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終戦見聞録  作者: 鱗田陽
ボクストール騒動
7/23

6

 トーラについた。そこはボクストール伯爵領の主都である。数多の街道の始点であり、終点でもある。そこは交通の要所で、東西南北、どの方角の街道にも連結する。そういう場所であるから、多種多様な人や物が集まってくる。後ろ盾となる帝国が無くなったとしても、この活気だけは失われずにいるようだ。

 どうやら大きな市が終わったばかりらしく、その余韻も冷めぬまま、人々はまだ都市の外縁で顔を突き合わせて商談を重ねている。

 城門の付近は、混雑解消のためボクストール伯の騎士達が陣取っている。それ以外の場所は馬車や露店、人などが入り乱れるようにして存在している。

「おじいさん、離れないでくださいよ」

 人いきれをかき分けながらミュンヒオールが言った。先ほどから、都市に近づこうと奮闘しているのだが、その足取りは遅々としていて、どうにも進まない。 雑踏に紛れてラウルからの返事が聞こえず、彼は苛立ちながら後ろを振り返った。

 そこには、もう祖父の姿が無かった。ほんの数分前まで飄々と歩いていたはずなのに。あの軒昂な意気を有す老人を見失うはずはない。いかに人が多くとも、あの見慣れた唯一の親族の顔を見損なうはずが無いのである。

 けれどもラウルは、そこにはいなかった。ミュンヒオールは立ち止まり、人が錯落する中に留まって周囲を確認する。しかし、そこにあるのは他人の顔ばかりで、見知った顔はどこにもない。彼の脇を通り抜ける人達は、突然立ち止まった少年に一瞥くれて、舌打ちをしながら通り抜けていく。

 その人の流れは、やがてミュンヒオールをも飲み込んだ。いつの間にか体が動きだしていて、踏ん張ろうにも巨大な人力の波濤の前には無力であった。彼は半ば体を浮かせながら、首都トーラの玄関口であるアーチ状の城門をくぐらされた。次第に方向感覚を失っていく。己がどこにいるのか、もはや確認する術はなかった。

 都市の内部に入ってしまうと、それまで彼を阻んでいた人の波が、あっという間に引いてしまう。都市は城壁に囲まれているが、けれども人の行き先はてんでばらばらで、ある人は西に、ある人は北にという有様である。

 当然、ミュンヒオールは行き場もなく佇立した。しかし、いつまでも立ち止まっているわけにはいかない。城門の袂の混雑を避け、目についた道を移動し、その先にある広場の井戸端で頭を抱えた。

(あの糞爺……)

 内心で悪態をついてみるものの、それで解決するほど現実は甘くない。

彼はしばらく城門の人だかりを見ていたが、やはりラウルが現れないことを確認して、都市で最も有名な酒場を目指すことにした。これは人によって答えが違ったが、片手の数まで絞り込めれば、あとは簡単な作業だった。

「美人がいるのはどこです?」

 そう問えば、人々はたった一つの酒場を示した。そこには宿もついているということで、ラウルを待つには最適な場所のようだった。

 そして彼の判断は、非の打ちどころもないほど完璧であった。

「おお、ミュンフ」

 酒場の一角で管を巻いているラウルを見つけた。水で割っていない葡萄酒を一本空けたところのようで、陽気な赤ら顔でミュンヒオールを出迎えた。

「何しているんですか」

「酒と女子の匂いにつられて……」

 ラウルはあっけらかんと笑っている。ミュンヒオールは苛立ちを隠すこともなく睨みつけた。

 しかし、それが長く続くことはない。程よく混んでいる食堂の中は、香辛料の香りでいっぱいなのである。異国の情緒が漂う刺激的な匂いに、彼の腹は大きく一つ鳴き声を上げた。空腹には抗いようもなく、席に座った。

 手元の品書を見る。地元民を相手にしているからか、手ごろな価格帯のようだ。しかし帝国通貨の惨状を勘案すると、やや贅沢なようにも感じられる。

 ふと、ラウルは金をどう捻出したのだろうか、と思い至った。まさか強盗はしていないだろうが、しかし財布を盗られた記憶はないし、金を隠し持っているようにも見えない。

 ミュンヒオールは財布と相談しながら、一品物と果実酒を頼み、ラウルに水を向けた。

「簡単よ。ちょっと仕事しただけ」

 ラウルは懐から財布代わりの革袋を取り出した。中身はそう多くない。よく見れば、指先ほどの大きさの金や銀が入っているだけである。なるほど、とミュンヒオールは唸った。貨幣の価値が落ちるのならば、金属として持っていればいい。そうすれば、少なくとも減った信用の分に煩わされなくて済む。

