8.運命
自転車を走らせること十分。
通学路を一本住宅街側に入った先に、年季の入った建物がある。僕が昔通っていた幼稚園だ。
自転車を門の脇に停め、錆び付いた門扉を見上げる。
昔はもっと巨大で重厚だと思っていたのに、今見るとそれほどでもない。自分の背丈の何倍もありそうな気がしていたが、今なら背伸びをすれば門の天辺に手が届きそうだ。
「……懐かしいな」
良い思い出など一つもない場所だったが、いざ訪れてみるとやはり懐かしさを覚えた。
「カズはここに通ってたのか?」
「そうだよ。でもダイキは違ったよな」
「俺は母さんが働いてたから保育園に行ってた。ナナも保育園にしようかって話だったらしいんだけど、姉貴が幼稚園にこだわったみたいでさ。ほら、幼稚園だと色々授業みたいなのがあるんだろ」
「……そうだったかな。あんまりよく覚えてなくて」
僕は斜め上を見上げながら昔の記憶を辿る仕草をした。以前に見た悪い夢のせいで思い出したことは色々あったが、とても人に話せるような内容ではない。
「俺は結構覚えてるぞ。同じ組だった女の子と隣の家に住んでた女の子が俺のこと取り合って喧嘩になったこととかさ」
「なに、その漫画見たいな話」
「羨ましいだろ? 俺昔は結構モテたんだぜ」
きっと何度か迎えに来たことがあるのだろう。自慢げに言いながらダイキは慣れた動作で門を開き、園庭を横切って迷わず園舎まで歩いていく。卒園生の僕はせわしなく周囲に視線を巡らせながら、その後に小走りでついて行った。
「あー! ダイキだ!」
教室に辿り着く前に、園舎からひとりの女の子が飛び出してきた。姪っ子だろう、嬉しそうな顔で駆けてきた女の子はそのままの勢いでダイキに飛びついた。
「今日はダイキのおむかえなの? ママは?」
「ママはお仕事が長くなるってさ。今日は俺と帰ろうぜ、ナナ」
ダイキは小さな身体を軽々と持ち上げ、少し照れながらもナナの頬ずりを受け入れる。
僕が所在なげにその一連の動作を見守っていると、ナナが出てきた出入り口から園児がひとり、泣きながら歩いてきた。それに気付いたナナが頬を膨らませながらダイキの腕をすり抜け、甲高い声でその子の名前を呼んだ。
「もう、泣き虫なんだから――カズくんは!」
隣でダイキが噴き出した。
僕は反射でその後頭部を思いっきり叩く。そのせいで噎せたのか、苦悶の表情で咳き込むダイキに構ってやる余裕はなかった。
「だって……」
泣きじゃくる男の子の手を握り、ナナは一生懸命に言葉を紡ぐ。
「だってじゃない! ナナはもうおむかえきたから帰るの! カズくんもママが来るでしょ! あともうちょっと、ひとりでまつの! それぐらいできるでしょ!」
「ひとりはいやだよ……ナナちゃん、一緒にまっててよお」
ナナはその場に座り込んでしまった男児を立たせようと、力いっぱいに腕を引っ張る。顔を真っ赤にして奮闘するが、負けじと腰を落とした男児は一筋縄では動かない。
「カズくん! 男の子でしょう! ほらあ、立ってよ!」
「……うう」
泣きながら引き摺られる男の子は、あまりにも惨めで目も当てられない。ただ名前が同じというだけなのに、何故か自分が醜態を晒しているような気になって、僕は胸が苦しくなった。
「ああもう、何やってるの! カズくんはママのお迎えまだでしょう!」
ようやく事態に気づいた若い保育士が、呆れ顔で園舎から出てきた。
完全に地面に座り込んでしまった男児の隣に腰をおろし、「ほら、ナナちゃん困ってるよ? カズくん、笑顔でナナちゃんにバイバイしよう? また明日ねって言おう?」と優しく諭す。
それでも男児は泣き止まない。
「もう知らないんだから!」
依然として駄々をこねる男児に愛想を尽かしたのか、ナナはダイキの元に駆け寄ってその足にしがみついた。
「お、じゃあ帰りますかね、ナナさん」
ダイキがナナの手を握り、来た道を引き返そうとする。ナナはその手に引っ張られながらも一度後ろを振り返り、男児を睨みつけるようにして叫んだ。
「この泣き虫! カズくんなんて、大嫌いなんだから!」
ナナの声が、僕の脳天を突き刺す。
目の裏がチカチカするほどの衝撃を受けた。
カズくんなんて、大嫌い。
そういえば昔、泣きながら僕にそう言った女の子がいなかったか。
そうだ。まさにこの幼稚園で、あれはいつの――
「こら、そんなこと言うんじゃありません。謝りなさい」
ダイキに叱られたナナも泣き出し、そこかしこ泣き声の嵐になる中、僕は息をするのも忘れて立ち尽くした。
夏の終わり。
園庭。
暑い。
滑り台。
ブランコ。
砂場。
落ちる汗。
静か。
誰もいない。
誰もいない。
たった二人で待つお迎え。
内緒のお話。
蝉の鳴き声。
あの子の、泣き声。
カズくんなんて、大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い、大嫌い――
死んじゃえ。
「――――あ」
完全に思い出した。
二人の園児の慟哭が響く。
時間が巻き戻る。
夏の匂いがした気がした。
◇ ◇
初めてその子に出会ったのは、年長クラスになってからだった。
その子はいつも明るくて、よく笑う子だった。
その子は仲間外れにされて困っている僕を引き連れて、いつも友達の輪に入れてくれた。面倒見が良く、先生や他の子たちからとても好かれていた。
夏休みが明けて最初の登園日。
