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全く荒唐無稽な話である。月夜に紛れながら、ミュンヒオールは思う。仮にラウルの言う通り、議会がこれから内紛へと力の方向を向けるのであれば、それを止めるのが彼の仕事ではないだろうか。逃げ出したあとにそんなことを思うが、しかし後の祭りである。
澄んだ夜の空気を吸い、体に取り入れる。その冷涼な感覚は火照った体内を循環した。ちょうど良い温度に体を保ち、そして脳みそがよく回転するように刺激を与えてくれる。
二人はすでにベダン・スーを抜け、平坦な草原の中にいる。辺りに人影はない。はるか後方に歓喜の渦を置き去りにしただけであった。
「それにな、わしには夢があるんよ」
前を行くラウルが髪の毛をかきむしる。ミュンヒオールは鼻を鳴らし、その言葉に応えた。
「あー、その、海が見たい」
「は?」
「そう! 海よ、海」
ミュンヒオールはひと時考えた。海って、あの海か? 故郷の村のたもとに広がっていた、あの波立つ、塩辛い水の集まりか? 懐かしい情景を想起しながら、ラウルの背中を見やった。闇夜に紛れて見えにくいが、そこにいることだけは明確に分かる。
「ええと、海ってあの魚とかが泳いでいる?」
「そう。考えてみたら、わしってば見たこと無いかも」
「はっきりしてください。自分のことでしょう?」
「……自分が一番信じられんわい」
ミュンヒオールが苛立たしげに舌打ちをする。
振り返ったラウルは、存外心地よい笑みを浮かべていた。どうやら体が動くうちに――と言っても寝たきりになる想像がつかないが――海に行きたいらしい。酒か女関連だろうが、ミュンヒオールは安堵した。もっと高尚な理由だったらどうしようか、と思っていたのだ。
「その点は支持します。おじいさんを信じるくらいなら、狐の言葉を信じた方がましですよ」
「まあ、そう言うなよ。わしだって、たまにはまともなことを言うさ」
「じゃあ、まともなついでに教えてください。海を見終えたら、どうするんです?」
「へ?」
「そのあとですよ、おじいさん。だって海なんか、南北どちらに行っても二、三カ月で見られますよ?」
ラウルは難しい顔をしたが、けれども足は止めなかった。後ろ向きのまま歩いている。その闇に紛れた様子をじっくりと見ながら、ミュンヒオールは答えを待った。
しかし、いつまで経っても言葉が返ってくることはない。怪訝な顔でラウルを見ると、彼はぼんやりと月を見ていた。どうやら、何も考えていないらしい。それでは困る、と喚きたくもなったが、黙っていることにした。ラウルの顔は、如何様の発言も許さぬ、という確固たる意志を秘めているようだったからだ。ミュンヒオールは冷たくなった指先で鼻筋を撫で、それから荷物を抱え直した。
「行き当たりばったりじゃ、いけませんからね」
そうは言ってみるものの、ラウルからのいらえはなかった。
ダルコン平原にたどり着いたのは、夜明け間近のことであった。古くは共和国と帝国の国境線であった。丘陵地もない平坦な場所に、灰色の朝霞が立ち込めている。東からわずかな陽光が差し込むばかりで、眼前すらも容易には望めない。
けれども分かることがあった。それは、いまだ戦争の跡が残っているということだ。ひとまとめにされた亡骸、もしくは折れた矢や槍や鉄剣、もしくは野犬の群れが至る所に転がっている。
戦火の爪痕を目の当たりにして、ミュンヒオールは茫然とした。
臭いもあるのだが、こちらは思ったほどではない。それよりも、この世の物とは思えないおぞましい光景に足がすくんだ。自分と同じ人間が、これほど多く死んでいる場を、彼は見たことが無かった。
どす黒い血のしみが残る青葉を踏み、ラウルがゆったりと平原に足を踏み入れた。片付けられていない死体が、まだあちこちに残る場所に。
「おじいさん!」
ミュンヒオールが声をかけるものの、ラウルは応じたりしなかった。この恐れを抱く少年は、急いで祖父の元に駆け寄り、薄気味悪い場所から離れたい、と告げようと思った。
だが、言葉は喉から上にこなかった。裸の死体につんのめった、というのもあるが、ラウルの顔が他を寄せ付けぬ〝不敗の軍神〟としての一面を垣間見せていたことの方が主因であった。
父と兄が、一つの迷いもなくラウルの背中に付き従った意味が分かるようだった。
ミュンヒオールは人知れず身震いした。ラウルの背中から発せられる、研ぎ澄まされた殺気が、刃となってミュンヒオールを貫いた気がする。
将軍然としたラウルの顔を見れば、死地にも殺し間にも、躍り出ることが出来るだろう。次の一瞬に命を落とすと分かっていても、剣を振るう勇気が奮いたつに違いない。
厳然としたラウルの顔が幾分か緩んだ。それに気付いて、ミュンヒオールは怪訝な顔をする。陽気な時の表情と比べてみると、先ほどまでの勇ましい顔の方が良かった、と内心で思うのだった。
「ここな、お前のお父さんと、お兄さんが死んだところだと思うんよ」
冷厳な声色で、ラウルが呟いた。その声に導かれ、ミュンヒオールは辺りを見渡した。もやが立ち込める平原は、どことなく幻想的だった。しかしそれだけだ。感慨が胸を刺すことはない。
