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その日は結局、遠くまで行けず仕舞いだった。逃亡者の観点からいえば、より遠くに逃げることを最大級の目的に据えるべきであろうが、ラウルは決して旅路を急がなかった。
どのような困難にも打ち勝てるだろう、という確信があったことは否めない。ラウルは強い戦士であった。けれども、それだけでないこともまた、明々白々の事実であった。
「この宿の女将が、美人って噂だったんよ」
ラウルは呑気に笑った。そのどこか邪気を孕んだ笑みは、ダルコン平原で見たそれとは正反対の位置にある悪辣なもののように思える。ともかくミュンヒオールは皮肉っぽく、曖昧に口角を上げた。
「だとしても、おじいさんに振り向いたりはしませんよ」
「いやあ? わし、結構いけてると思うんよ?」
「……、いくらなんでも、金も持ってない爺がもてるわけがないじゃありませんか。財産といえば腰に帯びた鉄剣と、僅かな着替えくらいですよ? それに明日には介護が必要な身になるかもしれないし」
ミュンヒオールの悪態に、ラウルはますます朗らかに破顔するのであった。
「そうかのう? 大体の女はわしにメロメロよ」
こんなことを言っているが、ラウルに結婚歴はない。ミュンヒオールとは、伯父の孫の妻の妹の子供という関係でしかない。もはやいささかも血縁関係になく、言うなれば無関係である。だが、ミュンヒオールが孤独の身となる前から、ラウルは懇意にしてくれた。
ともかく二人はダルコン平原を抜け、旧帝国領に入った。とはいえ、いまだ平原の中途である。一層の混迷と腐乱の満ちた場所が続く。ミュンヒオールは、カラスについばまれた亡骸を見て、目をすがめた。もはや顔立ちも確認出来ぬが、つい何日か前までは生きていて、誰かと共に暮らしていたのかと思うと、どうにもやるせない気持ちが湧きあがってくる。彼は初めて戦場というものを見たから、ラウルほど割りきった考えが出来ずにいたのだ。
そのラウルは、鼻歌交じりで異臭の湧きたつ戦場跡地を歩いていた。彼の方は死体にも、もしくはこの辺りに立ちこめる臭いにも慣れていたから、怖いのは感染症くらいなものであった。それでさえ、屈強な体の前には無力なのだから、もはや理不尽としか言いようがない。
結局、ダルコン平原を少し越えた先、旧帝国領のデベ村というところで初日を終えた。そこは小さな村であった。周囲を杉に覆われた林業を主とした村で、人口はざっと見て百人いるかという程度である。
戦後すぐのことであるからか、どことなく活気が少ないようである。帝国軍が解体する際、物資を幾ばくか分けてもらったそうだが、それで村人が幸せに暮らせるわけではない。むしろ傷病兵ばかりが残されて、村は激しく疲弊しているように思えた。
彼らが宿の前に立った時、辺りはすでに夕闇に包まれていた。東の空から夜の帳がそっと手を差し伸べ、欄干がぼんやりとにじんでくる。
一日の終わりは大抵、物悲しいものであるが、この日は格別だった。日中に見た狂乱の光景が思い起こされて、腹の底がむかむかとする。
そのためか、宿の入口から差す柔らかな明かりを目の当たりにして、ミュンヒオールの体を疲労の鞭がからめ取った。
がっくりと肩を落とし、揚々としたラウルの後ろに続いた。
宿の中は心地よい空気に包まれていた。燭台から差し込む柔らかな光が、室内を過不足なく照らしている。その上、どうやら客も多いようで、入口の右手にあるという食堂からは随分と多くの人間の声が聞こえてくる。それに付随して、食器の重なり合う音、酒瓶がぶつかる音、もしくは人の怒号も響いた。
荒っぽい場所であるらしい。そう思いつつ、勘定台の奥から現れた妙齢の女性に、ミュンヒオールは目をすがめた。
「二人?」
どうやら、この女性が女将であるらしい。まだ十代のミュンヒオールには、倍の年齢の女性が魅力的には感じられない。けれどもラウルにとっては、極上の人であったらしい。彼は信じられないほど相好を崩し、ミュンヒオールが慄然とするほどの猫撫で声を上げた。
女将は、ラウルの素性に気付いて、やや顔を青ざめさせている。帝国民にとって、ラウル・ヒルコンは大量殺戮者と同義であるから、受け入れられないのかもしれない、とミュンヒオールは思った。
