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終戦見聞録  作者: 鱗田陽
山中模索
9/23

8

 ラウルは天を見上げていた。そこには分厚い雲が張り、どんよりとした灰色がはびこっている。風の流れがほとんどないのか雲の襞が動いている様子はない。 陽光も差し込まぬ薄暗い場所で、ぐったりとしたミュンヒオールを背負ったまま、ラウルは嘆息した。

(やれやれ、重労働だのう)

 齢七十の体に鞭を打ち、視線を上に向ける。そこには垂直とも思えるような、険しい山の峰が広がっていた。表面には純白の雪が積もっている。冬はとうに越したはずであるが、その山には万年雪が積もっているという。

 二人は今、かつて帝国領を南北に分断していた、ベクダール山脈に到達していた。決して溶けることのない雪が積もり、本来であれば蒼氷の表層が、汚れ一つない純白に覆いかくされている。まばらに針葉樹が生え、急な傾斜の表面に獣の気配はない。

 とにかく辺りには刃のような寒風が吹き荒れ、恐るべき自然の慟哭が響き渡る。それは風の音の反響だそうだが、しかし間近で聞いてみると、恐ろしい雰囲気を醸している。

 ラウルは黙然と峰々を凝望していた。かつては霊峰と謳われたそうだが、その意味がよく分かる。なにしろ山の中途に雲がかかり、頂上が見えないのだから。 どこから雲がやってくるのかは分からないが、ともかく曇天が二人を見下ろしていた。

「ミュンフ、ちょっとだけ我慢せい」

 真っ赤な顔で、ぜいぜいと息を切らしたミュンヒオールを抱え直して、ラウルはゆっくりと山の中に足を踏み入れた。どことなく清明な空気が二人を覆った気がするが、けれども人を抱えて山を登るという無茶を前に、気にしていられる余裕は無くなった。

 辺りは凍寒――一晩で水が氷になる気温――が占めているはずなのに、ラウルは上着を脱ぎ、帷子一枚になった。それでも汗が止まらず、顎から滴がこぼれ落ちる。その労力の大半は積もった雪をかき分けることに費やされた。

 そもそも風邪っぴきのミュンヒオールを抱えて、山越えに挑むことになった要因は、このベクダール山脈のふもとにある小さな村での出来事にある。


 二人が村にやってきたのは、二日ばかり前のことであった。ベダン・スーから逃亡して、すでに一カ月が経っている。たぶん季節は冬から春へと移り変わる頃であったろうが、二人の到達したその村にとっては、さほどの変化ではない。

 なにしろ年中雪が積もっている。時折降る雪に覆われて、それらが無くなることはない。その原因は、ベクダール山脈から吹きつける冷たい風と、山に留まる雲によるものであった。日がほとんど照らないためか村の中はどこか暗く、鬱屈した空気が漂っている。

 ラウルは女の露出が少ないことを嘆き、ミュンヒオールはその様子に悪態をついた。

 二人は山越えの英気を養うため、その村で二晩を過ごすことにした。なにしろ雪を初めて見たミュンヒオールがはしゃぎまわり、旅どころの騒ぎではなかったからだ。すでに亡い彼の両親の言を信じるのであれば、ミュンヒオールはもう十五歳になっている。その青年に差し掛かった男が、半分ほどの歳の子と雪遊びに興じているのである。

 その様子を見ながら、好々爺の如くラウルは目を細めた。

 ボクストールを出てから、この村に到達するまでには多少の困難があった。その遠因がドゥーチである。もちろん彼と直接、鉢合わせることは無かったのだが、ラウルの情報を聞きつけて、四方八方に手を伸ばしていることが判明した。 最初は十人ほどだった追手が、今や千人にも上っている。街道という街道に共和国の兵士が駐在し、目を光らせていた。彼らは本気でラウルを連れ戻す気であるらしく、懸賞金までかけられる始末である。