まだ朝霞が残っているが、日が出る内に引いていくだろう。そうして平原の全貌を見た際に、己は何を感じるであろうか。少なくとも今、心は凪いでいる。
静謐なダルコン平原に立ちつくしていると、父と兄は今でも生きている気がする。なにしろ首も、遺品も見つかってはいないのだから。
黙っているミュンヒオールの頬を撫で、ラウルはふっと笑みをこぼした。
「たぶんな。ここであいつらの声が聞こえなくなった。わしは後ろを見るわけにもいかんから、連中の最期を見届けることが出来なかった」
静かな声だ。まるで空に星が浮かび上がる、その一瞬が音になったようである。どこまでも穏やかで、それでいて事務的だ。感傷的なことを告げるには、これほど最適な声もそうはあるまい。
しばらく沈黙がたゆたった。ラウルには何かを言う気も、もしくは促す気もなかったらしく、微妙な時間が流れた。その空白を埋めようと、ミュンヒオールは虚ろな視線を傷だらけの平原に向けた。
「……そうですか」
必死に紡ぎ出した言葉は、いやに陳腐な響きで、ミュンヒオールは赤面した。その様子を見て、ラウルはさらに笑みを深める。荒っぽく少年の髪を撫で、それから鼻先を寄せた。
これを以って、ラウルの贖罪は終わったらしい。
彼は腰に帯びていた二振りの剣のうち、彼の軍人生活を支え続けた愛刀を抜き払った。それはボミルカル公爵から下賜された逸品であった。おぼろげな伝説が残る剣で、それをラウルのために公爵が探し当ててくれたのだ。初めて剣を受け取った時、体に走った紫電の感覚は、もはや遠い過去のことである。
今の愛刀は、どことなく古ぼけた金属で出来た、くすんだ色合いの剣でしかなかった。弱々しい朝日にかざしてみても、鈍色の光が返ってくるばかりである。昔のような雷のような活力は微塵もなく、もはや力を失った何の変哲もない鉄剣であるようだった。
「わしな――」
両手で剣を掲げると、過日の光景が思い起こされる。勇ましいボミルカル公爵や、邪悪だと思われた皇帝ファミリアン、もしくはラウルが経験した多くの戦い。そういうものが、まるで走馬灯のように脳裏をよぎっては霧消する。目を瞑ると、僅か数日前のダルコン平原での戦いの音が戻ってきたようだった。現実ではもう死体漁りさえもいない、穏やかな空間だというのに。
「――ここで死んだんよ」
そんな無体ないことを言う。後ろでミュンヒオールが息をひそめた。彼のお小言が飛んでくるかと思ったのだが、思いのほか利口に口をつぐんでいるらしい。思慮深いところも父や兄に似た、と思いながら、ラウルは剣を握り直して切っ先を地面に向けた。
「要するに、わしの魂はここで、皇帝が死んだ時に終わった。あの時、全部を終えて死んでしまったんよ」
「でも、ぴんぴん動いているじゃないですか」
「今は抜け殻だ。魂が溶けて消えた、人間の形をした入れ物が残っただけ。わしはこれから、空っぽの入れ物に魂を詰め直さなけりゃあ、ならん」
「それが、海に行くってことですか?」
「うーん、まあ、それも一つだね。十歳で兵士になってから、一度も休暇なんかもらったことがありゃあせんのよ。それで戦争が終わって、クッションのついた椅子に抑え込まれるのは空しくてのう」
肩をすくめる。その動作も堂に入っていて、ミュンヒオールは苦笑した。
ラウルの背中は途方もなく大きい。それを父の背中に重ね合わせることは出来ないだろう。彼は最期まで、ラウルの忠犬であり続けたはずだから。亡き父や兄もまた、ラウルの背中を大きいと思っていたに違いない。
「ちゅうわけで、ちょっとした儀式みたいなもんだね」
そんなこと言いながら、ラウルは霞が消え始めた平原を見渡した。黄金色の朝日は、ダルコン平原の惨状をありありと浮かびあがらせた。
至る所に死体が残っている。約十八万もの人間が動員され、戻ってきたのは半分にも満たないというのだから、この場所に残された人間の数も計ることが出来よう。特例によって火葬が認められたからといって、そうやすやすと亡骸が無くなるわけではないのだ。
遺族はまだ、この地で亡くなった家族を探している。ちらほらとそういう影も見えてきた。子を背に負うた――もしくは手をひく――若い女が、もしくは腰の曲がった老婆が、果ては瑞々しい雰囲気の生娘が、父や夫や息子や兄弟や、婚約者を探しに来ている。野犬が食み、虫が湧いた亡骸を一つずつ確認して、落胆しながら次へと向かっている。その光景をミュンヒオールは目に焼き付けた。
「勇敢なる者達よ、安らかに眠るがいい」
ラウルがそっと呟いた。勢い良く剣を振りかぶり、地面に突き立てる。その刹那、電撃が地面を抜け、足裏を駆けあがり、ミュンヒオールの脳天をかすめた気がした。その一瞬の衝撃が彼を激しく揺さぶり、立ってはいられなくなる。
ミュンヒオールは膝を突き、それから朝の静寂に満ちた平原を確認した。どこにもあの強い力の波動の余韻は残っていない。己の身にのみ浴びせかけられたのか、と驚愕しながら、ゆっくりと立ち上がった。
「さあ、行こうか」
ラウルがにっこりと笑った。その顔は朝日よりも清々しく、そしてダルコン平原に眠る多くの英霊の手向けとなったことだろう。
〝不敗の軍神〟ラウル・ヒルコンは、その勇敢さを讃えられるよりも、その命運を気の毒がられる方が多い人であったのだから。