僕と一緒にお迎えを待つあいだ、その子は僕にそっと耳打ちした。
「カズくん。これはほかの子にはないしょなんだけどね、わたしね、しょうがっこうのおじゅけんするの」
「おじゅけん……?」
首を傾げる僕に、その子は自慢げに頷いた。
「そう、いいがっこうに行くためのしけんを受けるの。だれにも言っちゃ、だめだよ?」
秘密だから。そう言って唇に人差し指をあてて、その子は微笑んだ。
「おじゅけん」というのが何なのか、僕にはさっぱり分からなかったけれど、その子がとても嬉しそうだったのできっと良いことなんだろうとは思った。
「おじゅけんしたほうが、いいじんせいっていうのを送れるんだってママが言ってた。カズくん、いいじんせいってなんだろうね」
「……お金もちになるってこと?」
「そういうことなのかな。わたしにはむずかしくてよくわかんなかったんだけど、でもママがそれで喜ぶならおじゅけんするって言ったの。そしたらママ、わたしのこと大好きだって。じまんのむすめだってすっごく喜んでくれたの。だからね、わたしもすごくうれしくなってがんばろうって思ったの」
椅子の上で両足をぶらぶらと揺らしながら、その子は頬を上気させて僕に語った。
その時ふと疑問が浮かんだ僕は、言葉を頭の中でまとめる前に口に出していた。
「でもそれ、おかしいよ」
「――え?」
「僕知ってるよ、それがうそだって」
その子の顔が強ばった。
「何言ってるの、カズくん……」
「だって」
「○○ちゃんのママ、○○ちゃんのこと嫌いなのに、なんで大好きなんてうそつくの?」
思い出した。
あの時、僕はむしろその子のためを思って言った。間違ったことは正さないといけないのだから、と。
まだ必要な嘘も建前も分からなかった頃、ズケズケと他の子に正しさを押し付けて腫れもの扱いされていた頃だった。
あのあと、その子が何を言ったのか、僕がどう返事をしたのか、記憶にない。
けれど、その子は卒園を迎える前に、僕の前からいなくなった。
「カズくんなんて、死んじゃえ」と言い残して。
そうだ、その子の名前は――――
◇ ◇
眠れない夜が続いた。幼稚園に行った、あの日からだ。
僕は今日も睡眠不足な頭を抱えながら、いつもより早い時間に登校した。
今日から学期末のテスト週間に入る。早めに来て自習している生徒もいるかと思ったが、派手な化粧をした女子たちが数人、窓際の席を陣取って噂話で盛り上がっているだけだった。
教室のドアを開けると、彼女たちはこちらを一瞥したが、すぐに話に戻っていった。
「聞いた? 昨日、アイツがダイキくんと親しげに話してたって」
話の途中、唐突にダイキの名前が出て僕は思わず振り向きそうになった。動きかけた身体をグッと抑え、教科書を鞄から机に移動させる動作をしながら、慎重に聞き耳をたてる。
「えー、マジで? アタシだってそんなに喋ったことないのに」
「知ってる知ってる。なんかあいつの方から話しかけたらしいけどさ、まさか仲良くなれるとでも思ってるのかね、あのゴミチノは」
ゴミチノ――女子たちの間で使われている満野のあだ名だ。
最近知った。知りたくもなかった。あの時満野を蹴りつけていた女子の大半は、うちのクラスの女子だったのだ。
「ほんとだよ。破り捨ててやった進路調査表だってさ、結局あいつどっかから手に入れたらしいよ。昨日担任に渡してるの見たし。澄ました顔してほんと腹立つわ」
進路調査表――その単語を聞いて、心臓が大きく脈打った。
「つか、期末テストまじだるいんですけど」
「わかる。どうせ頑張ったってさあ、一番なんてとれないし?」
「あんたはもともと頭足りてないでしょうが。でも今回のテストもゴミチノがクラス一番で確定?」
「クラスどころか、学年一位じゃねーの? 私は他の人とは違うんですオーラ出してんだし、勉強が恋人みたいなとこあんじゃん? 偏差値高い進学塾に通ってるんでしょ、確か」
「あー、なんだっけ。大通りのとこの塾だよね、知ってる」
「入るのも難しいんだっけ? 勉強ばっかの人生とか超カワイソー」
嘲笑う声が幾重にも重なる。僕は気付かれないようにそっと拳を握った。
「そういえばアタシ、変な噂聞いたことあるよ。なんか、ゴミチノちゃんによく似た子が、駅前のゲーセンにいたって話。中学の時の同級生が見たって言ってた」
「それのどこが変なのよ。本人なんじゃないの?」
「本人でもちょっとウケない? ガリ勉の優等生ちゃんがゲーセンでストレス発散とか、いつの時代だよって感じ」
「いやなんかね、顔はゴミチノちゃんに似てるんだけど、髪型とか、制服の着方とか、雰囲気が全然違うんだってさ」
「え、何それ、もしかしてドッペルゲンガーってやつ? こわっ」
会話はそこまでしか聞こえなかった。ガヤガヤと音を立てて集団が入って来たのだ。
「お、今日は珍しく早いな、カズ」
その中にダイキもいたらしく、教室の前方から大きな声で挨拶してきた。
「……おはよう」
「おう。あ、そうだこれ、うちのクラスの、ええっと、満野? からの預かり物」
「――え?」
ダイキはやはり大きな声で通路を歩きながら、僕の目の前にやってきて進路希望調査の紙を渡してきた。窓際の女子たちの話し声がぴたりとやんだ気配がして、背筋が凍りつく。
「ダイキ、ちょっとこっち来い!」
有無を言わせずダイキの腕を掴んで、僕は脇目もふらずに教室を飛び出した。