変化
「これで本当に良かったの?」
マティアスの家を後にし、隣を歩いていたセニアが、何回目になるか分からない質問を繰り返した。
「ええ、当たり前です。そもそも、今回のフィーナ君の件も含めて、僕のはあくまで趣味みたいなもんですから、それに命を懸けるほど馬鹿じゃないですよ」
「それって、遠回しに私を馬鹿にしてない?」
「セニアさんは実力が付いてきてますから。僕のような小悪党には荷が重いんですよ」
雨を含んだ雑木林の土は、一歩歩くごとに粘土をこねるように靴底に絡みつく。
学園用の靴を履いてきたのは失敗だったなあ、と思いながら、隣で鼻歌を歌いそうなほど上機嫌な女性を見やる。
「――それにしたって、セニアさんもセニアさんですよ。ほとんどロクな報酬も要求しないで、マティアスさんの仕事を手伝うなんて」
「まあ、マティアスさんには私も随分お世話になってきたからねぇ」
それを言われると辛い。途端に、にべもなく仕事を断った僕が恩知らずに感じてきた。
それを察してか、セニアも「別にカナキ君を責めているわけじゃないのよ」と苦笑を浮かべた。
「私に関して言えば、他にも純粋に面白そうだったからって理由もあったわけだし、確かに、今回の仕事は安請け合いしていい類の仕事ではないわ」
「その割にはセニアさん、即答でしたよ」
「熟考した末の結論よ」
どうだかなぁ。
僕が笑うと、セニアさんも釣られて笑う。月明りに彼女の笑顔が妖しく映えた。
「それじゃあ、私はこっちだから」
「はい。また明日」
「んふふ。じゃあね」
セニアが突然顔を近づけてきたので、途中で額に手を当てて止める。
「なんのつもりですか」
「え、おやすみのキス」
「するわけないでしょう。誰かに見られたらどうするんです」
「大丈夫よ。誰もいないわ」
「確証がありません。大体、今はそういう気分じゃありませんので」
「……ふぅん。つまんないの」
セニアが身体を離し、同時に香っていた薔薇の香りも消える。
そこには、それ以外の香りなんて、全くしない。
完璧な美貌を不満そうに歪ませたセニアは、ぷいと顔を背けた。
「それでは、カナキ“先生”! また明日学校でお会いしましょう、ね!」
「はいはい、すみませんって」
あからさまに敬語を強調したセニアは、踵を返し、夜の街に消えていく。どうせこれから飲み直すのだろう。彼女の痛飲ぶりは、翌日に仕事があるなんてことだけでは止められない。
セニアの姿が曲がり角に消えるまで見送った僕は、小さくため息を吐いた。
香水のみが香る身体、完璧すぎる美貌、過剰なまでの感情表現。
本来の僕なら、学園の男子の例に漏れず、彼女に好意を持つ筈だが……。
――あまりに人間味が無いんだよなぁ。
まるで、化け物が人間の皮を被っているような。人間臭さ、と言ったものが、彼女からは全く感じないのだ。それが、彼女から僕が一歩距離を置いている理由でもある。
セニアを操っている本物の彼女なら、ちゃんと人間臭さを感じられるだろうか。
いつの間にか、雨が再び僕の湿ったスーツを叩き始めていた。
「おはようございます」
「…………」
その翌朝、僕は信じられない事態に遭遇した。
その日、当番で登校してくる生徒を校門で出迎えていた僕は、生徒達が自然に道を開ける二人の少女を出迎えた。
僕が担任するクラスの生徒、カレン・オルテシアとフィーナ・トリニティである。
今、その片方であるフィーナが、僕を見つけると、丁寧に挨拶をしてきたのだ。
いつも通り、無言で通り過ぎようとしていたオルテシアも、これは少し以外だったようだ。
「あら、フィーナ。どういう風の吹き回し?」
「実は、先生には昨日少し助けてもらいまして」
「……へぇ、詳しく聞きたいわね、それ」
オルテシアが興味深そうに僕を覗き込む。その瞳に浮かんでいるのは、猜疑心。
まあ、おおよそ僕が、フィーナ君を抱え込もうとしてるとでも考えているのかな。
