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空色レモネード  作者: トウコ
第三章 ストーカー・ストーカー
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7.予兆


――この臆病者。


 冷たく暗い渡り廊下で立ち尽くした僕は、そんな幻聴が聞こえた気がした。




◇  ◇





 新しい学年、新しいクラスメイト。

 何もかも見慣れない、浮ついた空気がまだ残る新学期、僕は担任に頼まれた資料を抱えて職員室に行くところだった。

 隣の校舎に繋がる渡り廊下の窓からは、中庭の桜の木がよく見える。花粉や砂埃を目いっぱい巻き上げたザラザラとした風が、桜の花びらを乱雑に攫っていく様を横目に、足早に廊下を歩いていた。

 不意に、数人の女子生徒が桜の木の下に集まっているのが目に入った。何気なく足を止めてそれを見ていると、その輪のうちの一人が数人から肩を突かれたり、足を蹴られたりし始めた。

 嫌な場面を見てしまった。最初はそう思っただけで、さっさと立ち去ろうとした。


 しかし、おもむろに顔を上げたその女子生徒の顔に見覚えがあり、僕はまた足を止めた。

 ほとんど知らない顔が並ぶ新しいクラスの中で、彼女の名前だけはぼんやりと覚えていた。

 確か、満野(みちの)という名前だった。

 僕の斜め前の席に座っていて、どことなく周囲から浮いているような子だったからだと思う。実際、隣の席になった男子生徒が少し嫌そうな顔をしてこっそり机を離しているのを見た。今時の女子高生にしては長いスカートの裾も印象的だった。


 その子が、桜の木の下で、気の強そうな女子たちに囲まれて何かを言われている。声までは届かないけれど、良い雰囲気ではないことは明らかだ。

 彼女は反撃する様子もなく、ただただ周囲からの暴力に耐えるように足を突っ張っている。周囲の行動は一層エスカレートした。

 誰か人を呼ぶべきだろうか。迷いながらも僕は行動に移せないでいた。

 新学期も始まったばかりだ。面倒事に関与して僕も居場所がなくなったら困るというのが本音だ。この狭い檻の中、どこで誰が繋がっているかなんて分からない。

 抱えた資料の重みが増し、腕が限界を訴えてくる。早急な選択を迫られ、僕は唾を飲んだ。


 再び窓の外を見ると、満野と目があった。

 背筋が凍る。

 彼女は、周囲の雑音を一切無視して、僕だけを見ていた。

 僕を射るように睨みつけ、口を動かして、一言、何かを言った。


――この臆病者。


 そう聞こえた気がして、僕は一目散にその場から逃げ出した。




◇  ◇




 先日のファミレスの一件後、ダイキの行動は早かった。


 さっそく次の日、ダイキは人脈を駆使して全校生徒の名簿を入手した。

 休み時間中、ダイキはひたすら生徒の名前を追っていく作業を続けたが、結局ミチアキの名前は見つからなかった。


「そうだよなあ、ミチアキなんて名前の女、そうそういるわけないもんなあ」


 ダイキは徒労に終わった作業に肩を落としながら、眉間を指で揉んだ。


「……まあ、あだ名か何かだろうとは思っていたけどね」


「……あだ名か……あ! 俺今すごい可能性に気付いた!」


 ダイキは大儀そうに椅子の背もたれに預けていた身体を跳ね起こして、真剣な眼差しでこう言った。


「あいつ、もしかしたら女装した男なんじゃないか?」


「……は? 何言ってんの?」


 そう切り捨てたものの、男だった可能性を頭に浮かべてしまって鳥肌が立った僕。ダイキは再度名簿を捲り、今度は男子生徒の名前を全て確認し始めた。しかし、やはりミチアキという名前の生徒は見つからなかった。僕は心の中で密かに安堵した。


「あーあ。せめて写真があればなあ。顔見りゃ一発で分かるのに」


 そうひとりごちながら、ダイキは名簿を閉じる。


「なあ、カズ。お前ほんとにあいつのこと知らないの?」


「……うん」


 頬杖を付きながら、曖昧に頷く。


「でも向こうはお前の名前、知ってたぜ? てことは、覚えてないだけで、どっかで会ったことがあるってことだよな」


「……でも、思い出せないんだよ。あんな変わった子だったら絶対覚えているはずなのに」


「そりゃ、確かにそうだよなあ。強烈だもんなあ……」


 ダイキは何かを思い返すように宙を見つめながら、溜息を吐いた。


「衝撃だよな。人にカレーぶっかける奴、俺初めてみたよ。しかもごめんの一言もないし、挙げ句の果てに不機嫌そうに『帰る』だけ言ってさっさといなくなったし」


 ダイキが全然似ていないミチアキの物真似を挟んだタイミングで、教室の片隅から小さな笑い声があがった。声の方向へ目をやると、女子たちが何かの雑誌を囲んで騒いでいる様子だった。


「ほんと、火傷しなくて良かったと思ってる」


 視線を戻してそう言うと、ダイキは呆れたように応えた。


「あのなあ、ここは怒っていいところだぞ、カズ。万が一怪我でもしてたら、慰謝料だって請求していいレベルの事件だぜ」


「事件って……まあ無事だったし、そこまで言わなくても」


「いやいや。一度会って、ちゃんと謝罪させないと駄目だ。どのみちあいつにこれ、返さなきゃいけないし」


 ダイキはポケットから皺のついた千円札を取り出した。結局僕とダイキはミチアキが注文した、廃棄されるだけの運命になったドリアを割り勘で支払った。


「やっぱ、どうにかしてあいつを探し出さないとな」


「……うん」


 あまり乗り気になれず、僕は言葉を濁した。

 ミチアキの正体を知ることに、僕は漠然とした不安と恐怖を感じていた。その感情の原因が何なのか追求するためにはどうしても、僕と彼女がどこで知り合ったのか記憶を掘り返さないといけない。それは自分にとって苦痛な作業になる予感がして、僕は尻込みをしていた。