そんな彼の予想に反して、女将――ミリアンという名であるらしい――は蒼白の中にも微かな笑みを浮かべて、二人を迎えてくれた。
「食事は別料金なのですが……」
「構わんよ。わし、金持ってるから」
余裕ぶっているが、財布の紐を握っているミュンヒオールからすれば潤沢とはいえない。そもそもラウルが持って来た金の大半は共和国通貨であり、このデベ村で流通する金の多くは帝国通貨なのである。多少レートが不利なようで、予想以上の出費を強いられてしまった。
宿の設備は宿泊するための部屋と、それ以外とに大別され、宿泊施設は建物の左側に集中していた。
女将から鍵を渡されて、二人は用意された部屋に向かった。中に入ると、すぐさま着替えを済ませる。その日に着た分は常備されている桶で洗っておく。水気を絞った衣服を窓際に吊るしたところで、ミュンヒオールは悪態をついた。ラウルはベッドに腰掛け、体をほぐしている。
「初日から大出費ですよ」
「女の前で情けないことが言えるか」
「そんなこと言っても、無い袖は振れませんよ」
「最悪、その辺におる帝国兵を襲えば良いだろう」
「追剥ですよ?」
「相手が清廉潔白でなければ、多少は赦されるわい」
怒っていると腹が減る。すでに窓の外は夜の闇で占められている。夕食をとるにはちょうど良い時間で、村人達までもがミリアンの宿に足を運んでいるようだった。
二人は部屋を出て、宿の食堂へと向かった。
その道中で女将のミリアンと鉢合わせた。どうやら宿は繁盛しているらしく、額に汗しながら客をさばいていた。夜になれば森に出かけていた男達が戻るため、デベ村にも僅かな活気が宿る。
村にいる木こりの大半が、ダルコン平原で敗れ、故郷にも帰れない帝国兵であることをミリアンの口から聞かされた。そのさりげない言動にラウルは感服している。ミュンヒオールの方は肝を冷やした。帝国民から見ればラウルは仇である。襲われるのは勘弁願いたいものである。
その心配をよそに、ラウルは心地よく笑い、ミリアンの尻に手を伸ばした。
「お客さん、うちはそういう店じゃあ……」
「何だ? 口説いたらいかんのか?」
「ええ、その、もう亡くなりましたが……。夫がいたもので」
「おお……そうか。病気かなんかか?」
三人は宿の入口を通り過ぎ、建物の右側へと差しかかる。その間、微妙な沈黙が垂れこめた。ミュンヒオールにはその意味が分かったが、ラウルの方は察しが悪く、女将の所作に見惚れている。であるが故に物分かりの良い少年は、この唯一の親族の耳元に口を寄せた。
「戦争で亡くなったんじゃないですか?」
「……、そうかのう?」
「そうでしょう? だって、四十年も殺し合っていたんですから」
ミュンヒオールの言葉に、ラウルは納得していなかった。彼は女将の背中を追い、それから廊下に取り付けられた窓に目を向ける。辺りを夜の帳が包み込んでいる。
その真っ暗闇の中を切り裂くように、馬のひひらく声が響き渡った。幾人かの男達の声が静穏な村の空気をつんざいた。
目の前を歩くミリアンは、帯剣したラウルよりも、こちらの方に畏怖を抱いているようである。ミュンヒオールは気付いていない。妙なところで察しが悪い、とラウルは内心で微笑んだ。
三人は活気ある――さながら獣の晩餐会のような――食堂へと足を踏み入れた。
外観からは想像も出来ないほど、広々とした空間が続いていた。八人掛けのテーブルが十ほど並び、それらが隙間なく空間を埋めている。十人ほどの女給が、狭々とした中を縫うようにして、酒瓶や湯気の立つ料理を運んでいた。食堂の奥には三、四人の料理人が働く厨房があり、そこで料理を買うようであった。
ミリアンに促され、二人も食堂に席を求めた。込み合っているために並んで座ることが出来ず、仕方なくそれぞれで食事を取ることにした。
ミュンヒオールは一抹の不安を覚えながらラウルに金を渡し、彼自身も軽くなった財布の中から、いくつかの通貨を出した。ベダン・スーであれば腹いっぱいになるまで飯が食えるだろうが、帝国領のデベ村ではパンと一品物の料理を頼むだけで精一杯であった。酒まで頼んでしまえば、貧相な食事が待っているだけだ。
「なあ、ミュンフ?」
