第21章・悶える鳥その9
軽自動車は私がてくてく歩いてきた道を半分くらい戻って、それから全く知らない方向(そもそも私はこの辺りのどこも知らないのだが)へ曲がって行った。
「いいところですね。」
と、言おうかどうか迷った。狭い自動車に二人きりで、それもたった今知り合ったばかりの人とで。親切にしてもらっているくせにおこがましいとは分かっているが、それでもこういう場は何となく居心地が悪いものだ。何か、取りとめのない話をして、この何とも言えない重たい空気を和ませるのは無理でもごまかしたい・・・私はそう思った。その為の無難な一言を考えていて、それが
「いいところですね。」だった。
でもその一言が出てこない。なんだかとても嘘くさくて。本心ではないようで。場をごまかす為の無難な一言のようで。結局私はなにも声を出さずにいた。ため息もつかないようにしていた。重たい空気でこのままでは窒息するんじゃないかと思い始めた頃、
「あれだよ。」
と用務員の彼が言った。菜の花が一面に咲いている向こうに白い建物が見えた。その病院と思われる建物はさっき行った小学校とほとんど同じ形だった。
「あの、ここでいいです。」
「いいよ、すぐ前まで行ってやるよ。」
彼の返事に反射的に私は言った。
「いえ、本当にここで。止めてください。」
彼は不審そうな顔をしたが左の路肩に車を寄せて止めてくれた。
「・・・すみません。色々助けてもらって。」
「・・・。」
「歩いていきたいんです。」
「・・・あんたの好きにすればいい。」
私は深く頭を下げて一礼すると静かに車のドアを開けた。
車を降りると、駅を出た頃よりもやや温度が上がってきているのが分かった。寒さ、というより冷気が薄くなっている。冷たさの中にもほんのりと暖かいぬくもりを感じることができる。そして目の前の菜の花。
「ここだけ春のようでしょう。」
助手席の窓から用務員の彼の声が聞こえた。
「はい。キレイですね。」
私は一面の黄色い風景から目を離せずに答えた。
「・・・誰が気がかりでここまで来た?」
「え?」
思いもかけない問いかけに車へ視線を移す。助手席の向こうに中途半端にこちらを見上げる顔がのぞく。
「あんた、誰に会いに来たんだ?」
その声はさっきまでの用務員だった彼の声ではなかった。個人の、全く見知らぬ他人の男の声だった。その、まるで暗黒の底から伸びる手のような声に私は動けなくなった。視線を彼の半分だけ見える顔に注いだままその場に立ちすくんだ。
「・・・。」
つい数秒のお互いの視線の交差が、数分とも数時間とも思った。
「・・・。」
私がその問いに返事をしないとわかったかのように、彼はそのまま車を発進させた。両手に咲き誇る菜の花のあいだの一本道、向こうに白い建物が見えるその道を、同じく白い軽自動車がまっすぐにすすんでゆく。その光景は一枚の絵のようでもあり、写真のようだった。でもその車は絵にも写真にもならないと決めているかのように乱暴にUターンしたかと思うと、もうそこに私がいることをなかったことにして行ってしまった。
私は気を取り直し歩き始めた。あの人は何を言いたかったのだろう?ただの小学校の用務員だと思っていたが違うのだろうか?事故に関わった人なのだろうか?・・・那智の知り合いなのだろうか・・・。
歩いてゆくとだんだんその白い建物が、最初見た時よりも実は大きく(大きいといっても都会からしたら小さい方だと思う)もっと白いのだと気づいた。病院のすぐ目の前まであると思っていた菜の花畑が途絶えた先には、小さな緑の絨毯がつかの間広がっていた。もう寒さも感じなかった。あそこに那智がいる。多分。きっと。
入口が見えると私は立ち止り、上を見上げた。4階建ての建物。その向こうに春先の匂いの空があった。・・・深呼吸。深呼吸。
「お姉さん。」
「お姉さん、大丈夫?息、苦しいの?」
どうやら呼ばれているのが自分だと思いそちらをみると小さな女の子がいた。私を見て不思議そうな顔をしている。5歳くらいだろうか。大きな瞳。傾げた首。
「ううん、何でもないの。ありがとう。」
私がそう言うと、彼女はにっこり笑った。それから目の前の花壇を指差し、
「もうすぐここにきれいなお花が咲くんだって。」と言った。
「そう。」
「それからあそこはれんげがいっぱい咲くんだよ。」今度は向こうの緑の絨毯を指差した。
「きっときれいだろうね。」
彼女がそう言ってほほ笑んだので私も弱弱しくだったがほほ笑んだ。どうしてだろう、弱弱しくしか笑顔ができなかった。