第20章・悶える鳥その8
私の手には小さなメモが握られていた。あの若く見えて、でも私より落ち着いて見えた駅員の彼からもらったメモ。そこには那智が事故にあった小学校の住所が書かれていた。
「事故にあった方のお身内なのですか?」と、最初彼は訊いた。私はそれには答えようがなかったので、苦笑いを浮かべた。もし口にするなら「どうでしょう?」と言う言葉の表情で。それを見た彼は、つい先ほど交わした私とのやり取りを思い起こしたのだろう、メモを書きながら静かに言った。
「・・・大怪我をしたとは聞いてますが、命に別条のある方はないようです。」
そしてそのメモを眺めては握りしめ私はひたすら歩き、その視界に小学校らしき建物を確かめた所だった。春の気配を散りばめている田舎の道。学生の姿がほとんど見られないのは春休みの為だろう。それでも数少なくすれ違う人がいた。その多くは駅に向かっているようだった。今から出勤なのだ。昨日の朝の私のように。
24時間なんてあっという間な気がしていたけれど、本当は思ったよりもずっと長い時間なのかもしれない。
小学校の門は開いていた。校舎に入ってゆく人影も見えた。校舎には足場が組まれていたが、そこには誰もいなかった。工事作業は中断されているようだ。人影が見えた方へ歩いていくと職員用玄関があった。中へ入って行こうとする。とそこに作業着を着た中年男性(用務員だと思われる。手には花壇に水を蒔く為?のじょうろを持っていた。)がいて、私と眼が合うと「あんた誰?」という顔をした。
私は挨拶もそこそこに簡単に事情を話した。自分は怪しいものじゃない、ここの小学校で校舎の補修工事中に事故にあった人の友人で、安否を知りたいのでどこの病院に運ばれたのか教えてもらえないだろうか・・・と。一言一言を丁寧に、かつ簡潔に、しかし懇願の気持ちを込めて私は伝えた。
「・・・俺はあんたを怪しい女だと思わないけれど、俺はただの用務員だから、一応校長先生とかに訊いてみるよ。」
そう言うと彼はそこで待ってて、というしぐさをして校内の廊下を歩いていった。
懐かしい。小学校なんて建築物は多分自分が行ったところと縁が切れてからは行くことがない。なんというか、こう・・・、小学校の匂いがする。絵の具やら、泥んこやら、雑巾やら、笑い声やら、怒鳴り声、拍手、窓、中庭、太陽の光・・・そういう匂い。一瞬ノスタルジックに浸る。
しばらくするとさっきの用務員とスーツ姿(まさに紳士的な)の男性が姿を見せた。
「えーっと、お宅さんかな?事故のことを訊きたいとか。」
私の知っている「小学校の校長先生」は年をとっていて少し太っているはずだったが(実際自分の通った小学校の校長先生がはたしてそうだったか?すっかり忘れた)、目の前の彼はすっきりとスマートで、長身でもちろんハンサムという部類の男性だった。そのせいで私はしばしポカンとしてしまった。
「いえ、あの、事故のことではなくて、」
「違うよ、この人は事故で病院に行った人に会いに来たんだよ。病院を知りたいんだってさ。」
用務員が横から口を出してくれた。
「うーん。こういうことって勝手に教えていいのかわからないんだよ。ほら、今は個人情報の問題とかあるし。」
「お願いします。川崎からきたんです。どうしても無事を知りたくて。」
「無事って、そんなのはじかに連絡取ればわかることでしょう。命に別条がある人はいないんだし。」
イノチニベツジョウガアルヒトハイナイ。
「・・・お願いします。絶対に迷惑かけるようなことしませんから。」
「うーん・・・、そう言われてもなあ。」
紳士的な校長先生は見ためとは反して、案外言うことは年寄りくさかった。
「いいじゃんか、先生。俺が教えたことにすれば。」
「え?」
またもや用務員が横から口を入れた。
「あんたが?」
「一応今日は先生が登校してたから知らせたけど、誰もいない日にこの人が来たならどのみち俺にしか会わなかったんだから。」
「そりゃそうだけど。」
「先生は警察やらなんやらから色々約束させられてるんだろうけど、俺は何もないし。」
「あ、あ、お願いします。」私はここぞとばかりに頭を下げた。
「うーん・・・」校長先生はちらっとこちらを見て、いかにも迷っているそぶりを見せたが、
「じゃあ俺はいなかったということで。」そう言ってくれた。
「ありがとうございます。」
「そもそもでかい病院なんか一軒しかないよ。あんたもこんな回りくどいことしなくたって、タクシーに乗って訊けば分かったかもしれない。駅からきたんだろ?」
・・・なるほど。そうだったかも。でもあの駅員はそんなこと教えてくれなかった。いや、人のせいにしてはいけない。
「病院名を教えるよりも連れて行ってやるよ。」
彼はそう言い、私を促して歩き出した。校長先生の姿はすでにない。
私は彼の後ろをついていき、やがて小さな軽自動車に乗った。