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怒りに身を焦がしたまま部屋へと戻る。あとからミュンヒオールも追いかけてきた。彼もまた憮然とした表情だ。飯がまずいということもあるが、どうやら彼の近くでは、聞くに堪えない嘲弄の嵐が吹き荒れていたらしい。
「連中、おじいさんをぶっ殺してやるって言ってましたよ?」
「だろうね。わし、帝国からしてみたら、仇敵以外の何でもないからね」
「何でこんな場所に来たんですか?」
「簡単よ。骨のある帝国軍人は、こんな場所に居座ったりしない」
ミュンヒオールは肩をすくめた。もはやこれ以上、言葉を重ねる気もないらしい。彼らは自室に戻ると、眠るための準備をした。
水桶から水を汲み、体を磨く。寝間着に着替え、さて眠ろうか、という段階で扉を叩く音が微かに響いた。不機嫌そうに眉をひそめたミュンヒオールが応対する。
ラウルはベッドに腰掛け、鉄剣の様子を見ておいた。一点の曇りもない、まだ血を吸っていない代物である。それが今宵煌めくことになるとは思えぬが、けれども用意だけは怠らない。入口からミュンヒオールが声をかけてきた。
「おじいさんに客ですよ」
扉の向こうからミリアンが顔を覗かせた。その憂いを帯びた様子を見て、ラウルは笑みを深める。一種の雑念がこもった表情に、ミュンヒオールが精一杯の悪態をついた。
「鼻の下、伸びていますよ」
「伸びなきゃおかしいだろ? 見てみい。あの美人、今にも脱ぎそうな顔だわ」
「……おじいさんの寝首を掻く気じゃありませんか?」
「馬鹿言え。美人はそんなことしない」
眠気に勝てず、ミュンヒオールは欠伸をした。ラウルがくぐもった笑い声を上げ、子供はもう寝るがいい、と囁いた。
「この糞爺」
思わず出た言葉にも、ラウルは動じたりしなかった。
「しっかり毛布もかぶるんよ。ぽんぽん出して寝て、風邪引いても知らんからな」
冷厳な視線を背に受けながら、ラウルは部屋から出て行った。
扉が閉められると、本当に夜の静謐が部屋中に満ち、体の奥底から来る眠気が活動的な気力を鎌で薙いだ。
ミュンヒオールは、もう一つ大欠伸をかまして布団に潜り込む。窓の外でちらつく不穏な明かりも全く気にはならなかった。
遠くから聞こえる男達の罵声や怒号を背景音に、彼はゆっくりと眠気に体を委ねた。そうすれば、先ほどまでの荒々しい眠気の波状攻撃が見る間に優しげな子守唄となり、彼を眠りの海へといざなってくれる……。
翌日、衣擦れの音を聞きながら、ミュンヒオールはベッドから身を起こした。閉じられたカーテンの向こう側から一筋の光が差し込んでいる。その思わぬ明るさに文句をつけ、彼はゆるゆると目を開けた。
隣ではラウルが半裸で眠りこけている。ぽんぽんを出しているのはどっちだ、と内心で舌打ちをした直後、扉が静かに開けられる音がした。
ミュンヒオールが身を強張らせる。影が素早く部屋から出て行った。そのすぐあとに遠ざかる足音が響く。微かに見えた後ろ姿に、どこか見覚えがあった。
「昼頃までいようと思うんよ」
朝飯を食いながら、ラウルが言った。ミュンヒオールは口に運びかけたスプーンの動きを止め、そっと皿に戻す。それからまじまじと、この唯一の親族の顔を見やった。
静穏な朝の食堂で、二人は向かい合って座っていた。商人達の多くはすでに出発したあとのようで、宿全体を見渡しても人の気配というものが薄らいでいた。昨晩あれだけ多くいた元帝国軍人でさえも、今は姿を見ない。
「さっさと共和国から離れた方がいいですよ」
「まあ、そうなんだけども。どうも追っ手が来ているみたいなんよ」
今度こそ、ミュンヒオールはスプーンから手を離した。両手を机の上に置いて、指を組み、それから深々と溜息をついた。
「何ですって?」
「わしの部下達が、追ってきているみたいなんよ。ドゥーチっていう若者なんよ」
「追ってきているって……。今すぐ出発した方がいいんじゃないですか?」
「いや、それは嫌だね」
ラウルがきっぱりと首を振った。言いながら、彼は干からびたパンをスープに浸している。いやに土臭くて、それでいて塩気ばかりが際立つ液体を嬉々として飲んでいる。それは軍人生活の賜物なのか、それとも元から味覚が狂っているのかは分からない。
