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花を摘むひと  作者: 樹歩
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第22章・悶える鳥その10


 病院の中に入り、本当はまっすぐ受付に行くべきだとは思ったのだけど、やっぱり行けなかった。つんと鼻をつく消毒薬の匂い。私は何気なく周囲を見渡して「病棟」と書いてある方へ歩いていった。幸い、病棟へ行くエレベーターと受付は全く正反対の方向だった。

 エレベーターの前に案内板があり、1階2階は診察室や検査室、病棟は3階と4階だとわかった。そして面会時間も書いてあった。当然のことながら午前中の今は面会時間外だった。エレベーターの方へ向かい、ふとそこに階段があることに気づく。一瞬立ち止まり、やはり階段で行くことにする。

 一つ一つ、足を踏みしめて階段を上がってゆく。私は思っていた。ここ数年、ずっと私を支えていたものを。それは逢う、逢った、という物理的な事実ではなくて、逢いたい、ただ逢いたいと、思い続けることが本当に愛する意味のあることだということ。この先逢えなくても、ずっと逢えなくても、永遠に逢うことなく人生を終えることを約束されたとしても、逢いたいと願い続けること。その気持ちだけが私のものだった。那智を焦がれる時の私だった。

 ゆっくりと3階に上り、私は息を大きく吸う。深呼吸。一歩、階段から廊下に出る。病院関係者に呼びとめられたらどうしよう。いや、そもそも本当はちゃんと訊けばいいのだ。「狩野谷那智の部屋を教えてほしい」と。でもそれはとても躊躇われた。今は午前中で面会時間じゃないし、那智との関わりを訊かれるのも面倒だった。真実(ほんとう)のことは言わない方がいい。きっと。


 私は目についた部屋から名前を確認していった。さりげなく、さりげなく。途中何度か看護師とすれ違ったが、彼女たちはとても忙しそうで、ちらっとこちらの方を見ても特別声をかけられることはなかった。多分そのちらっとの視線で、こちらが本当に怪しく危険な部類の人間なのか、放っておいても害の無い人間なのかを見定めているのだろう。自信たっぷりに。でもそれがどれだけ当てにならないことなのか、おそらく何か出来事が起きなければ彼女たちは気がつかない。


 そしてとうとうその愛しい名前の書かれたネームプレートのある個室を見つけた。

「狩野谷 那智 様」

その瞬間足が止まる。この向こう、扉一枚隔てただけの向こうにあの愛しい人がいる。あんなに恋い焦がれた人がいる。

 深呼吸。そして私はゆっくりと小さくノックをした。コン、コン、コン、と三回。

「はい。」

返事があった。その声はまさしく那智の声だった。私は扉を開けた。


 そこには一人の男性がいた。その人はじっと私を見つめ、次の言葉を待っていた。私とその人の眼と眼は、しっかりとお互いを交差していた。逸らさず、まっすぐ。

 遠いあの日。アパートの小さな一室でいつまでも私の髪を撫でて抱きしめていてくれた人。ときどき私の首の匂いをかぎ、小さく唇をあててくれた人。夕暮れ、知らない街を手をつないで歩いて、絶対に私に車道側を歩かせなかった人。「あたたかいごはんの中にしあわせってあると思う。」と、炊きたてのご飯を食べるたびに言った人。私が寝がえりを打つたびに肩を抱き寄せてくれた人。・・・那智。

 


 でも私はそこに違和感を覚える。そして急激な胸騒ぎに襲われる。息を止めてしまう。

コノヒトハ ワタシヲ ミテイナイ。いや、私という女を自覚していない。

「・・・・那智。」

「・・はい?」

「・・・那智でしょう?」

 私がこの部屋へ入ってこの会話を交わすまでわずか数十秒。でもそれは億光年の彼方のようだった。

彼は私の眼を、顔を、髪を、首から胸元を、肩から伸びた腕や手を、震えている足元を、永遠に底のない湖を見るように見つめた。・・・やがて沈黙は私の胸騒ぎを(つるぎ)となって突き刺す。


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