動き出す悪魔
「――だから、とりあえず今は練習に励むしかないと思うな。ただ、悩むってこと自体も、壁を超える大事なプロセスだから、考えることも辞めちゃいけないと思う。どうしてもまた行き詰まって、どうしようもなくなったら、またおいで。僕も一緒にどうすればいいか考えるからさ」
「……わかりました。そのときはよろしくお願いします。カナキ先生」
それまで浮かない表情を浮かべていた女子生徒は、笑顔を作って、相談室を後にする。
最後に笑顔を作ってはいたが、あれは文字通り作った笑顔だ。彼女はまた来るだろうな、と顔と相談内容を忘れないよう頭で反芻させる。
「――どうぞ」
「失礼します。カナキ先生、お疲れ様です」
ノックと共に生徒相談室に入って来たのは、養護助教諭のゼスだ。
「なんだ、ゼス君か。君の仕事はもう終わったのかい?」
「はい。カナキ先生に言われたものは、先ほど全部終わりました。これ以上何もなければ僕は帰りたいと思いますが」
「うん、構わないよ。お疲れ様」
「ありがとうございます。先生は?」
「まだ生徒からの相談が一件残ってるんだ。その子の相手が終わったら僕も帰るよ」
「え、これからまだ生徒が来るんですか! 今日だけでもう三人ですよ」
「新学期が始まってもう一週間だからねえ。特に上級生は今年こそは大きく変わりたい、一歩を踏み出したい、と思っている生徒が多いですから」
「はぁ……。生徒からの人望が高いというのも考えものですね」
ゼスは訳知り顔でうんうん頷いた。今年で二十二歳だというゼスは、年齢相応に、顔つきにも未だ少年の無邪気さが残った青年だった。
「それじゃあ、お言葉に甘えて僕は先に上がらせてもらいますけど、一つだけいいですか?」
「んー、なんだい?」
「――部屋の奥にあるベッド、いつもカーテンが締め切られてますけど、あそこは何なんですか?」
「ああ、あれかい」
僕は、にこりと笑う。
「あそこは、学長から特別に許可をもらって、薬の調合に使わせてもらってるんだ。ただ、ちゃんと安全面で配慮はしてるけど、調合する過程で劇薬の類も扱うことになるから、僕以外は決まった人しか入れないことになってるんだ。だから悪いけど、ゼス君もあそこに入るのだけは遠慮してもらえるかな?」
「へぇ、そういうことだったんですか。でも保健室で薬の調合までする学園なんて珍しいですね。分かりました。生徒達はそのことを知っているんですか?」
「知らないよ。けど、あそこには特別な結界を張ってあるから、間違って入ったりする心配もないと思うよ」
「なるほど。とにかく、了解しました。では、お疲れ様です」
「ああ。また明日」
ゼスが保健室を出たのを確認すると、保健室の奥にある、件のベッドへ向かう。
ベッドで横たわる少女は、身体の至る所に釘を生やしながらも、相変わらずバタバタと暴れていた。
どうやら薬の効き目が切れかかっているようだ。僕は、ベッドに傍に置いてあった小さなデスクの引き出しから、緑色の液体が入った注射器を取り出した。
「全く……昼間はあまり暴れないでほしいな。最低限の防音対策はしているけど、それにだって限度があるんだよ。今年からはゼス君だって保健室にいるんだ。そりゃ、昔は存分に泣き喚かせるみたいな嗜好のタイプも試したけどさ――」
なおも暴れる少女に『睡眠』の魔術を掛けて眠らせ、そのうちに薬を投与する。これでまたしばらくは、魔力も引き出せないだろう。
そこで、保健室の扉が突然勢いよく開け放たれた。どうやら本日最後のお客様が来たようだ。
僕がカーテンから顔を出すと、桃色の髪の少女、アルティが笑顔で出迎えた。
「やっほー、カナキ先生!」
「やあアルティ君。今日も元気そうだね」
扉を開け、僕はすぐにアルティを生徒相談室に招き入れる。
アルティは慣れた様子で椅子に座り、僕も向かい側の椅子に座る。
「それで、今日は何の相談だい? この前話していた小テストで赤点でも取ったのかい?」
「もう、先生は私の悩みって勉強しかないと思ってるの? 今日はそういうのじゃなくて、逆に先生の悩みを聞きにきたんだよー」
「? どういうことだい?」
アルティと話していると、たまに本当に何を言っているのか分からないことがある。
アルティは、まるで出来の悪い生徒に物を教えるように言うにはこういうことだった。
「入学式の日からもう一週間。カナキ先生も毎日相談室に生徒は来るわ、慣れない担任を持ちつつ保健室の仕事もするわ、自分のクラスには王女様がいるわで大変でしょ? だから、今日は特別に私が先生の相談に乗ってあげます! たまには相談される側も悪くないでしょ?」
「うーん、気持ちは嬉しいけどねぇ……」
小さな親切大きなお世話というか……。
