20
翌日、日が昇る前に二人は起きた。まだ夜の寒さが残る――けれども東の空が白む時刻に、また歩き出す。体は疲れ切っているが何故だか動くのだ。寝る前に按摩をしているのが良いのかもしれないが、それは定かではない。
太陽が顔をのぞかせると、すぐに辺りの空気が沸騰する。またしても暑さがぶり返してきた。夜の寒さが恋しくなる。マントをはぎ、上着の袖を捲ろうとしたところで、腕の赤さに気付いてやめた。
すぐに汗をかき始める。濡れた前髪を払い、雲一つない澄んだ青空に憎悪の視線を向ける。薄雲でもあれば、この暑さは和らぐのかもしれない。
顎を滴った汗が、一粒の滴となり、乾いた大地に落ちる。風が舞い、砂が巻きあがる。どこもかしこも荒野の赤銅色と空の青が視界を覆う。その決して交わらない色が空際まで続いている。
額に浮いた汗を拭った。乾燥していることだけが救いで、流れた汗にも不快なべたつきはなく、粘度の少ない水分として地面に落ちた。
この日は風が吹くだけ幾分かましであった。頭上から吹き下ろす風が、僅かばかり灼熱を和らげてくれる。それも相まって、ラウルの足取りはより一層軽快である。
ふと、ミュンヒオールは足を止めた。前方から抜ける風に、ほんの気持ち分だけ湿り気が混じったような気がしたのだ。
日差しに肌を晒し、風を浴びる。先ほどまでの生ぬるい、乾いた風とは明らかに違う。清涼な、そして微かに湿気を帯びた風が吹きつけていた。
ミュンヒオールは顔を上げた。そうして気付くことがある。いつの間にか汗が止まっていたのだ。喉の渇きが極まりに達したからではない。彼の体はもう、水を欲していなかった。視界は明瞭であるし、何より足取りも軽い。水分不足の時は、もっと視界がかすみ、足は重たくなるはずであった。
どうやら、先を行くラウルの目が何かを捉えたらしい。立ち止まり、後ろを振り返ってミュンヒオールを待ってくれているが、焦燥に駆られている。煩わしげに足踏みをし、早くしろと無言のうちに訴えていた。
一息ついたミュンヒオールが動き出そうとした、ちょうどその時だった。紫電一閃、後方から、ひひらく馬の声が響き渡った。
振りかえってみると、遠くの彼方から土煙が上がっていた。見渡す限り傾斜の少ない荒野で、他に人影はない。つまり、真っ直ぐ近付いてきている以上、二人に何か用があるのだ。
ミュンヒオールは急いでラウルの傍らに寄った。その土煙が近付いてくると、十人ばかりの集団であることが歴然とする。ミュンヒオールは身構えたが、ラウルの方は不機嫌そうに舌打ちをするばかりだった。
先頭で馬を走らせるのはドゥーチだ。見知った顔は彼一人だった。あとの連中は、見覚えのない柄の悪い男達だった。
ドゥーチの顔には痣と血の跡があるが、どうやら体は動くらしい。どこで手に入れたのかは知らないが、彼らは中型の馬に乗り、勢いよく二人に迫ってくる。
ラウルに動く気はないらしい。それを見て、ミュンヒオールは懸念に苛まれた。もしかするとラウルは、この無礼千万で頑固な軍人を叩き切るつもりなのではないか。そう思えるのだ。彼が託してくれた鉄剣は、いまなおミュンヒオールの腰にある。それを渡そうと手を伸ばすと、ラウルがそっと制した。
「いらん」
「でも、戦いになったら」
ミュンヒオールよりも、ラウルの方が格段に強い。しかし彼は、その事実を踏まえてなお、唯一の親族に首を振った。
「いらん。その剣はお前に託したのだ」
「僕がおじいさんに託し直したいと思っても、いいわけでしょう?」
「まあ、そうだけど。でも、いらん。ドゥーチの剣の方が、よっぽど業物だ」
ラウルが不敵な笑みを浮かべた。それで、ミュンヒオールも口をつぐんだ。ドゥーチと十人の荒くれが二人の横を通り抜け、行く手を遮るように止まった。
暑くないのか、ドゥーチは薄手の鎧を着こんだままだ。腰に剣を帯び、槍まで携えている。傍らにいる荒くれも、皆それぞれ武器を持っていた
槍が構えられる。鈍色の穂先が二人に差し向けられた。
ドゥーチの顔はよく見えなかった。彼の体の輪郭だけが日に晒され、顔には影がかかっている。ミュンヒオールは腰を落とし、剣の柄に手をかけた。無駄とは知りつつも、抵抗しないと思われるのはしゃくだった。
