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終戦見聞録  作者: 鱗田陽
海へ
23/23

22

 再び歩き出す。今日も雲一つない青天と赤銅色の荒野が、暑さを増長している気がする。汗を拭うが、いまこの時は、どこかべたついた不快な滴であった。手のひらに残った感覚に、ミュンヒオールは辟易した。風が吹き、砂が舞いあげられる。その赤銅色のそれをまともに浴びて、彼は咳き込んだ。

「ほれ、もうちょっと」

 ラウルはそんなことばかりを言うが、しかし一向に海の気配は見えてこない。 空際の果てまで紺碧が広がり、ミュンヒオールの心をげんなりとさせる。

 ラウルはどんどん前に行く。今にも走りだしそうだ。荷物を抱えているミュンヒオールは、その足取りにも悪態をついた。

「もうちょっとって、ずっと言っていますよ」

「ベダン・スーにいた頃よりは近付いておるわい」

「僕の故郷に行っていれば、今頃釣りでも出来ていたのに……」

「魚は手でとるからいい」

 ミュンヒオールは首を振った。ラウルが乗り気な以上、もはや言うことはない。半ば駆けるようにして彼の傍らに寄り、そして鼻孔をくすぐる潮の香りに眉をひそめた。

「……、海、近いんですかね?」

「だから言っておるだろうに」

 再び目をすがめる。しかし空の青は遠くの果てまで続くばかりだ。どこにも海の気配は見られず、その視覚と嗅覚の齟齬に、ミュンヒオールは首をかしげざるを得なかった。

 不意に、波濤の音もする。微かにではあるが、波が何かにぶつかって砕ける音が聞こえてくる。二人は顔を見合わせた。視覚のみがそれを拒絶しているようだが、いまや肌でさえ、海から吹きつける、どこか湿った風を肯定している。

 ラウルが駆けだした。彼は手軽だからか、大声を上げながら走っていく。対してミュンヒオールは大荷物を抱えたまま、半べそで追いかける。

 地平の一角でラウルが立ち止まり、両手を振り上げて大声で笑い出した。それを見てミュンヒオールも、いまひとたび力を込めて疾駆する。やや遅れて、ラウルの真隣りに立った。

 海は目の前だった。

 雄大な弧を描き、ドリエラ岩壁が屹立している。その一線を境にして、赤銅色の荒野は突然途切れ、代わって空の青よりも深い蒼海が遥か眼下で激しく波打っている。

 崖先に立ち、ラウルは大声で笑い声を上げた。

 彼は平原で生まれ育った。川の青はどこか透明で、どこか穏やかな雰囲気を垣間見せるが、しかし海は違う。その底深さを表わすかの如く、黒ずみ、そして不機嫌に荒れている。波が泡立ち、渦を巻き、もしくは崖に叩きつけられる。その年期を物語るかのように、崖は決して一直線ではない。中途が深く抉れ、ともすれば崖先が一番海にせり出している。

 白波が、より一層海の蒼を引き立たせる。これにかかれば、紺碧など白にも等しい。間断なく叩きつけられる波の音も、大きな白い鳥の鳴き声も、渾然一体となりて耳道を響かせる。

 ひとしきり笑ったあと、ラウルは遠くを見つめた。口をぽかんと開けたまま、空と海面との境目に目を凝らす。おとぎ話をする時、彼の祖母は必ず、空は一つのヴェールで、それは広く薄く天下を包みこんでいる、と言った。ラウルはそれを心に秘め、例え遠く離れたとしても、ボミルカル公や、もしくは彼の妻と同じものを見ているのだと思っていた。

 しかしどうだ? 目の前の光景を見つめて、ラウルは己に問うた。空は一つか?

 赤銅色の荒野の上では、それは澄んだ青を示していたように思う。この世の何よりも貴い、唯一の青を表わしていた。

 だが、それよりも深い蒼に遭遇した時、空の青は際立たなくなる。限りなく白か銀に近づいて、決して青とは思えなくなる。空際の遥か彼方では、白銀の空が続いている。

 それは青か? いや、ラウルには把握できなかった。例え荒野のさなかに見たものと同じであったとしても、ラウルの目は、そして感覚は、それを否定している。

 違う空なのだ。どこかで空が変わるのだ。一枚のヴェールが包んでいるのではなく、継ぎ接ぎのように、様々な色の空が神の見えざる手によって、繋ぎあわされているだけなのだ。

 そういえば、とラウルは思う。ミュンヒオールが、南の海は穏やかだと言っていたはずだ。

 そっと下を見てみた。泡立ち、崖に打ち付ける白波と、猛烈に吹きつける風とが絶え間なく続いている。話に聞いていたものとは違い、泳ぐ雰囲気ではない。 時折岩礁に鳥が止まるが、しかしそれも瞬きの間だけだ。すぐに飛び立ち、大空へと舞い上がる。

「なあ、ミュンフ」

 崖が怖いのか、やや後ろで座りこんでいる唯一の親族を見た。その少年は不機嫌そうに――遠くの空と同じようだ――鼻を鳴らし、それに応えた。

「ここは泳げんのか?」

「はあ? 自殺志願者ですか? 落ちたら死にますよ」

「ううむ、だが、海は泳げるんだろ?」

「崖から飛び降りて、どうやって上がってくるんですか」

 ラウルがうなり声を上げた。どうやら遊ぶのはお預けらしい。そう思うと、飛沫も飛んでこず、触れもしない海に対する興味が薄れた。彼もその場にどっかりと腰を下ろし、ぶら下げていた酒瓶の蓋を開けた。