 ちょうど夕食時に差し掛かったからか、食堂に人がどっと押し寄せた。その喧騒を横目に見ながら、ミュンヒオールは新たに出た疑問を口にした。

「どんな仕事をしたんです?」

「諸事の指南だね」

「もっと詳しく」

「武芸、兵法、弁舌、審美眼……」

「審美眼?」

 問い返されたラウルが顎をしゃくった。そこには混雑時にのみ手伝いに来る、この宿兼酒場の主の姪が、店の奥から出てきたところだった。

 一見するだけで美人だと称せるほど、楚々とした美しさを秘めている。顔立ちに派手な部分は無く、それどころか着ている物さえも乳白色の上下でまとめられている。しかしその簡素な出で立ちが、より彼女の可憐さを際立たせるのだ。新緑と同じ色合いをした眼睛を向けられると、男はおろか女まで茫然とする。

「美人だろ?」

 ラウルが歯をむき出しにして笑う。確かに美人だ、とミュンヒオールも同意する。特徴のない顔立ちが穏和な印象を与えるためか、その控えめな立ち振る舞いもさまになっている。野獣の宴会のさなかに、月見草が顔を覗かせるようなものである。働きぶりも悪くなく、すぐに注文した物を持ってきてくれた。

「お待たせいたしました」

 その声色は、ボクストールの平原に吹く清涼なそよ風のようだった。どこか初夏を思わせるようで、これから盛りを迎える生命力が宿っている。その面上に浮かんだ憂いのある表情が、さらに彼女の魅力を引き立てている気がする。少なくとも、食事を取るまで、ミュンヒオールはそんな馬鹿げたことを思考していた。

 けれども出された鶏肉と根菜のグリルを口にした途端、女のことは世界の脇に追いやられた。どうせどこかで忙しくしているのだから、今は目の前のことに集中すべきなのである。

 彼はフォークで肉を刺した。どうやら一枚肉をグリルしたのち、食べやすいようにと一口大に切られた物のようだ。肉の全体に脂がまとわり、皮目とその裏側は、こんがりと狐色に焼きあげられている。驚嘆すべきは持ち上げた途端、肉の断片から滝のように脂が滴り落ちたことである。白みがかった桃色の肉からは湯気が立ち、ローズマリーの香りが食欲をそそる。

 一口で食べてみる。予想外の熱さに瞠目するが、慌てて顎を上下させると、今度はその肉の柔らかさに驚く。両の歯は、さほどの困難もなく肉を断ち切っていた。二度、三度と噛むうちに熱さは和らぎ、代わって鶏の風味と香草の味わいが口腔を支配する。脂と唾液が混ざり合い、舌先が甘みとうま味を十分に堪能したのを確認してから飲みこむ。嚥下する瞬間、鶏の下味につけたのであろう塩と、柑橘の香りが鼻孔を抜ける。それはほんの微量だが、食後の清涼感を与えてくれる。

 次いで、不思議な香りのする酒を一口含んだ。小さなリンゴと香辛料を漬けた果実酒であるらしいが、その風味は気持ち分しか感じられない。

 それよりも引き立つのは、穀物を使った蒸留酒の香りであった。果実を思わせる瑞々しい甘みが香りとなり、味覚を刺激する。液体の感触は丸みを帯び、舌先を優しく包むような柔らかな感覚である。飲み下す瞬間も、そこいらの水や酒とは違い、喉に引っかかる感じがない。水よりも水らしい喉ごしに、彼の食欲は爆発した。

 ミュンヒオールは一息ついて、フォークを握り直した。

 鶏肉の下に敷かれているジャガイモや青菜、もしくは豆や玉ねぎなどにも、鶏の脂がまとわりついている。こちらには胡椒が振りかけられているようで、刺激的な風味で胃袋を刺激してくる。それに比例するように咀嚼の速度も増してゆく。