「取り敢えず、片っ端からあいつの行きそうなとこを探すしかないか……それとも、学校の教室を全部見て回った方が早いのか……カズ、どっちだと思う?」


「まあ……どっちにしても、出会える確率は低そうだけどね。そもそもうちの制服着てたってだけで、うちの学校の生徒と決まったわけじゃないし」


 むしろ別の学校であってほしい。校内でばったり出くわしたりなんかしたら、どんな顔していいか分からない。


「うーん、そうだよなあ……手掛かりもないわけだし……おっと」


 ダイキの携帯が震え、洒落た洋楽が着信を知らせる。ダイキは画面に表示された名前を見た途端、「げっ、姉貴だ」と顔を顰めて廊下に出ていった。




 一人取り残された僕は、荷物をまとめながら無意識に斜め前の机を眺めた。

 僕の斜め前――すなわち、満野の席だ。

 ミチアキのことも気がかりだけれど、僕の頭の中には満野のこともちらつき始めていた。

 その原因は、紛れもなく罪悪感。

 授業中視界に入る位置にいるせいか、なおさらその存在が目に焼き付いて離れなかった。


 彼女は非常に真面目な生徒だ。

 校則通りに制服を着こなし、授業中も黙々と黒板に向き合っている。そのうえ頭も良いらしく、新学期早々のテストで学年一位を取ったという噂を聞いた。

 しかし、あの時僕を捉えた視線は、模範的な態度からは想像出来ないほどに鋭く尖って僕の胸を刺した。


 ――この臆病者。


 本当に言われたわけではないのに、耳に残る声。

 そういえば、僕はまだ一度も、満野の本当の声を聞いたことがない。


「――ねえ」


 凛とした声が、僕を呼んだ。


「ホームルームで配られたプリント、まだ余ってない?」


 教室の入り口に女子生徒が立っていた。僕に話しかけているとは思わなかったが、今室内にいるのは僕だけだということに遅れて気付く。

 その女子生徒は、たった今僕が心に浮かべていた人物そのものだった。


「……え、あ」


「進路希望調査のプリント、もらいそびれたから。予備があればもらおうかと思ったんだけど、知らない?」


 彼女の声は、何の感情の起伏も感じられない、平坦なものだった。長い前髪と眼鏡で顔の半分が隠れていて、表情も読み取れない。


「えっと……どうだろ」


 しどろもどろになりながら返答すると、彼女は「あ、そう。知らないならいいや」とあまりにもあっさりと僕に背を向けようとした。


「待って」


 僕は思わず呼び止めた。


「なに?」


 足を止めた満野は少し億劫そうに振り返る。僕は鞄からプリントを一枚引き抜いて満野に差し出した。


「これ、あげるよ。僕はダイ……友達にコピーさせてもらうから」


「……いいの?」


 満野は驚いた表情で尋ねてきた。


「いいよ」


 頷いてプリントを満野の手に押し付ける。


「……ありがとう。助かる」


 受け取ったプリントをファイルに丁寧にしまいながら、満野は礼を述べてきた。にこりともしないけれど、拒絶されている様子もなかった。


「……あのさ」


 この間のことなんだけど――


 閉め忘れられた半開きの窓から、生暖かい風が流れ込む。それに合わせて小さく靡く満野の髪に目をやりながら、僕は躊躇いながらも続きの言葉を紡ごうとした。

 だが僕は、喉につかえる小骨を取り除く絶好のチャンスをみすみす逃した。

 怪訝そうな顔で立ち止まる満野の背後から通話を終えたダイキが騒がしく現れ、結局満野は何も言わずに教室を出て行ってしまったのだ。


「悪い、カズ。この後なんだけど……」


 ダイキはすれ違った満野に目を止めてその背中を見送ると、「誰? 知り合い?」と軽い口調で尋ねてきた。


「……クラスメイトだよ」


 一気に脱力感に襲われ、僕は椅子に座り込んだ。


「そうだっけ。俺まだクラスの半分も名前覚えてないんだよな。特に女子は」


「……それより電話、何だったの」


 豪快に笑い飛ばすダイキに、僕は咳払いをして先ほどの話の続きを促す。ダイキは思い出したように「ああ、そうそう」と相槌を打った。


「悪いんだけど、急遽姪っ子を幼稚園まで迎えに行って欲しいって言われてさ。うちの姉貴、パートに出てるって話したよな? なんか今日職場の人が一時間遅れるから、その分残ってかなきゃいけなくなったらしい。だからその代わりに姪っ子――ナナって言うんだけど、迎えに行けってさ」


 今日は部活も休みで、このままどこか遊びに寄ろうかと話していたところだった。


「いいよ、別に。だったら――」


 遊ぶのはまた別の日にしようか。そう言おうとしてダイキに遮られた。



「そうだ、帰り道にある幼稚園だからさ、一緒に迎えに行こうぜ。そんでそのあとにパーッと遊びに行こう!」






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