ともかく信じられない光景を見ながら、ミュンヒオールは気を長く持った。
「何故です?」
「せっかく旅するんだから、もっとのんびり行きたい」
なるほど、とミュンヒオールは納得した。この辺の豪胆さはラウルとよく似ているのだが、当の本人はきっぱりと拒絶するであろう。ラウルと似ているなど、侮蔑に他ならないと彼自身が考えているからだ。
「追っ手は、この村を通り過ぎると見ていいんですね?」
「いや、そうじゃないだろう。たぶん、ドゥーチはこの宿を見に来る。昨日暴れてやったからね」
ミュンヒオールは昨晩の食堂での一件を思い出していた。なるほど、消えた元帝国軍人達は、列をなして共和国に助けを求めに行ったのだ。それでベダン・スーから、馬に乗ったドゥーチ以下数名の精鋭部隊が派遣された、というのが真実であろう。
まったく厄介事だ。もっと遠方で騒ぎが起きたなら、何の支障もなくラウルの念願は果たされていただろう。だが、ことはベダン・スーの近隣で起きた。ラウルの力を欲す共和国側の人間からすれば渡りに船である。
二人はすぐさま自室に戻って、旅支度を済ませた。といっても、ほとんど荷物もなく、昨日洗った服と寝間着を畳むだけで済んだ。ミュンヒオール一人が荷を持つわけであるから、それほど多くの物は持っていけない。一抱えの背負い鞄を膝の上に置き、彼はじっと時が経つのを待った。
太陽が真上のやや近くまで登ってきた頃だろうか。窓から差し込む光が少なくなり、急に影が短くなった。
室内が薄暗くなる。天候が変わったのか、とミュンヒオールが顔を上げた。外は澄みわたる晴天が広がっている。雲一つなく、鳥が穏やかな白光の中で心地よさそうに滑空していた。
その時、ほんの些細な物音が宿の外から聞こえてきた。いくつかの馬蹄と、何人かの男達の声だ。それに半瞬ほど遅れて、ミリアンが部屋の中に入ってきた。彼女は慌てているようで、汗みずくになりながら何やら喚き立てている。それをラウルが半ば抱きしめるように制し、ミュンヒオールに目配せした。彼は咄嗟にベッドの下に隠れた。もちろん荷物を持って。ラウルはミリアンに耳打ちをして、素早く部屋から出る。すぐに忙しない足音が聞こえなくなった。
残されたミリアンはただ一人、何度か深呼吸を繰り返した。ベッドの下からは、彼女の足元しか見えない。それから判断する限り、彼女の方に動揺はない。ごく淡々と、ラウルから告げられた言葉を呟きながら部屋の清掃業務に没入した。
「ドゥーチ様らが出て行ったあと、一時間を置いて出発するように、と」
「……はい」
遠くからけたたましい足音が聞こえてくる。次いで若い男の苛立った声も響き渡る。床がびりびりと震え、ミュンヒオールは唾を飲み込んだ。
「ボクストール領にて待つ、と」
その直後、荒っぽく扉が開く音がして、何人かの人間が飛びこんできた。ベッドの下に隠れていたミュンヒオールは、その足にじっと目を凝らしながら息をひそめる。煤けて古ぼけて見えるブーツが、まるで舞いを踊るかの如く、軽やかに動きまわった。
「おい、女将」
どすの利いた声を上げたのがドゥーチであった。ラウルの直属部隊の長で、腕は折り紙つきらしい。ダルコン平原の戦いにおいては、最終的に皇帝を討ちとるという殊勲を勝ち取った。ミュンヒオールはそれほど面識もなかったが、低くがっしりとした鼻筋と、やや丸みを帯びた頑強な顎先が特徴として残っている。
長年従軍したラウルが傷一つない綺麗な体をしているのに対して、ドゥーチの方は武辺者らしく傷だらけであった。その傷の記憶は、一つに至るまで脳裏に刻み込まれている、というのがまことしやかな噂として流れている。勤勉実直で、そしてやや武骨なきらいがある、軍人としては最も好ましい類の人間であった。
その彼が、ミリアンに詰め寄っていた。やや取り乱しているようだ。まあ、それは理解できる。一夜にして主を失ったのだから、精神的な瓦解は頷ける。
「ここに老人と若者が来なかったか?」
「……、ラウル・ヒルコン将軍はいらしていましたが」
「若者は?」
「さあ、記憶にございません」