「抜刀するのはよしていただきたい。我々は穏便な話し合いをする気なのですから」
ドゥーチが言う。彼の従える男達が馬から降り、さらに一歩踏み出してきた。その剣呑な様子を見て、どこが穏便なのかは、さっぱり分からなかった。ラウルが合図をしてきたので、ミュンヒオールは剣の柄から手を離した。
「共和国には帰らんよ」
もう何度交わされたのかも分からない問答である。ラウルが拒絶しているにもかかわらず、それ以外の分からず屋が連れ戻そうと必死になっている。まったく馬鹿げたことだ、とミュンヒオールは思った。なにしろ、ラウルに武器を向けるのだから。ドゥーチは正常な判断を失っている。
それを表わすかの如く、ドゥーチが見る見るうちに顔を紅潮させた。怒りで我を忘れそうになったようで、息を荒げながら地団太を踏んだ。
「何故です? 共和国は最高の待遇を以って、あなたを迎えようとしている。何が不満なのです?」
ドゥーチが声を荒げた。艶やかな黒髪を振り乱し、だらしなく伸びた髭を引っ張る。今にも泣きそうな顔で、ラウルに突っかかろうとした。
「そんなもの、わしは望んでいないからね」
ラウルのいらえに、ドゥーチは荒々しく溜息をついた。それから首を何度か振り、共和国の議長とやらに言われた言葉を口にした。
「共和国にはまだ、あなたの力が必要なのです。かの国は生まれたばかりなのです。どうか、お見捨てくださるな」
このどこか他人任せで甘ったれた言葉に、ミュンヒオールの血の気が上がった。彼は再び剣に手をかけた。もしも想像通りに物事が動くなら、彼はドゥーチを切り捨てているだろう。
しかし、現実はもっと砂にまみれていて、そして劣勢である。十本の槍を突きつけられ、それらが一歩ずつ近づいてくる。ドゥーチはとうに限界を超えていたのだ。それこそかつての主を痛めつけ、共和国に引きずり戻そうとするくらいには。
ラウルは悠然と、その光景を見つめていた。突きつけられた槍など、彼にとっては恐怖にもなりえない。彼は〝不敗の軍神〟なのだ。無数の敵を前に、一欠片の恐怖もなく突撃する偉大な将軍であるのだ。
むしろ槍の穂先に映る己の姿を見て、少々落胆していた。壮年の活力に満ちた風貌はとうに失われている。そこにあるのは衰えた老体だ。それが彼らに軽んじられる要因なのだろう。ドゥーチはともかく、荒くれ者は明らかにラウルを軽侮していた。
「断る」
「何故です?」
「子は、いずれ独り立ちするもんだ。帝国を滅ぼした共和国は、もうその時なのだ。世界の中でただ一人、二本の足で立たねばならぬ」
ドゥーチが髪の毛を振り乱した。そうではない。共和国は今こそ始まりなのだ。まだ産声を上げる子供だと思っているのだ。
この意識の齟齬が埋め難い。だからドゥーチはどこまでも追いかけてくるし、ラウルは拒絶する。誰かに責任を押しつけたくてたまらないのだ。自分以外の誰かに。それが偉大な将軍であろうとも。堕ちた両公爵を救った英雄であろうとも。
「まだ、共和国には力が必要です。世界はいまだ混迷のさなかにあり、あなたのような強い人間を必要としているのです」
ラウルは情けない顔をする部下に消沈していた。私の手でやってみせます、と言えない男に、これ以上ないほど幻滅していた。
このような男を取りたててきたのかと思うと、費やされた六十年が無駄なものであったかのように思われる。少なくとも、ラウル自身が憧れた過去の大人達は、露払いくらい自力でやってきた。
彼らは、己の力で戦いを終わらせられないことを悔いながら死んでいった。
その結果が、これか。ラウルは憤慨した。荒くれの一人が、黙っているラウルを脅そうと槍を近づけてきた。その鋭利な切っ先が腕に当たり、僅かな血が傷口に盛り上がる。
荒くれ者が老いたラウルを嘲笑している。ドゥーチは自分に心酔しているのか、はらはらと涙を流している。
その馬鹿げた現状に嫌気がさした。荒野を砂色の熱風が抜けていく。それがまた、ラウルの闘争心を煽りたてた。
「ミュンフ」
傍らにいる少年を呼んだ。いや、もうそうは呼べぬかもしれない。彼は成長し始めている。顔の片隅に精悍さが表れている。そのやや大人びた顔を仰ぎ見て、ラウルはほっと一息ついた。
