嘘をつくしかない自分に嫌気がさす
静かな放課後。
別館にある図書室で本を漁り終え、本館の教室へと戻るために渡り廊下へ差し掛かろうとしたときだった。
「紫藤先生、好きです!」
ーーーまた、だ。
私、神田雪乃は、なぜかこの数学教師・紫藤孝道が告白される現場を三度も目撃している。そんなものを見ても、当然何も嬉しくないのだが。
まさか、何かの呪いにでもかけられているのだろうか。
私はいい加減不安になってきて、はあ、とため息をつく。
それにしても、一体こんな輩のどこがいいのかなんて言ったらおそらく、いや絶対、巴に張り倒されるだろう。
だが本当にわからないのだ。この男の魅力が。
「村木、からかっているのか?」
「ち、違います…私は本当に先生がす、好きなんです!」
何てことを言わせているのか。最低だ、このクソ軟派野郎。私は小さく舌打ちする。
やっぱり絶対に、巴をお前なんかに渡さない。
「そうか…ありがとう。でも、先生にはね……」
紫藤がそう言いかけたときだった。
「雪乃ー!」
最悪だバカ野郎。一体何を考えているんだ。いや、何も考えていないのか。
私の反対側から、巴がこちら目掛けてどたどたと走ってきたのだ。いや、私よりも中庭を見ろ、巴よ。お前の好きな紫藤がピンチだぞ。
そう思っている間に、紫藤や村木と呼ばれた女子生徒は散り散りになっていた。
いつの間にか隣にいた巴はその光景を見ておらず、ねえ雪乃聞いてんのー、と何とも呑気な声を上げている。
「雪乃、何見てたの?何かぼけーっとしてたけど」
「いや、別に…それより巴、あんた声でかいよ」
「そうかなー?」
私は答える代わりに頷いた。
すると巴は、先生ってやっぱり大人しくてかわいい子の方が好きなのかな、なんてことをほざいている。呑気なこった。
「雪乃、何か借りてきたの?」
「うん。そろそろテストじゃん。私は英語苦手だからね」
「雪乃はバッキバキの理系だからねー!私に言ってくれれば、英語教えるのに」
「…じゃあ、この後教室で教えてくれない?」
「おっけー!行こう!」
そうして私と巴は、渡り廊下を渡って教室へ歩きだそうとした。
そういえば巴は、なぜ別館の方に来ようとしていたのだろう。何か用事でもあったのか。
しかしそれよりも、これで私は巴と少しでも一緒にいられると、そう思って笑みを濃くしていたのだった。
「で?雪乃はどこがわかんないのさ」
教室に着くなり、巴はこちらをくるりと振り返って言った。
教室の窓からは夕陽が強く射し込み、それが巴の髪の毛を明るいオレンジに染めている。
私はそれに見とれながら、図書室から借りてきた本を自分の机の上に置いた。つもりだった。
バサバサと私の手から本が落ち、そのうちのひとつが私の爪先を直撃する。
「あだっ!」
「…ぶ、はははははっ!何してんのさ雪乃ー」
「いってー…いつまで笑ってんの」
「ははっ!だってー!」
巴はけらけらと笑っている。もともと童顔な巴は、笑うと更に幼く見えて、それが本当にかわいらしいのだ。
何だか私もおかしくなってきて、こんな時間がずっと続けばいいのにとさえ思ってしまう。
このまま、ずっとこうしていたい。私の、ささやかなわがままだ。
「…ねえ雪乃。雪乃はさ、好きな人とかいるの?」
何という豪速直球、さすがは巴だ。そう感心してしまうほどに、巴はストレートにものを言ってくる。
時折それは誤解されてしまうこともあるけれど、巴の人のよさもあって、基本的にそれは解消される。
私は、私の好きな人は巴だよ、と言いたくなる、そんなはやる気持ちを何とか抑え込んだ。
そうして、平静を装って聞き返す。
「え、どうしたの急に」
「ん…何となく?」
「何だよそれ」
巴は少しだけ考えるように俯くと、首を傾げながら、んーとね、と呟いてから続けた。
「雪乃さ、私のこと好きでしょ?」
「…………」
ーーーこのまま、うん、と言ってしまえばどんなに楽だろう。
この気持ちを、私はずっと抑えつけて生きてきた。巴とは小学校からの付き合いで、何だかんだと高校二年生の現在まで、ずっと同じクラスだった。
私は、巴をずっと見てきた。
彼女の優しさやあたたかさ、そういったところは勿論、ギャップに弱いところ、ミーハーなところも、そう。何だって知っている。
けれども、巴の気持ちだけは、知ることができなかった。
巴は元来の性格のよさと、その幼く愛らしい顔立ちから、男子からは比較的人気のある方だった。
しかし、巴は学年一と評される男子から告白されたときでさえ、断っていた。
何だかわけわかんないやつに告白されたんだけどー、と笑いながら言う彼女に、私はどこか安心していた。
巴に好きな人がいないなら、私にも一縷の望みはあると。そんな、ありもしない幻想を抱いたのだ。
そんな淡い想いを打ち砕いたのは、勿論憎き紫藤の存在である。
ねえ、あの先生めっちゃくちゃかっこよくない!?と、両の瞳を輝かせながら言った巴を見たとき、はっきりと絶望の念が沸き上がったのを覚えている。
巴にも遂に、好きな人ができてしまったのだと。その日は私らしくもなく、ご飯が喉を通らなかったものだ。
などと、私が過去にぼんやり思いを馳せているとーーー
「ねーえー雪乃ったらー!もうはっきり言ってよー!!」
廊下にさえ響きそうな巴の大声で、我に返った。というか返らされた。
ここが年貢の納めどきか。もう諦めがついた。こうなったら当たって砕けろだ。
私が巴を見据えると、彼女はびっと背筋を正した。かわいいなと思いながら、私は唇を開いた。
「そうだよ。何でわかったの?」
「………へ?」
ずいぶんと腑抜けた声が、巴の口から発せられた。
いや、へではないのだが。
「…え、あ、あ、ほんと?ほんとに?え?そうなの!?ねえ!!」
一気に巴の顔が赤くなっていく。何だか茹でダコのようで面白い。
私は、もう笑いが抑えられなかった。
「あは、はははははは!」
「な、何さー!何笑ってんのさ!」
「いや、ははは…!ごめんって、ふ、ははっ…!」
「も、もーっ!」
巴は私に突撃してくると、首根っこを掴んで揺さぶってきた。攻撃だ、これ。
私はがくがくと揺さぶられながら、涙が出そうになるのを堪えるしかなかった。私の想いは、絶対に明かしてはならないのだ。
「…雪乃?」
「巴、私はね…」
私は決心した。
「私は巴のこと、友達としてしか見てないから」
本当は、大好きなのに。
「だから安心して、紫藤先生を好きでいてよ」
何でこんなこと言わなくちゃならないんだろう。