ミリアンは実に上手い女優でもあるらしい。彼女は冷淡に言葉を返した。たぶん表情は声色よりも厳格だったに違いない。周囲にいた男達が困惑するように喚いた。それを制するように、ドゥーチが問いを重ねた。
「じゃあ、老人はどこに行った?」
「申し訳ありませんが、客人の深い事情に踏み込まないのが、当宿の売りでございますので」
ドゥーチは苛立たしげに舌打ちをし、急いで部屋から出て行った。まるで嵐のあとのようだ。彼らがいなくなり、馬のひひらく声が遠ざかってから、ミュンヒオールは外に這い出た。そこにはまだミリアンが立ち尽くしている。想像よりも青ざめてはいるが、けれども仕事をやりきった、どこか美しい顔をしている。
この時初めて、ミュンヒオールの胸も高鳴った。ラウルの審美眼は、どうやら正確であるらしい。この女性は、人が思うよりも義理堅く、それでいて誰もがうらやむほど清廉な心を持っている。そして己が何者であるのかを明確に理解している。これはミュンヒオールにとって、最も完成した人間の一人のように映った。
まだ若いミュンヒオールにしてみれば、己こそ最も不明な人間なのである。それを知ることが大人への一歩となるのである。自分の領分が分かっていなければ、自分が人生をかけて為すことの意味さえも分からないだろう。
悩ましげな顔をしていたミュンヒオールが顔を上げると、すぐ目の前にミリアンの優しげな相貌があった。それが直視できずに視線を外した。
たゆたう沈黙にも耐えきれず、予定よりも早く出ていくことにする。
ミュンヒオールは懐から財布を出した。この宿を出発するにあたって、一つだけ気がかりがあったのだ。どれほどの金が必要かは分からないが、ともかく虎の子の帝国通貨を取り出し、ミリアンの手に握らせた。
「お代は――」
「もちろん。記憶が無いわけじゃあ、ありません。ただ、その……」
どう伝えるべきか言い澱んだ。僅かばかりの思考を経ても妙案が浮かばず、結局は正直に告げることにした。
「食事はともかくとして、酒はもう少し水との比率を考えた方がいい。その足しにしてください」
ミリアンは赤面した。その顔をじっと見つめながら、どうやら己はラウルと似た感性を持っているらしい、とミュンヒオールは自覚した。それの善し悪しは不明だが、けれども思ったよりは嫌悪感が無い。
「でも、旅をなさるのでしょう? 先立つものは……」
「お気になさらず。どうせ、あの糞爺が冥土に先立つ方が、ずっと早いんですから」
ミュンヒオールがそっと呟いた。村をぶらついていれば時間も潰れるだろう。少なくとも、ミリアンにこれ以上の心労を強いる気はなかった。
そっとミリアンを抱いた。幼き日に母に抱かれた時のような、肉感的で柔らかな感触が返ってくる。相手の方も応じてくれた。亡き夫との操を守れる最低限の範囲まで、踏み込ませてくれる。体が、肌が。心の淵が、徐々に研ぎ澄まされていく。
しかし一線だけは、お互いに越える気もない。
「また、いつでもいらしてください」
宿の裏口で、ミリアンが深々と頭を下げた。ミュンヒオールは軽く手を上げただけで、それには答えなかった。
もしも、また来る時は、ドゥーチらに捕まったあとだろう。
それだけは避けねばならない。彼らの焦燥を目の当たりにして、そう思った。 ミュンヒオールは明確に共和国の狙いを捉えたのであった。
彼らはラウルとミュンヒオールを象徴として祭り上げる気なのだ。そうしておけば、多少の政治的失敗も市民は笑って許してくれるだろうから。英雄に罵声を浴びせかけられるほど、気の狂った人はそう多くない。
ふと視線を転じると、近くの茂みに二十人ばかりの男が寝ころがっている。
どうやら皆、元帝国軍人であるらしい。昨晩ミリアンに突っかかっていた男がいるのを見つけて、ミュンヒオールは無言のうちに、その男の脇腹に蹴りをくれた。
それから、大通りの方に出てみる。といっても小さな村のことであるから、馬車がすれ違えないほど狭い道である。閑散としていて、働く力のある者は森林に出かけたあとだった。けれども、その静けさも、戦争が終わったからこそ味わえるものだ。
この突き抜ける晴天、もしくは村に響く木こり仕事の音を感じながら、世界を見ることもなく朽ちていくのは、この上ないほどの不幸せだとミュンヒオールは思った。