 あっという間に食事は終わった。もう少し食べられそうだが、そうすると手持ちの金が心配になってくる。後ろ髪を引かれる思いに駆られながら、ミュンヒオールは皿を下げてもらった。

 食後、酒をちびちびと飲みながら、看板娘のファーマを見やる。その所作は機敏でありながら、清楚さを決して忘れたりはしていない。客に供するひと時だけ、朝顔のような可憐な笑みを浮かべるが、一たび背を向けると影を帯びた悲しげな顔に戻る。何か懸念があることは事実だが、それに足を踏み入れるかどうか、ミュンヒオールには決めかねる問題であった。

「あれ、わしになびくんじゃね?」

 それ故、ラウルが突然馬鹿げたことを口走ると、ミュンヒオールの心臓は激しく一度高鳴った。その息苦しさに思わず腹を抑えて、唯一の親族をまじまじと見つめた、

「雀を見て、鷹だと思うようなものですよ」

「わしを見た時だけ満面の笑顔だったんよ」

 露骨に、気のせいですよ、とは言いづらかった。実際ミュンヒオールもそんな気がしていた。自分に向けられた笑みが一番だ、と。どうやらこの馬鹿げた爺に感化されていることが、途端に恥にも等しいように思われた。

 嘆かわしい思いを断ち切るように首を振り、ミュンヒオールは溜息をついた。

「往々にして、自分が一番だと思うものです」

「ミリアンなびいたじゃん」

 口を尖らせる。齢七十の糞爺がふてくされる姿ほど憎らしい光景を、ミュンヒオールは知らなかった。しかしその憎悪はぐっと喉の奥に抑え込み、己の感じた不安を口にした。

「でも、何か事情がある気はするんですよね」

「あの子、美人だからね」

「何か関係あるんですか?」

「美人って大抵問題を抱えているもんよ」

 ともかく二人は、あのファーマという女と話せる機会を窺った。

どうやら他人との間に精神的な壁を置いているらしい。誰かが一歩踏み込むと、それ以上の距離をあとじさるという、どこか奥ゆかしい女のようであった。

 百戦錬磨のラウルは不用意に声をかけるという愚を犯さない。彼はじっとファーマの所作、言動、もしくは視線を観察している。ミュンヒオールも同じことをするが、たぶん唯一の肉親ほど上手くは出来ていないだろう。

 そんなラウルが動き出したのは、客が一段落した頃だった。

 常に満席だった酒場の中に、僅かな空席が出来るようになっていた。当然、給仕としてのファーマの仕事量も落ち着いてくる。そうすると、彼女の憂いはますます強くなる。自然、溜息の数が増える。

 そこを狙って、ラウルが声をかけたのだ。彼はやはり〝不敗の軍神〟である。それは例え相手が女であってもだ。無邪気な笑みを浮かべて近づくと、ファーマも肩に入れていた力を抜き、穏やかな態度で応じた。

「何か御用でしょうか?」

 艶めいた美しい調べに、ミュンヒオールは目を細めた。ラウルの方は言わずもがな、である。

「少し時間はあるかな?」 

 女を口説く時のラウルは、将軍の地位にいた時と同じような毅然とした態度を取る。その凛々しいさまに、ファーマは一段と気を許した。酒場に残った男達の羨望の眼差しが、ラウルとミュンヒオールの背中を射抜いている。もしも質量を持っていたら、今頃二人は血みどろになって、のたうちまわっているに違いない。

 しかしラウルは、そんな負け犬どもの視線には動じない。今の彼の視界は、楚々としたファーマにのみ向けられているのである。しかも煩悩を封印しているのか、いやに紳士的な態度を取ったから、彼女の方は、もうこれ以上ないほど落ち着いていた。

「ええ、もちろんです」

 というわけで、三人は場所を変えた。といっても酒場の裏口から外に出ただけである。他の建物が軒を連ね、幅の狭い頭上に庇がせり出して空間を圧迫している。

 月光も差さぬほど、ひそやかな場所であるようだ。薄暗く、それでいて夜の寒さが直撃する。寒そうに手をすり合わせるファーマに、ミュンヒオールはマントをかけた。

 野犬の遠ぼえが時折聞こえるなかで、ラウルとファーマが視線をからませた。

「まあ、色々歯の浮くような台詞を吐きたいんだけれども、君の顔を見ていると、そういう気も失せてしまった」

 ラウルはまだ、将軍らしい仮面を外してはいない。その厳格な色を帯びた面上を流し見て、ミュンヒオールは疑義を抱いた。この演技がいつまで続くものやら。いざ終わったあとに、ファーマに呆れられなければよいが。