物欲しそうにラウルがまなじりを下げる。けれどもミュンヒオールは首を振り、彼の要求を却下した。
「この宿がいいと言ったのは、おじいさんです」
「それにしたって……」
「共和国通貨は値が安いんですよ。もっと大きな街に行って、両替してもらわないと不便なんです」
ラウルは口を尖らせたが、しかしながら無から有は生じないものである。出すものはない。ミュンヒオールは無情にも財布を懐にしまい、厨房の方へと向かってしまった。その後ろ姿を未練がましくラウルは追いかける。隣に立つミリアンは艶然としている。
「仲がよろしいんですね」
彼女も、まだあどけなさが残るミュンヒオールを見ていた。どうやら不満が多いあの少年は、女が二度は振り返るような美貌の持ち主であるらしい。ラウルも薄々は気付いていたが、見ていないふりをしていたのだ。だが、改めて思い知らされると、自慢の肉体を縮こめて、降参の意を示すしかない。
「まあ、あっちはそう思ってないだろうけどね」
「お孫さんですか?」
「いや、わしの伯父の妻の何とやらだ。血は繋がっておらん」
「へえ……」
ミリアンが目を細める。その横顔を見据えて、どうして己の好く女には先約がいるのだろうか、とラウルは落胆した。思い出してみれば、初恋の人からして伴侶がいた。次いで好きになった人には婚約者がいた。
無数の女に恋をしてきたが、どうやら今なお、そういう運命から逃れられてはいないらしい。そうなると、この女は己にはなびくまい。
ラウルは途端にミリアンから興味を失った。手に出来ぬ果実は見ないに限る。そうであるならば、彼の夫を殺めたのかどうか、ということが知りたくなった。
「お前さん、夫はいつ亡くしたんだ?」
その不躾な質問にミリアンは絶句した。力ない視線をラウルに向け、それから悲しげに顔をそむけた。その様子を見れば、どうやら己が殺したわけではない、とすぐに知れた。
内心でほっとしていると、やがて遠くから横柄な男達の声が聞こえてくる。ミリアンは肩を強張らせながら、その方向を仰ぎ見た。
食堂に入ってきたのは、いかにも傲慢な帝国軍人である。いや〝元〟の肩書がつくのだろうが、どうやらいまだに軍服を着て、帝国式の武器を携えている。周囲の人間の様子を見れば、彼らが気の良い連中でないことくらい明白で、ラウルは思わず眉を吊り上げた。
「おう、席空けてくれや」
ミリアンに慣れ慣れしく声をかけ、ラウルの脇を抜けていく。通り抜け際に、鉄と汗の臭いに混じって血の臭いもした。ラウルがそっとミリアンを窺うと、その美しい顔が、先ほどよりも悄然の色を帯びているように見える。どうにも女には弱い。ラウルはそっと肩を抱き、ミリアンの耳元で囁いた。
「何ぞ、手伝えることはないか?」
けれども彼女は素早くラウルの腕から逃れ、一歩離れたところで激しくかぶりを振った。やはり運が悪い。ラウルはそれをまざまざと見せつけられて、憂鬱さを抱えた。どこのどいつかは知らないが、女を置いて先に逝く男など、ろくでもない。
ただ、いつまでもくよくよとしているラウルではない。彼も夕食を買うことにした。少ない金をやりくりして、酒まで用意してもらう。どれも帝国軍が解体する際に分配したものであるらしく、店構えの割には粗末な品が多かった。
水で薄めた麦酒と、干からびたパン、それに見たこともない種類の根菜と鶏肉の炒め物を注文した。夕飯には少ないが致し方あるまい。ミュンヒオールの言う通り、金はいくら節約しても足らぬものであるのだから。そして、興味を失った女に見栄を張るほど飢えてもいない。
空いている席に腰かけ、隣同士になった男達と押しあいへしあいをしながら、食事にありつく。
料理の見た目は貧相という言葉に尽きる。しかし、口にしてみると、存外ラウルの味覚には合った。彼は長い軍人生活の中で贅沢というものを知らなかったから、少しばかり質の悪い物の方が好みに近いらしい。
水気を失い、乾燥したパンは犬歯で切り裂けないほど硬い。炒め物に使われた根菜は日干しにした物を水で戻したらしく、芯が異様に硬い。さらに根菜自体の風味も土臭いため、その辺の草の根を食べている気分になった。
