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単身のミュンヒオールは、とある街道の上にいた。デベ村を出て、すでに二日が経っているが、その終わりが見えてくる気配はない。
しかし、彼はすでにボクストール伯爵領に足を踏み入れている。旧、という枕詞を付けるのが適当なのかもしれないが、しかし現実的な観点からいうと、ボクストール伯爵はまだその地位を維持している。その爵位は帝国の崩壊と共に消え去ったはずなのに、何故だか今でも伯爵と称され、一定の尊敬と忠誠とを民衆から捧げられている。であるが故に、そこはまだボクストール伯爵領なのであった。
けれども現実的な側面は、往々にして多面的な要素を持つ。このボクストールを例に挙げると、街道沿いには賊がはびこっている。伯爵家の紋章を付けた元騎士達が、穏便な場合は通行料を要求し、過激な場合は強盗を企てている。これら全てが伯爵の意思によるものでないことは、騎士同士が争っている点から明白である。
現在、ミュンヒオールの真隣りで、五人の男達が争っている。強盗を企てていた元騎士二人が剣を振り上げ、それを止めようとした正規の騎士三人が盾を構える。
火花が散る、激しい戦いだ。近くにいた商人達が心慌意乱の様子で逃げていく。それを悠然と見送ったミュンヒオールは、騎士達の戦いに見入った。彼らは互いを憎しみ合うように剣を取り、盾を構えている。元は一つの勢力であったろうに、一体何があったのか、と思ったのだ。
不意に、身を乗り出そうとした彼の体が、戦いとは真逆の方向に引きずりこまれた。必死にもがいたが、けれども羽交い絞めにする人間の膂力が勝り、すぐに路傍の木陰に連れ込まれた。
「ミュンフ、静かに」
暴れるミュンヒオールに声が掛けられる。彼ははっとして動きを止めた。どうやら、後ろにはラウルがいるらしい。力を抜くと、すぐに束縛を解いてくれた。
「……おじいさん」
「あんな連中に巻き込まれたら、ひとたまりもないんよ」
「でも、あの連中、元は伯爵の騎士だったんでしょう?」
ミュンヒオールの問いに、ラウルは心地よい笑みを浮かべて頷いた。どうやら、この老将軍は数日早く領内に入って、色々と嗅ぎまわっていたらしい。その調査結果を聞いたミュンヒオールは、冷厳な視線を唯一の親族に叩きつけた。
「まあ、要するに伯爵と元騎士が対立しているみたいだね」
「その調査の犠牲で、僕は二日も一人で歩き回ったんですか?」
「うん、まあ。でも、ほれ、こうして会えただろ?」
陽気なラウルの顔に、ミュンヒオールは再び視線の刃を振りかざした。老齢の親族は陽気に口元を歪めるばかりである。
そのうちに、通りの反対側で行なわれていた戦闘が終結したらしい。強盗をしようとしていた二人組の元騎士が、したたかに殴りつけられて倒れ伏した。
遠巻きにしていた野次馬が歓声を上げるものの、それはすぐに悲鳴に変わった。ミュンヒオールとラウルは、ますます息をひそめて木陰に隠れた。
どうやら強盗をしていた方に援軍が来たらしい。騎乗の元騎士が二人、街道の真ん中を駆け抜けた。彼らが騎士でないと分かるのは、鎧に描かれたボクストール伯の紋章を、黒く塗りつぶしているからであった。
一人は手に槍を持ち、もう一人は弓を構えている。盾を持っていた正規の騎士達が身をすくませると、たちまち形勢は逆転した。
ラウルが険しい顔をする。その意味はミュンヒオールにも何となく分かる。正規の騎士達は、あまりに武具が貧相なのだ。盾こそ鋼鉄製の物を持っているが、手にしているのは木製の棍棒で、着こんでいるのは薄手の皮鎧だ。
対して強盗をしていた元騎士達――あとから駆けつけた方も――は、小札を重ねた鉄の鎧に身を包み、盾こそ持っていないものの鉄剣を携えている。しかも新手は槍と弓、果ては馬まで持っている。どことなくちぐはぐな印象を与えるが、悪さをしている方が質の良い武具を身につけている。
「おじいさん、助けないんですか?」
正規の騎士達の方が明らかに分が悪い。何とか勇気を振り絞って、盾を構えて棍棒を掲げているものの、敵が四人に増え、しかも馬や槍や弓まで突きつけられて、対処できるはずもない。後ろでも意識を回復させた元騎士の二人組が、虎視眈々と好機を窺っている。
「まあ、連中の事情に踏み込む気はないのう」
「人死にが出ますよ?」
「致し方あるまい。戦争で死ななかったのに、こういう諍いで亡くなるのは、ちと寂しいがのう」
飛び出そうとするミュンヒオールの首根っこを捕らえつつ、ラウルが感慨深そうに嘆息する。その様子に意気盛んな少年は腹を立てたが、けれども老将軍の膂力の前に、為す術は無い。
盾を持った三人の騎士が敵に取り囲まれる。
だが、目の前で惨状が繰り広げられることは無かった。元騎士の側に援軍が来たのと同様に、盾を持った騎士達の方にも味方がやってきたからだ。皆、背中に大きな盾を背負っている。やはり馬には乗っておらず、ボクストール領の首都であるトーラの方角から走って来た。