「……いやいや、僕はただ、昨日は雨が降っていたから、フィーナ君に傘を貸しただけだよ。助けたなんて大げさなことでもないさ。ね、フィーナ君」
「……はい」
「……へえ。まあ、そういうことにしておきましょうか」
最後まで瞳に浮かぶ感情の色を変えることなく、オルテシアは僕に背を向けた。
フィーナは、鞄から傘を取り出し、僕に渡した。
「これ、ありがとうございました」
「いいや、それじゃ、後で教室でね」
「……はい」
フィーナが一礼し、小走りでオルテシアの後を追っていく。
一息吐いた僕の肩に、今度は元気な声が届いた。
「――カナキ先生! 今の、オルテシアさん達だよね!?」
「ああ、アルティ君、それにエト君も。おはよう」
「お、おはようございます」
「先生、いつの間にあの二人と仲良くなったの!?」
律儀に挨拶を返すエトと反対に、アルティがせっついてくる。
先生の肩を揺さぶるのはやめなさい。
「仲良くなんてないさ。昨日、帰り道にフィーナ君と偶然会って、傘を貸しただけさ。だから、オルテシア君の方なんて、まだロクに喋ったことすらないよ」
「えー、でもトリニティさんの方は、結構普通に喋ってたよ!」
「逆に言えば、やっと普通に喋ってもらえるようになったんだよ。むしろ、ここからが本番だね」
だが、確かに、こうも早くフィーナの態度が軟化するとは思っていなかったが、流石にもう少しかかると思っていたのだが……これは嬉しい誤算だ。
「でも、先生がこの調子で二人と仲良くなってくれたら、私たちの心配事も一つ減って助かるよー」
「なんだ、二人は僕の心配をしてくれていたのかい?」
「そうだよー。ねえ、エトちゃん?」
「う、うん」
遠慮がちにエトが頷く。アルティとエトが同じクラスで仲が良いことは知っていたが、どうやら自分の思っている以上に親密な間柄らしい。マティアスの一人娘というのもあり、エトにはそれなりの信頼も置いているが、やはり、どこかのタイミングで秘密が漏れないか不安になることがある。その度に、不安要素である彼女の“処分”の方法をシミュレーションするが、どれも最後は何らかの形でマティアスにばれて、僕が殺されるのがオチだった。
「それより、二人とも、今日は杖、ちゃんと忘れずに持って来たかい?」
「はい。勿論持ってきました、けど……」
「ああああああ!」
エトが遠慮がちに頷いた隣で、悲鳴を上げる少女が一人。
「アルティ君……」
「違うんです違うんです! 私、いっつも忘れ物するから、昨日の夜まではちゃんと鞄に入れてたんです! でも、途中でちょっと復習だけしておこうと思って、前の授業の確認をしてたら、そのまま机の上に……」
しょんぼり項垂れるアルティの背中を、隣でポンポンとエトが叩く。
理由が理由だし、僕はしょうがない、授業前にスペアを貸してあげるよ、と言った。
「ホント!? さっすが先生! 私に甘いんだから!」
「……あまり調子に乗らないでくれたまえよ? なんなら、今日で君の忘れ物の回数は二桁を超えるわけだし、自宅に連絡して、三者面談してくれるようメルト先生に頼んでも良いのだよ?」
「誠に申し訳ありませんでした」
「アルティちゃん、変わり身が早いよ……」
エトが引くほどの豹変ぶりで、アルティは九十度腰を折る。
――ああ、この子たちは本当に良い。
二人を見送った後、僕は目を細める。
やはり、ああいう多感な年頃の少女の方が、僕としては断然好みだ。まだ、この残酷な世界を知らず、又は知っていても折り合いをつけることの出来ない、青い若さというのが、たまらなく僕の好奇心を刺激する。
セニアさんにも、ああいう青臭さがあればね――。
予鈴が鳴り、跳ねるように軽い足取りで、僕は校舎に戻る。
この後は久しぶりに僕の授業もあるし、今日は楽しい一日になりそうだ。
読んでいただきありがとうございます。