確かに、ここ最近まいっているのは本当だが、それをアルティに話したからと言って事態が好転するとは思えない。しかし、無下に断るのも良心が痛む。僕は基本、善良な教師なのだ。
「私、いつも先生には力になってもらってるから、少しでも先生の力になりたいの。悩みを話すだけでも楽になるって言うし、無理にとは言わないから!」
「うーん……。じゃあ、お言葉に甘えて、ちょっと聞いてもらおうかな」
結局、少しだけ話を聞いてもらうことにした。
アルティが、晴れ渡る快晴のような笑顔を浮かべた。
「うんうん! それがいいよ! で、最近は何に困ってるの?」
「まあ、大体は君がさっき言ったようなことが悩みなんだけどね……やっぱり一番はオルテシア君かな」
生徒の前でこんな話をしていいものかと我ながら思う。
「あー、やっぱりオルテシアさんのことかぁ。彼女、二年生の中でも話題になってますよ。なんでも、初日の戦闘演習でも、あのレイン・アルダール先輩に互角の勝負を繰り広げたとか」
「ああ、その話は僕も聞いたよ」
ストレイドを保健室へ運んでいたため、試合自体は見られなかったが、結果だけは後から聞く事が出来た。結果は、レインの勝利。その壮絶な試合の内容は、その場で見ていた者の意識を大きく変えた、とリヴァルは嬉しそうに笑っていた。
「二級魔法師以上の決闘なんて、学生騎士大会じゃあ決勝レベルの試合だからね。むしろ、準一級魔法師のオルテシア君に、レイン君はよく勝ったと思うよ」
やはり、彼は最も警戒すべき学生のようだ。
最近、鬱陶しい街の見回りを続ける『カグヤ』の存在を思い出しながら、アルティの話を聞く。
「それで、カナキ先生は、具体的にオルテシアさんのどこが悩みなの? クラスの生徒からの信頼が無くなるって話は前に聞いたけど」
「それも最近エスカレートしてきてねぇ……。毎日僕の所に相談にくる生徒はいるけど、僕のクラスの生徒は今まで一人も来たことがないよ……。けど、それ以上に問題なのは、彼女の授業を受け持ってる先生から苦情が来ていることなんだ」
「苦情って……なんでですかぁ?」
「彼女の貴族嫌いは折り紙付きのようでね。貴族の先生の授業を、悉く潰しているようなんだ」
「潰しているって……どういうこと?」
アルティがよく分からないと言った表情を作る。確かに、イメージが付きにくいかもしれない。
「つまりね。彼女は貴族の先生の授業になると、先生の授業を全く聞かないらしいんだ。椅子に座って、勉強はするらしいんだけど、一人で勝手に勉強をするらしいんだ」
つまり内職だね、というと、アルティは理解したように相槌を打つ。
「まあ、生徒一人が内職をするくらいなら、別にそこまで騒ぐような事でもないんだけど。彼女はもうクラスの中心、いや、崇拝の対象にすらなりつつあるんだ。そんな彼女が真正面で授業をボイコットするようなことをすれば、周りがそれについて行くのも当然。しかも、授業後には彼女が勉強を教えるせいで、『カレン様の教え方の方が分かりやすい』、『先生の授業は聞く価値もない』って、他の生徒から言われたらしくてね。まあ、僕としては教える方にも問題があると思うけど」
オルテシアを擁護するつもりもないが、確かに、今の貴族は腐っている。この学校の貴族の教諭にしても、コネを使って教壇に立っている者がほとんどで、教材研究もせず、授業の質を向上させようという気持ちがないから、生徒からの人望も勝ち取れないのだろう。
事実、貴族の先生でも、生徒からも信頼されている先生については、オルテシアによるボイコットを受けていないと聞く。
「ふーん。それじゃあカナキ先生、今は職員室でも肩身が狭いんだ」
「君は言い辛いことをはっきりと言うなぁ。まあ、そうなんだけどね。お陰で、最近は職員室に用事があってもゼス君に行ってもらっているよ」
苦笑いを浮かべる僕の前で、アルティはおもむろに腕を組み、うんうんと唸りだした。
どうやら、この問題の解決策を律儀に考えてくれているらしい。
「うーん……。やっぱり、オルテシアさんにボイコットをやめてもらうように言うのが一番手っ取り早いんじゃない? 先生は貴族じゃないし、別に嫌われてないんでしょ?」
「いやいや、君は入学式で僕が彼女に罵倒されていたのを忘れたのかい? 彼女は能力の低い教師についても冷たいんだよ」
事実、彼女から僕に話しかけてきたことは、あれから一度もない。
「じゃあ……無理だ!」
「諦めるの早すぎじゃない? まあ期待してなかったしいいんだけどね」
「なにその言い方は~! 私だって必死に考えたんだよお!」
「怒って本当に頬を膨らませる十六歳を僕は初めて見たよ」
僕は立ち上がると保健室の自分のデスクに移動する。身支度を始めた僕を見て、アルティは非難の声を上げた。
