5.かさぶたと砂の城
彼女はまるで僕の存在を忘れてしまったかのようにジャングルジムの天辺まで登り、ひとり楽しそうに鼻歌を歌った。
どこかで聴いたことのある、懐かしいメロディーが僕の喉に引っかかって、咳が出た。
「今日の月は綺麗だねえ」
歌の切れ間に、ミチアキが呟く。それは独り言なのか、僕に向かって発した言葉なのか判別がつかなかった。
僕が黙ったままでいると、ミチアキはジャングルジムの上から僕に視線を落としてきた。
「……この前の方が、満月で綺麗だったと思うけど」
その促すような目に、僕はぽつりと言った。
「カズくん、本当にそう思ってる? 満月なんて、ミチアキは嫌いだよ」
「……なんで、嫌いなの」
「満月なんて完全体、誰かが褒めて好きでいてあげる必要なんてないじゃない。そんな言葉なくたって、ほっといたって、満月なんか綺麗で美しいのなんて当たり前だもん。そんなのより、見て、今日の月。欠けて、歪で、全然綺麗じゃない。でも、そんな月ほど、綺麗だねって、誰かが言ってあげなきゃいけないの。そう言って、愛してあげなきゃいけないの」
ミチアキは舌っ足らずな喋り方で、しかし真面目な顔で、僕にそう語りかけてきた。ミチアキの言葉の真意は分からないけれど、どことなく哀愁漂うその姿に、僕は何か気の利いたことを言ってあげないといけないような気がした。
しかし、言葉に迷っているうちに、ミチアキは打って変わって含みのある声で僕の名前を呼んだ。
「それにしても、カズくぅん? 君って本当にダメダメな男の子だねえ。満月が綺麗だなんて、クラスの女子の誰が可愛いか話している中で、自分はそんなのより女優が好きだって言うようなものだよ」
ミチアキはやれやれと大袈裟にため息を吐く真似をして、軽い身のこなしでジャングルジムから地面に着地した。
「世の中そんな男の子ばっかりだから、欠けて、歪で、全然綺麗じゃない、愛してあげなきゃいけない存在が誰にも気付かれずに死んでいくんだ。あーあ、カズくんサイテー」
「……なんで僕だけ責められないといけないわけ?」
「それはミチアキのさじ加減かな。カズくんなんて、大さじ一杯の砂糖にまみれて死んじゃえばいい」
物騒なことを言いながら、ミチアキは僕の手を両の手のひらで包み込んだ。そし何か小さくてかたいもの押し付けたかと思うと、パッと手を離して僕から遠ざかっていった。
「バイバイ、カズくん。また、明日」
ミチアキの声は、余韻を残しながら空気に馴染んで消えていく。
僕は日の暮れた公園にひとり取り残されてしまった。見ると、右手にはのど飴が一つ、収まっていた。
死んじゃえばいいと言いながら、また明日と手を振る矛盾に、ミチアキは気付いているのだろうか。
また明日、僕と出会える確証が、彼女にはあるのだろうか。
コホンと乾いた咳が一つ、二つと、吐き出したい言葉の代わりに口から出ていった。
ミチアキと会うたび、訊きたいことは増えるのに、結局何一つ訊けずに終わってしまう。
例えば、スカートを翻した時に見えた、いくつかの痣。
あれは一体何なのか、とか。
何となくだけど、僕と同じように、ミチアキも本当に言いたいことを隠しているように思えた。
――ねえ、カズくんはさ、
結局あの夜の言葉の続きは、聞けないままだ。
◇ ◇
その晩、熱に浮かされて、久しぶりに鮮明な夢を見た。
幼い女の子が、僕の手を引いて歩いている。
そこは片田舎の幼稚園のようで、園内のいたるところで子どもたちがはしゃぎながら遊んでいた。
女の子は近くの砂場まで僕を連れて行き、大きな声で叫んだ。
「○○ちゃんと、カズくんもまーぜーて!」
僕はその子の影から、そこで砂の城を作っていた子たちの反応を覗っている。
その時の僕は、内心とても怯えていた。確信があったのだ、きっと拒絶されるに違いないと。
先週はアヤちゃんに「へんな子カズくんとはしゃべっちゃだめだってママがいってたの」と、昨日はコウくんにも「へんなこというカズは仲間はずれにしようぜ」と笑いながら言われて泣いたばかりだ。
僕は何でこんなに嫌がられるんだろう。
アヤちゃんのお友達のことを、怖いって言ったから?