また、鶏肉は出涸らしのようにぱさついている。味付けは塩と香草が使われているだけで、一口噛むと塩辛さと得も言われぬ鶏臭さが立ち上る。飲み下したあとは喉が渇き、水で薄めた麦酒を一口含む。こちらも嚥下してみると、アルコールはほとんど感じられない。ほのかに味の付いた水を口にしたようである。
見た目も味も、たぶん最悪の部類だ。旅の商人などは、この質素で、粗雑な料理の数々に悪態をついていた。しかし、ラウルは文句を言う気にもならなかった。
なにも軍人生活で慣れているだけではない。この粗末な料理の中に宿る、気概に気付いたからである。
帝国の崩壊が告げられて、僅か数日のことである。まだ混乱と貧困から抜け出してはいないだろうに、それでも店を開こうという覚悟が見え隠れしていた。
戦中は節制と倹約が求められ、戦後は思うように物資が集まらない。そのさなかで店を続ける工夫の結晶なのだ。例えいかなる状況下であっても、旅をする人間はいる。そういう者をもてなすために、最大限に考えられたのであろう。味は最悪だが、宿に泊まって飯にありつけないよりはましだ。
食事を終えたラウルが満足げに口を拭っていると、近くのテーブルから、けたたましい音が鳴り響いた。木製の皿や陶器のカップが床に落ち、割れて破片が飛び散る。ラウルの足元にも陶器の欠片が転がってきた。彼はその鋭い断片を拾い上げ、音の主に視線をやった。
どうやら、酔った男がミリアンに言い寄っているらしい。あの水割りで酩酊できる体質が、今は少しだけうらやましい。どことなく熱気を帯びて、覚醒する体を持て余しながら、ラウルは様子を窺った。
「なあ、ミリアン、いいだろう?」
どうやらその男は、元帝国軍人の一人であるらしい。デベ村出身のようで、ミリアンの詳しい事情にも精通しているようだ。その男が未亡人の女将の腕を取り、周囲の目を気にすることもなく唇を寄せている。ミリアンは青ざめた顔をしながら、男の緊縛から逃れようとしていた。だが、男女のことである。抵抗も空しく、ミリアンは男の腕の中にすっぽりと収まった。
「やめてください、やめて……」
そんなことを言っているが、正気を失っている男には届かない。次第に周囲もざわつき始めた。ラウルは麦味の水を飲み下した。立ちあがった拍子にミュンヒオールと目が合うが、彼は肩をすくめるばかりである。
では、他はどうか。ざっと見渡す限り、青ざめた顔で俯くか、話に夢中になるか、もしくは足踏みをして、囃し立てる者ばかりである。そのうちミリアンが裸にひんむかれても、おかしくはない雰囲気であった。
ラウルは悠然と人の波をかき分けた。手には半分ほど中身が残ったコップが握られている。
無言で飯を食う行商人の背中を通り抜けながら、騒ぎの現場までやってきた。男に抱きしめられているミリアンは、どこか儚げで、ラウルの琴線に触れるようである。どうして、己の好く女には先約がいるのだろう。
内心で悪態をつきながら、酔った男に水をぶっかけた。
麦味の水を浴びせかけられた男は、目を白黒させた。突然の出来事に判断が追いついていないようだ。やがて、目の前に大きな老人がいることに気が付いて、視線を上向けた。
「ああ、すまんね。歳とっているから、ちょっと手元が震えるんよ」
ラウルがにんまりと笑った。水を掛けられた男の方は唖然としていたが、けれどもすぐに正気を取り戻し、赤ら顔を憤怒に染めて瞠目した。
もちろんミリアンはまだ手元にいる。
ラウルと目が合った。瞬刻、彼女は小さな悲鳴を上げながら、床に膝をついた。
一瞬だった。男がミリアンに気を取られた隙に、ラウルがその頑強な足で顔面を蹴り上げた。思わぬ速度と衝撃に、男がミリアンから手を離し、床に転がる。どうやら打ち所が悪かったらしく、低い呻き声を上げながら気を失った。
その惨劇を目の当たりにして、近くを陣取っていた帝国軍人が昂然と立ちあがった。
けれども、ミリアンに手を差し伸べた老人の素性に気が付いて、たたらを踏む。なにしろラウル・ヒルコンその人である。帝国を崩壊に導いた人間が、何故か旧帝国領の小さな村にいるのである。誰もが悄然としながら、その事実から目を逸らした。
「ありがとうございます」
食堂に再び静穏が戻った頃、ミリアンが深々と頭を下げた。
もうのんびりと椅子に腰かける気もなかったので、食堂から離れることにした。