全てが無駄ではないのだろう。少なくともラウルにとっては。
「なんです、おじいさん」
ミュンヒオールが不機嫌そうに眉根を寄せた。その姿が実に愛おしい。そんな彼に、ラウルの生きざまを一つ、見せておきたかった。
「手を出すなよ」
「いいんですか?」
「ラウル・ヒルコンを侮るな。死の床に瀕していたとしても、この程度の輩にやられたりはせんよ」
荒くれ者がむっとした顔をした。老人の強がりだと思ったようだ。脅すように槍の穂先を突き出してくる。
ラウルは近づけられた槍の穂先を素手で握った。
ミュンヒオールを除いた、全ての人間がどよめいた。その大胆な行動に、そして死を恐れぬ姿に。
ラウルは刃を握り締めたまま、ゆっくりと力を入れる。鈍色の穂先に彼の鮮血が滴る。赤褐色の滴が地面に落ちようとする頃、槍が軋む音を立てて真っ二つに折れた。
その血にまみれた穂先をさかしまにし、ラウルは不敵に笑った。対して荒くれ者の顔は引きつる。相手にしているのが本物であることに、やっと気が付いたらしい。しかし、もう遅い。
ラウルが突進した。槍を奪われた荒くれ者が一歩だけあとじさるが、それでは意味が無い。砂煙が上がる間に肉薄され、奪われた槍の穂先で首をはねられた。
用済みになった折れた槍を投げつけた。哀れな別の荒くれ者の喉元を貫通し、また死体が一つ増える。
そのまま軽やかに回転しながら、首のない遺体から剣を抜き払い、その勢いで、さらに一人を斬り伏せた。
立て続けに三人を殺したところで、場が硬直した。生き残った連中が怯え、そしてドゥーチが唖然としている。正気を保っているのは、ラウルとミュンヒオールだけであった。ラウルが血の付いた鉄剣をドゥーチに向け、炯眼でその愚かな体を射抜いた。
ドゥーチもたじろいだ。荒くれ者は明らかにやる気をなくしていて、二歩、三歩とラウルから距離を置く。払われた金額では足らぬと思ったのだろう。武器をしまう者まで現れて、ドゥーチはさらに取り乱した。
「待て、待て。相手は二人だぞ」
そう叫ぶ声すら空しく荒野に響く。ドゥーチは正気を失っていた。確かに相手は、たった二人であるが、そのうちの一人がラウル・ヒルコンであることを失念している。幾度となく彼の勇猛な姿を見てきたであろうに、ドゥーチは壊れたように喚き散らした。
ただ一人、傍観者であったミュンヒオールは顎を滴る汗をぬぐいさり、狼狽する傷だらけの軍人をじっと見つめた。それすらも、己の糧にするつもりだった。 旅の中で様々なものを見聞してきたのだ。ドゥーチの愚かな言動でさえ、それは未来の礎となる。
ドゥーチが蒼白の顔を歪めた。頬を伝う滴が涙か汗か、不思議と判断はつかない。しかし彼は覚悟を決めたようで、剣に手をかけていた。
刀身が陽に晒される。くすんだ鈍色の光が辺りに散った。
ミュンヒオールは息をのんだ。一見して、ラウルが荒くれ者から奪った剣よりも、優れた代物だと分かる。
長きに渡る戦争で、彼の身を守る最後の砦であったはずだ。その剣は幾人もの血を吸い、幾度も鍔迫り合いをし、刃には無数の傷が付いている。それでも、ドゥーチを守る宝刀であることには代わりが無い。
ドゥーチは中段に剣を構えた。切っ先が迷いなく向けられる。
ラウルはそれを見ても、一切身じろぎをしなかった。彼は無形のまま、じっと敵を見据えている。
二人の間を風が抜けた。その一瞬の間を縫って、ドゥーチが飛びこむ。中段に構えた鉄剣を豪快に振り抜く。しかしそれは激しく宙を切り裂いた。ラウルは僅かに半身を逸らしただけで、鋭い一閃を避けた。
二度、三度とドゥーチが斬撃を繰り返すが、しかしラウルの身には届かない。さながら柳のようだ、とミュンヒオールは思った。力を込めれば込めるほど、ラウルの滑らかな動きにはついていけなくなる。
気合をこめて振り抜かれたドゥーチの剣が虚しく空を切り、彼は汗みずくになりながら、夢中でラウルを追い回した。見守るミュンヒオールも、荒くれ者も、それがまるで大人と子供の喧嘩であるかのような印象を持った。
ドゥーチのかすれた慟哭が荒野を遠く高くつんざいた。