コウくんが好きなミッちゃんは、トモくんが好きなんだよって教えてあげたから?
なんで、なんで?
「よかったね、カズくん。みんな一緒にあそんでくれるって!」
その声に、僕は恐る恐るその子の背中から首を伸ばした。砂場で遊んでいた子たちは、僕の予想に反し僕たちを快く迎え入れてくれたのだ。
「いいよ、カズくんも一緒にあそぼう!」
「こっちきて、○○ちゃん! カズくん! 大きいお城つくろう」
僕は手を引っ張られて砂場に足を踏み入れた。僕の両手を掴んでいたのは、笑顔のアヤちゃんとコウくんだった。
「ぼくなんかと一緒にあそんでいいの……? みんな、ぼくのこと嫌いなんじゃないの?」
僕の問い掛けに、背後から優しい声が響いた。
「カズくん、こういうときはただ笑えばいいんだよ。他にはなんにもいわなくていいんだよ。ただ『ありがとう』って笑っていれば、きっとカズくんはこれからも大丈夫だよ」
振り返ってその声の主を確かめたかったけれど、急激に霧がかった視界の中、僕の身体はまるで金縛りにあったかのように動けなくなった。
――ほら、笑って!
女の子の声と混ざり合うように、公園でミチアキに言われた言葉が聞こえた気がして――そこで目が覚めた。
けたたましく鳴る目覚まし時計を、緩慢な手つきで止める。
枕に重たい頭を預けたまま、僕はぼんやりと夢の内容を反芻した。
「……幼稚園の時の、か」
僕は盛大に息を吐いて、両手で顔を覆った。
――あの頃の記憶なんてもう消えてなくなったと思っていたのに。
感情はその時を一瞬彩るだけのサイリウムだと言ったのは、一体誰だったか。
今はそいつを殴ってやりたい。
大分色褪せたと思っていたのに、まだ酷く苦々しい気持ちになるじゃないか。
母親曰く、幼稚園の頃の僕は大層引っ込み思案で、よく泣き、友達も少なかったようだ。
人との関わり方が下手くそで、いつも余計なことを言っては他の子を怒らせたり泣かせたりしていた。つまり、空気の読めない手の掛かる子どもだったのだ。「だったのだ」と過去形にしてしまっていいのか、今の僕にはまだ判断がつかないのでそれは一旦置いておくとして。
楽しい思い出など一つもないのだから、当時の記憶など箱にしまって埃を被ってしまっていても問題はなかったはずなのに。それが今になって、どうして。
しかもご丁寧に、夢は少し都合の良い内容に改竄されていた。正しく過去をなぞらえるなら、僕はあの子たちの遊びに入れてもらえたことなど一度もない。
「…………」
熱は下がったはずなのに、水を含んだ服を着ているように身体が重たい。
そろそろ起きないと学校に遅刻する時間だが、僕はベッドから身体を起こすことが出来ないでいた。
同じ組だった女の子、
園庭の小さな砂場、
投げ出されたスコップ、
水を張った黄色いバケツ、
歪な形の砂の城――
思い出したくもないのに、記憶は連鎖的に他の記憶も呼び覚ましていく。
吐き気がした。
口元を押さえて目を瞑ると、今度は別の映像が頭の中にチラついた。
全く関係ないはずなのに、その記憶は僕の心を更に淀ませた。
それは一ヵ月前の出来事。
まだクラス替えが終わって間もない四月の頭のことだ。
僕はクラスの女子生徒がいじめに遭っているところを目撃した。
目撃した、と言うことはつまり――
僕はそれを、見て見ぬふりをしたのだ。