 むせかえるような磯臭さと純白の陽光、そして潮騒を肴として、一口含んでみる。散々揺らし、そして灼熱の中で温めたからか、風味はほとんどない。アルコールの刺激だけが鼻孔を抜け、そして体の中に落ちていった。

 そこで、右手の怪我に気付いて血を舐めてみるが、肴になりそうもない。もう一口飲んでから、ミュンヒオールの方を振り向いた。彼は立ちあがっていて、どこか遠く――荒野の方を見つめていた。

「なんかあった?」

「いえ、遠くに隊商がいるような気がして……」

 それは僥倖だ。天を見上げてみると、日が南中から西に傾きだしている。いずれこの吹きつける海風が凍寒の気配を運んでくるだろう。そうなれば一晩いることは出来ない。隊商が近くで止まってくれれば、そこで夜を明かすことが出来るのだが……。

「じゃあ、そっち行こうか?」

 ラウルが声をかけて立ちあがろうとする。そこで、ふとミュンヒオールと目が合った。彼は怪訝な顔をしていた。どうやらラウルが不満足であることを、迅速に察知したらしい。

「いえ、僕がひとっ走り行ってきますよ」

「行ってどうする?」

「酒と肴を買ってきます。日が暮れてから追いつけばいいでしょう? ちゃんと話をつけてきますから」

 ラウルをその場に押しとどめて、ミュンヒオールが駆けていった。まだ十五歳だ。元気だけは有り余っている。それを何か、自分の求めるものに打ち込めれば、一流の人になるかもしれない。

 遠ざかる彼の背中を見届けて、ラウルは酒瓶を煽った。もう中身は半分ほどである。この琥珀色の液体を日に晒し、それから再び天を見上げる。そのさらに上は、いったいどうなっているのだろう。死した人々がヴェールの上で暮らしているのだとすれば、いつか空が落ちてきて、大事になるやもしれない。もしそうでないのだとしたら、そこはどうなっているのだろうか。

 偉大なる主、ボミルカル公やミュンヒオールの家族は、この様子を見ているのだろうか。分からぬ。まったくと言っていいほど分からなかった。

 しかし、いずれは答えの出ることだ。しかもミュンヒオールよりも早く知ることになるだろう。その時に、己の仮説は確かめればいい。今はただ、天の下を楽しむばかりだ。

 また一口飲んだ。ラウルには目標が出来た。海で遊ばぬことには死ねそうもない。何やら海の近くでは、女人が薄着になるという。そういうものを期待していたのに、この北の海では起こりそうもない。これだけはまったく落胆するばかりである。海への旅行ならば北がいい、と書いた帝国製の旅行誌は、悪魔の書物として焼いてしまえばいい。

 どこにも若い女の影が無いではないか。薄着どころか、上着を着なければ凍えて死にそうだ。

 ラウルは歯ぎしりしながら、けれども長年己を縛ってきた重責から解放されて、清々しい気分だった。今ならば全てを快く受け入れられそうだ。長い旅の果てに、女一人いない寒空の下で酒をかっくらっていたとしても。

 もう瓶の中身は残り少ない。太陽が赤みを帯びている。まだ辺りは物柔らかな日差しに包まれているが、いずれ茜色に染まるのだろう。

 ラウルは再び天を見上げた。

 一体どれほどの人が、本意通りの人生を歩めたのだろうか。亡きボミルカル公は、今際の際にラウルに謝罪した。ミュンヒオールの家族は、どこの誰とも知らぬ者に殺された。それで満足だったのだろうか。何かしたいことがあったのではないだろうか。

 いや、それも考えるべきではないだろう。ラウルは痛みで疼く手を握り締めた。己も多くの未来を断ち切った。ラウルに殺されるのが本望だった、という人は、たぶん一人もいない。その無念は抱えて持ち歩くには重すぎる。

 ラウルは深々と溜息をついた。ならば己が満足するしかない。誰かの分だけ、気の向くままに余生を過ごし、それで満足して逝こうと思った。でなければ、死んでいった人達に面目が立たぬ。罪の沙汰はそのあとに聞けばいい。例え地獄に落ちたとしても、それはそれで納得できる。

 まあ、難しい話は脇に置いて、今は南に行きたい。まずは薄着の女だ。これほど寒い場所に何時間もいて、風邪をひいて死ぬなどまっぴら御免である。一仕事を終えた褒美がこれとは鬼畜にも程があろう。女の乳と尻が見たかった。

 寒風に吹かれるラウル・ヒルコンは、ようやく六十年にも及ぶ軍人生活を終えた。あとに残してきたものは、残された者が片付ければ良い。尻を拭う気は毛頭ない。

 だが、ともかく一つ祝福を与えねばならないだろう。

 残りも僅かとなった酒瓶を天に捧げ、彼は烈風と波濤、そして偉大なる空と海の青と蒼に向かって、それまでの人生の賛辞を述べた。

「共和国に、栄光あれ!」

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