「えー先生もう帰るの! まだ私と三時間も話してないよ」
「うん、君は何時間ここに居座るつもりだったのかな。君に大した用事もないなら、僕はそろそろ帰らせてもらうよ。最近はいつも帰るのが遅かったから、今日は早く帰りたいんだ」
「じゃあ、私と一緒に帰ろうよ!」
「悪いね。今日はちょっと野暮用があるから、また今度ね」
アルティを適当にあしらい、帰路を歩いていた僕は、遂に目的の人物の背中を見つけた。
フィーナ・トリニティ。僕の受け持つクラスの生徒にして、カレン・オルテシアの従者の少女。ここ最近は、専ら彼女の一日の行動パターンを割り出すのに大幅な時間を割いていた。
予想通り、この日は一人で下校しているようだ。どうやら、自主トレーニングをしていたらしい。いつもの通学用の鞄ともう一つ持っているナップザックの中は、おそらく運動着だろう。
僕は、適度な距離を保ちつつ、彼女の尾行を開始する。カレンの従者であるフィーナは、周りから向けられる敵意や殺意に鋭い。それは、日々の学校生活で、彼女の動きや仕草を観察していて分かったことの一つだった。
やがて、彼女は大通りから一本曲がり、小道に入った所で、すれ違う男の集団の一人と肩がぶつかった。
「おいおい、痛ぇじゃねえか。何すんだよ嬢ちゃん」
「……」
「おい、ちょっと待てやぁ!」
男の露骨な演技を無視して、フィーナが通り過ぎようとしたところで、その小さな肩を男に掴まれる。
「放していただけますか」
「へへ、可愛い顔で凄まれたって怖かねえよ。それより、アンタのせいで骨が折れちまった。慰謝料寄越せや」
「ひゃははは! お前、骨弱すぎだろぉ!」
フィーナを囲い、下品な笑い声を振りまく男たちに、フィーナは露骨に不快そうに眉をひそめた。王族付きである彼女が、ああいう教養を微塵も持ち合わせていない人間を嫌悪していることは、普段の振舞いから明白だった。
「もう一度だけ言います。放していただけますか?」
「まぁだそんな事言ってんのかよ。いいから、まずは人気の少ないところに――」
男の言葉は、途中で遮られた。
フィーナが男の顎に、見事なアッパーカットを繰り出したからだ。
白目を剥いて倒れる男に、仲間の男達は動揺する。その隙を見逃すほど、フィーナは甘くなかった。
百六十センチくらいの彼女が、大の大人を次々と薙ぎ倒していくのは、見ていて爽快ですらあった。ただ、次々と倒される男たちには多少の同情も覚える。
なにせ、彼らにフィーナを襲うよう頼んだのは僕だからね。
最後の一人を倒したところで僕の出番だ。後ろから「何をしているんだ!」と声を荒げる。
「――ッ!」
「君は……フィーナ君! これは一体どういうことだい!」
珍しく声を荒立てる僕に、最初は驚いたようだったが、フィーナはすぐに、憮然とした表情で言う。
「別に、襲われたんですよ、こいつらに」
「だからって、これはいくらなんでもやりすぎだろ。君は強い。ここまでやらなくても、君ならもう少し穏便に解決出来たんじゃないか?」
「自分を襲ってきた相手に、何故情けを掛ける必要があるのですか。それに、先生がもっと早く駆けつけてくれたなら、私がここまでする必要もありませんでした」
「う……確かに、駆け付けるのが遅かったのは僕の失態だ。それはすまない」
頭を下げると、頭上でフィーナが狼狽したのが伝わってきた。
「……いえ、今のは、流石に横暴でした。忘れてください」
「……フィーナ君は優しいね。そう言ってもらえると助かるよ」
「いえ、私も、気が立っていました……」
基本、彼女は善人だ。実直で、正義を重んじる彼女だからこそ、僕がああ言えば、自ずと負い目を感じるということは分かっていた。
だから、次の話も彼女にとっては断りづらい提案となる。
「――とにかく、これが学園に知れ渡ったら、かなり面倒なことになる。早くここから離れるよ。ついてきて!」
「あ、あなたについて行く必要はないと思うのですが!」
「あのね、君が僕の事を嫌っているのは知ってるけど、ここは僕の言う事を聞くところだよ。停学になって、オルテシア君にも迷惑を掛けたいのかい?」
「……ッ! それは……」
「わかったら早く行くよ!」
「……はい」
フィーナが渋々頷いたのを確認して、僕は彼女の手を取った。
「ちょ、なにを……!」
「行くよ!」
後ろで非難の声を上げるフィーナを無視して、そのまま僕は走り出す。
それにしても、フィーナに倒された男達は運が無い、とつくづく思う。
――なにせ、フィーナに痛めつけられたあの男達は、この後、口封じの為に僕に殺されてしまうのだから。
そのとき、ついでに人除けの護符の処理もしておかなきゃね。
計画通りに進んでいる自分の目論見に、僕は走りながら薄い笑みを浮かべた。
読んでいただきありがとうございます。