「……そうですか」

「それに、恋人か婚約者か、もしくは配偶者がいるだろ?」

 ファーマが目を見開いた。その所作でさえ、撫子が蕾を開くかのように静かで、そして繊麗であった。ミュンヒオールは、ラウルが将軍の仮面を外したことよりも、彼の語った言葉に目を見張った。

 またこぶ付きに惚れ込んだらしい。

 ファーマが伏し目がちに頷いた。一体この女の愛を勝ち取った男というのは、どういう人間なのだろうか。ミュンヒオールは答えが知りたくて喉を鳴らした。焦燥感が彼の体を包んでいる。この時ばかりはファーマの奥ゆかしさが、少々じれったい。

 このミュンヒオールの疑問を補完するように、ファーマが答えた。

「その、伯爵様の騎士だったんです」

 納得した。これ以上ないほどにだ。ミュンヒオールは、己の無能さを月に吠えたくなった。

 常日頃からラウルを馬鹿にしているが、仮にも彼は帝国を崩壊に導いた英雄だし、ファーマの恋人はその混迷の中、伯爵領を立派に守り抜いた人であるのだ。では自分は? そう問うたとき、何故か腹の底から羞恥心が湧きあがった。

 何も成したことが無い、ただの子供だ。ラウルの庇護下にあって、ただ何やら喚き散らしている無力な半人前でしかない。それに気付いた時、どうやらファーマとは一生釣り合わないかもしれないと思った。

 ひとしきり赤面したのち、今度は彼女を泣かせる馬鹿げた男に怒りの矛先が向いた。勝手なことだとは思うが、そうしなければ正常な精神を保てそうにないほど、屈辱の炎が心を灼いていた。

「ほう?」

「元は伯爵様の下で働いていたのですが、近頃は悪しき道に染まって……」

 ラウルの眼睛が光を帯びた。それ流星光底となり、宵闇を切り裂く。どうやらラウルの心の炉にも、憤怒という名の燃料が投下されたらしい。たちまち四肢に力を漲らせ、今度こそ本物の将軍らしく勇ましい顔をした。

「それは、本意かね、不本意かね?」

「分かりません。ただ、大義はある、と」

 ミュンヒオールも激情を露わにした。騎士同士の対立はどうでも良かったが、しかし、このファーマを置いてきぼりにしてまで遂行するものではないだろう。 どうやらラウルも同じだったらしく、優しくファーマの肩に手を添え、それからそっと耳元で囁いた。

「よかろう」

 ファーマが清楚な顔をラウルに向けた。そこにある偉大な将軍の面差しに、彼女はそっと心をしな垂れさせた。そうでもしないと、彼女の心はばらばらに切り裂かれ、もはや正常に戻れなくなってしまうからだ。

「わしらがお前さんの恋人の元に赴いてやる。お前さんのことを伝えて、戻ってくるなら大団円。戻ってこない場合は……その時はどうする?」

 ラウルの低くうなり上がる声が、欄干の元に響き渡った。決して大声を上げているわけではないのだが、大地の底から揺さぶられるような、恐ろしいまでの力強さを持っている。

 ファーマは逡巡した。しかし、次に顔を上げた時には決然としている。

「立場に縛られているのなら、私も共に逃げます、と告げてください。しかし、もしも彼が本心からこの行為に納得していた場合は、どうぞ将軍の英断にお任せ致します」

 ラウルはゆっくりと頷いた。ファーマの体を離し、そっと離れる。彼女はミュンヒオールにマントを返し、躊躇いがちに酒場の中に消えていった。残された二人は寒空の下、互いに意思を確認し合った。

「会ったら問答無用で一発、ですかね?」

「そうね。わし、たぶん他所事で忙しくなるから、ミュンフに任せる」

 二人は反逆の騎士、ミュールのアジトに足を向けた。

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