その決死の様子にミュンヒオールは眉を吊り上げた。彼らもまた、盾以外にまともな武器を持ち合わせてはいない。数は五人ほどいるが、それでも劣勢であることに変わりはないだろう。
しかしながら、元騎士達は、それぞれ悪態をつきながら逃げていった。本気で殺し合えば、たぶん彼らの方が勝ち残ったであろうに、何故だか素直に退いてしまった。ミュンヒオールは、幾人もの男を飲み込んだ木立の影に怪訝な視線をぶつけた。
「不自然ですね」
「うん? まあ、確かに。何人か漏らしたかもね」
そんな軽口には応じず、ミュンヒオールは首をかしげた。
「だって元騎士の連中は、いい武器を持っていました。いくら盾を持っているからって、守るだけじゃあ敵は殺せませんよ」
隣からは声がしない。振りかえってみると、ラウルがにんまりとした笑みを顔に張り付けている。どうやらミュンヒオールは、的外れなことを言ってしまったらしい。
「おじいさん、問題ってのは答えがあるから考えるものなんですよ」
「一つ言うことがあるとすれば、この戦いは局地戦ってことよ」
「……別のところでも、同じ争いが起きていると?」
「そう考えるのが自然だろ? 盾持ちは時間稼ぎが目的。あとから攻撃役が来て、一網打尽にする」
ミュンヒオールは鼻を鳴らした。その事情を考慮に入れていた、といえば嘘である。彼は目の前のことに精一杯で、どうにも大局的な見方が出来ずにいるようだ。その恥辱に耳朶まで赤くしていると、ラウルが力強く頭を撫でてきた。
「まあ、よくあることよ。より正確な判断を下すには、情報を集めんとね」
「じゃあ、その情報を知っているおじいさんは、この騒動について、どう思っているんです?」
二人は街道に戻った。すでにそこには静穏が広がっている。先ほどまでの殺伐とした空気は、昼下がりの陽光の前に霧消していた。
肩を並べながら、しばらく歩く。街道の両脇は背の高い木々に覆われていて、薄く影が差している。それは太陽が真上からやや西に落ちるに従って、濃く、長くなるようだった。
「まあ、そんな難しい問題じゃあ無いんだがね」
ラウルは銀灰の髪を掻きながら、もぐもぐとした声で話し始めた。あまり声高に話すことでもないのだろう。ミュンヒオールは身を寄せた。周囲にはもう、ひと気が戻ってきている。
「伯爵の力量不足でも、それから離反した元騎士が悪いわけでもないんだろうが……」
「もったいぶらずに言ってください」
「うん。要するに考えの違いなんだろうね」
「考え?」
「ボクストール伯は帝国崩壊後も、貴族たらんと身を律するわけだ。これに対して離反した元騎士、ミュールという名なんだが、彼はもう少し建設的なことを思ったわけだね」
「伯爵閣下と対等になろうとしたとか?」
全く当てずっぽうの気分でいたのだが、どうやら一部分は当たってしまったらしい。ラウルが鷹揚に頷き、言葉を継いだ。
「まあ、そこまでは馬鹿じゃないけども、これから困窮が予想される騎士のために、地位の向上を目論んだわけよ」
「増給を伯爵に希望したってことですか?」
「うん、それがまさしく正解。伯爵がきっぱりと拒んだら、ミュールは部下を連れて伯爵と対立しちまったってわけ」
何とも馬鹿げた話だ、とミュンヒオールは思う。もっとやりようがあっただろうに、とも。けれどもラウルは、しわが寄ったミュンヒオールの額を撫で、さらに言葉を重ねた。
「金の価値が落ちているからね」
また、ミュンヒオールの眉間のしわが深まった。彼は財布から帝国通貨を一枚取り出し、天にかざしてみる。西から差す陽を浴びて、金色に輝いている。これは金属で――しかも金と銀と真鍮と銅とを混ぜて――造られているはずだ。これが価値を失うと言うことは、すなわち金属自体の値が下がるということであろう。少なくとも彼は、そう理解している。だが、ラウルは、くつくつと笑い声を上げた。
「世の中、そう単純に出来とらんのよ」
ふと、視界が開けた。どうやら森林地帯を抜けたようだ。いつの間にやら傾斜を登っていたらしく、目の前に平原が広がった時、その角度は緩やかな下りの線を描いていた。
青々と茂る野原を見ながら、ミュンヒオールは溜息をついた。西に傾いた日が赤々と燃えて新緑を染める。それは夕方に近づくに従って金色を帯び、それから茜色になり、夜の色に染まり上がるのだろう。
けれどもまだ、黄昏時の僅かな色の移り変わりが、その美しい大地の上を染めただけである。
心地よい風が流れた。ラウルも目を細めていたが、やがてはゆっくりと歩きはじめる。ミュンヒオールも遅れて、彼の背中を追った。
「さっきの話の続きだけどね、金は誰かの信用を得なければ金属の塊と同じなんよ」
「でも、元は金属でしょう?」
「そう。その金属の値段に、通貨自体を造った誰かの信用の分だけ価値が乗るっちゅうわけなんよ」
つまり、その信用の分だけ値が下がり、帝国通貨は刻一刻と金属の塊に近づきつつあるということだ。これはミュンヒオールにとって、由々しき事態であった。彼の手持ちは共和国通貨と帝国通貨だけなのだから。
「まあ、気にするだけ無駄だね。わしら、どうしようもないもん」
鼻歌を歌い、上機嫌なラウルの気分と反比例して、ミュンヒオールの気持ちは沈んでいった。