 そういう事情から、町という町を避けなければならなかった。大抵は難民の集落を転々とし、さらには野宿まで強いられた。もちろんラウルは慣れっこなのだが、案外都会派のミュンヒオールが、野茨の壁、落ち葉の床、そして星空のカーテンを嫌がったのであった。夜は火が焚けず寒さに苛まれるし、虫がうろちょろしているし、ちょっとした獣に怯えなければならないからである。寝入っている時に野犬の群れに襲われた時など、これ以上ないほど取り乱し、そして寝ぼけたついでに野犬を蹴り飛ばした。

 そういうわけで、ちょっとしたロマンスや、果ては羽毛の詰まったベッドで眠ることなど夢のまた夢であった。

 ベクダール山脈を越えるために北上し、その麓にある村にやってくるまで、共和国の追っ手はどこにでも現れた。この村でさえ、早晩ドゥーチの執拗な追跡の網に引っ掛かるだろう。

 その日、二人は久方ぶりに暖かなベッドで寝た。藁を敷きつめた簡素な物であったが、しかし毛布にくるまって野原で眠るよりは格段にましで、雨風を凌ぐ壁と天井に囲まれ、火鉢を部屋の中央に置いて寝られた。

 その翌日、何故かミュンヒオールが風邪を引いたのだった。

 まったく子供のようだ、と内心で思った拍子に、そういえばこの子は子供だった、とラウルは思い知らされたのである。

 旅を始めた頃よりも精悍さが増し、筋骨も鍛え上げられ、言動もますます毒を帯びていたから、あまり実感せずにいたのだ。汗みずくになり、顔を真っ赤にして、ぜいぜいと喘いでいる姿を見れば、この子はまだ人生の五分の一程度を終えたばかりなのだ、と気付かされた。

 その矢先だった。昼よりも前のことである。親父の妻が温かい麦と豆の粥、それにピクルスと甘い大根を用意してくれていた。その芳しい匂いにつられて厨房をのぞき込んでいる時に、親父がやってきた。

 彼は気の良い男だった。釣りと雪かきを趣味にしていて、妻と料理をし、酒を飲むことを至上の喜びと捉えていた。村から外に出たことは無く、それ故に戦争とは無縁の人であった。必然的にラウルのことを知らず、屈託なく接してくれるのである。

 その親父が蒼白の顔で、ラウルを呼びとめた。

「さっきよお、俺の息子が帰ってきたんだが……」

 言い澱む親父に、ラウルは柔らかな笑みを浮かべた。ベダン・スーを出てからというもの、どうやら将軍としての威厳は薄れてきている。それに伴って、父と慕ったボミルカル公爵の死に際の言葉が思い起こされるのだ。

〝お前には悪いことをしたな〟

 たぶん平時であれば、ラウルは酒豪の武人として、その生を全うできただろう。本来の爛漫さと、軍人生活によって培われた快活さとが合わさって、帝国との戦端が開かれるまでは人懐こい男だと思われていた。

 しかし戦争が始まり、状況は一変した。ラウルは槍を掲げ、弓を引き、そして剣を振り下ろした。彼は〝不敗の軍神〟として名を馳せたのだ。地位が高まれば高まるほど、根っこの部分は隠さねばならない。冷厳な将軍として、振る舞わねばならなかった。元の性格を知っているからこそ、ボミルカル公爵は己の引き起こした愚を悔いたのであった。

 たぶん、現状を見たら嘆き悲しむだろう。ラウルはそう直感していた。十歳の時に公爵の小姓となり、それから彼が亡くなるまで忠誠を誓ってきた。その長年の付き合いから、公爵のことは手に取るように分かる。一部の思考が彼と似ていることは、同じ女性に惚れ込んだことからも明らかだった。

 その公爵の言葉を信じる限り、彼は決して帝国を滅ぼす意思を持っていなかった。彼と共に反旗を翻したヘンソン公爵とて名誉回復を望みはしたが、帝国の秩序を崩壊せしめる、というような過激な思想にかぶれてはいなかった。

