きっぱなしになっている。そこへついさっき見知らぬ人からもらったおでんを置き、そのままへたり込む。ハー・・・、今日も一日長かった・・・。時計を見る。時刻を確認してうんざりする。せめて6時間は寝たいと思う。思うのだが・・・。
気を取り直し、浴室へ行って浴槽に湯をためる。勢いよく水道から湯が溢れ、その様は私を一瞬和ませる。あ、と思う。今夜はもっと私を癒すものがあるのを思い出した。部屋へ戻りテーブルの上のビニール袋からおでんと缶チューハイを取りだす。
おでんのふたを開けるとこちらからもまったりと湯気が上がった。「おおっ、」と思わず声が出る。よく見ると大根とさつま揚げも入ってる。
・・・どうしよう。でもせっかくのお心遣いだ、ありがたく頂こう。缶チューハイを開け、まず一口を喉に流す。この瞬間の為に働いてると言っても過言ではないのではないか、と思う。
缶チューハイを半分残し(おでんはすでに私の胃の中)、お風呂に入った。湯に身を沈め、大きく息を吐き、手足を伸ばすフリ(なぜフリかと言うと、手足を伸ばせるほど浴槽が広くないから)をして天井を仰ぐ。
「あんなに切実に食べたがってたじゃないか。」
そう、私は今夜切実に大根が食べたかった。もしかしたら生理が近いのかな、と思うくらい。だけど見も知らない人にあんなに親切にする人初めて・・・。親切というか、変わってるというか。もっとよく顔を見ればよかった。どんな顔をしてたっけ?思い出せない。でもまだ若い人だった。自分とそんなに変わらないんじゃないか?
・・・・・・・・・あんな人も世の中にはいるんだ。
そう思うと、なんだか嬉しい気分だった。今日おでんの大根を食べた人が全世界でどれくらいいるのかわからないけど、私が食べたおでんの大根が一番美味しかったはずだ。
「もっとゆっくり味わいながら食べればよかったかな。」
独り言を言い、気がつくと小さく鼻歌まで口ずさんでいる自分がいた。その晩、私はいつもより短い時間ながらも、ぐっすりと眠りの底に落ちていった。