 彼らのことを知らない連中が、勝手に仕立て上げただけなのだ。

 ともかく、穏やかな顔をしたラウルは、親父の顔を宥めすかした。それで彼の方も覚悟を決めたのか、青ざめた顔を近づけてきた。

「なんでも、お偉い騎士様が、あんたらを探しているらしくて」

 背格好を聞く限り、ドゥーチとその部下達で間違いはないようだった。どうやらデベ村で誤った方向に導かれたあと、ひと月駆けて方向を修正してきたらしい。その執念に感服しながら、一つの懸念を口にした。

「いつ、この村に着くかの?」

「たぶん、明日の晩か、明後日の朝には」

 頭にあるのはミュンヒオールのことだ。高熱は引きつつあるが、まだ体調が悪く、とても登山が出来るような状態ではない。かといって置いていけるわけでもない。もし出来るなら、ベダン・スーに置き去りにしていた。

 というわけで、ラウルは決断を迫られた。ドゥーチが来る前に山に向かうか、それとも別の道を探るか。あとはミュンヒオールを連れていくか、もしくは隠すか。

 ラウルは逡巡した。たぶん戦いのさなかよりも頭を使っていた。これが剣を振るだけの戦争だったなら、彼は腰に帯びた愛刀を抜き払い、ドゥーチに飛びかかっていただろう。六十年もの軍人生活が答えを与えてくれるに違いなかった。

 だが、流亡のこととなると、ラウルはまだ素人だ。逃げるのも隠れるのも上手くはない。だから体に宿った直感に頼るわけにもいかない。

 宿の親父は随分と気のいい男だった。いざとなれば、ミュンヒオールを親戚の元で匿ってやるという。その上で、頃合いを見て山越えを手伝ってやる、と提案してくれた。それも一つの手だろう。逃げるということを主眼に置けば。

 しかし、とラウルは思う。これはただ逃げるだけの旅ではないのだ。ささくれだったラウルの心を癒すとともに、ミュンヒオールの人生に、少しばかり光を与えてやろうという旅でもあるのだ。

 それを加味した場合、二人がばらばらに逃げるのは、得策ではないように感じられた。ラウルが見て、聞いて、感じた素晴らしい物を、そっくりそのままミュンヒオールにも味わわせてやりたいと思ってしまうのだ。我儘であることは分かっている。しかしこの唯一の親族を、窮屈な檻の中に閉じ込めておきたくはないのである。

「親父、山越えはどれくらい厳しい?」

 ラウルが問うと、親父は顔を青ざめさせた。

「まさか、この子を連れて登る気ですか?」

「お前さんを信用しとらんわけじゃないが、わしが連れた方が確実だ」

「とんだ無茶を言いなさる。村の北から入ったら、健常な若者ですら頂上まで七日、下りに二日はかかります。それが病人を連れてとなると……。お勧めはできません」

「では、他の道は?」

 親父はひとしきり悩んでから、三つの道を提示した。

「一つは、山沿いに東進して比較的緩やかな山道を選ぶことです。これには二十日ばかりかかるでしょう。今一つは西進し、整備された道を進むことです。こちらも同様の日数がかかります。最後は、さらに西に行き、尾根の終わりを迂回することです。これは三十日を見積もっておくとよろしいかと」

 今度はラウルが悩む番だ。この三つの他に、村の北にある最も険しい道を直進する、という選択肢もある。その四つの選択肢の中から、実現可能なものを選ぶのだ。

 結局、夕暮れ時になって、最短距離で行くことを選んだ。親父は蒼白の顔をますます青くしたが、しかしラウルは決然と、その道を選択した。

「致し方あるまい。わしは追われるのが嫌いだ。他の道は、ドゥーチに捕まる可能性がある。あやつらは馬に乗っておるのだから」

「しかし、だからといって危険な道を選ばなくとも……」

 けれどもラウルはかぶりを振り、その日の夜――月が東の空から打ち上がるような時間――に村を出た。一晩かけて山のふもとにやってきて、明け方、その森厳な佇まいを見上げたのである。

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