19
二人は、海に近付いているはずだった。
明け方の静謐に耳をすませば、潮騒が微かに流れてくるような気がしている。もちろん錯覚で、幻聴だ。
その心境の困惑を支持するように、辺りの様相は一変していた。フュンヘン領で見られた青々とした草原はなりを潜め、ごつごつとした赤銅色の荒野に、巨大な砂岩が転がっている。見渡す限りの地平線は殺風景で、枯れた草木が点在しているばかりであった。
青天が頭上を覆っていた。荒野の赤銅とは対照的で、それまでの空の青よりも、より澄んで、深い色合いを保っているように思える。吸い込まれるほど天が高く感じられ、それでいて遮るものもない中で照りつける陽光が、二人の体力を容赦なく奪っていった。
灼熱のようであった。地獄の釜とは、たぶんこれほどの暑さなのだろう。太陽に晒されたミュンヒオールの白い肌が赤く焼けている。いくら水を飲んでも喉の渇きが癒えず、滴る汗は量を増すばかりである。
そんな暑苦しい場所にいた。湿気が無いことだけが幸いで、それが不幸せでもあった。
革袋いっぱいに入っていた水が少なくなるにつれ、ラウルが険しい顔をした。水を飲みすぎるな、とミュンヒオールに忠告し、それが守られないと知れるや、彼の手から奪い去った。歩くたびに水が鳴るのだが、それがより一層渇きを助長しているようにさえ思う。
砂煙が上がる。乾いた砂岩を踏みつぶす。その堅くてくすぐったい感触でさえ、足が疲れてくれば煩わしい。
ミュンヒオールは、顎を滴る汗を拭いながら、そっと辺りを見渡した。どこかに影が無いものか、と思うのだ。しかし背の高い木はおろか、藪さえもない。あるのは赤みがかった砂色の地平と天の青だ。故郷の空や海のように、どこか穏やかで白みがかった薄い色彩とは違う、紺碧である。
この日、何度目だろうか。ラウルがうなり声を上げながら、ミュンヒオールの上着を直した。顔を覆うようにフードをかぶらせ、まくっていた袖を戻す。そうすると暑さが増すのだが、ラウルは決して容赦してくれなかった。
「肌を晒すな。火傷するぞ」
「でも、暑すぎますよ。ここが砂漠ですか?」
「厳密にいえば荒野だ。ここを抜ければドリエラ岩壁に着く」
そこが、一応の終点であるらしい。海が見える風光明媚な場所らしいのだが、この視界いっぱいの鰯の日干しよりも水気が足りない大地を見る限り、そんなものがあるとは思えなかった。フュンヘン領の方が、よほど水の気配があったはずだ。
二人は歩く。もしもどこかに影があれば、きっとラウルも休んだだろう。しかし彼らの前方には平坦な道のりが広がるばかりである。時折、水平線を遮るものがあったかと思えば、腰ほどの大きさの砂岩が転がっているのである。そこに出来た影など気休めにもならない。
あまりの暑さに視界がぼやけてきた。汗を拭い、一息つくが、ラウルの足取りは止まらない。少しずつでも歩かねばならないのである。夜になれば激しい風が吹きつけるだろう、とラウルは言っていた。
日差しが、真上からやや西に落ち始める。二人の影が伸びるに従って、ラウルの予言通り気温が急激に落ち始めた。
今度は上着をきつく体に引き寄せた。肌に浮いた汗が体温を奪ってゆく。太陽が直線の向こう側に落ちるほど寒さが増した。
そこに至って、ラウルは一度足を止めた。近くにあった砂岩の物陰で、着替えるようにと指示を出した。ミュンヒオールはこれ幸いに、と急いで下着姿になり、日中の汗がしみ込んだ服を脇に追いやった。それから汗の滴を拭い、お日様の暖かさが残る新しい服に着替えると、心がほっと一息ついたようになる。乾いた綿の柔らかさが、肌に心地よいぬくもりを与えてくれる。上着の上からマントを羽織り、彼は荷物をまとめて唯一の親族の元に戻った。
ラウルも着替えを済ませていた。なおかつ焚火もだ。すでに月が打ちあがり、眩いほどの欄干が頭上に広がっていた。目を凝らせば、流星が落ちるさままで見える。夜の帳の中に銀砂の帯が流れている。寒さはたけなわに達していたが、しかし煌々と燃え盛る炎によって、多少は和らいでいた。
今度は一転して乾いた手をこすり合わせながら、ミュンヒオールは火に当たった。昼の暑さが恋しくなる。この都合の良い思考に一度は喝を入れておきたかった。どうせ明日の太陽が上がる頃には、汗をかいて悪態をついているのだから。
隣に座るラウルは目に見えて緊張していた。夕飯として、干した川魚と根菜を塩と水で煮込んだスープ、それに砂糖漬けにされたパン、酒につけられた果実などを取り出す。全体的に甘い物が続くが、これもまた仕方のないことである。荒野に足を踏み入れて五日ばかり経つが、二日目に荒野を横切る隊商とすれ違ったきり、他の人間を見てはいない。
すなわち、食事を豪勢にする要素はない。蛇や虫の類はいるらしいが、ミュンヒオールは見たいとも、口にしたいとも思わなかった。
「ふう」
食事が出来上がっても、ラウルはむずむずと動き回っている。どうやら彼の感覚が、海が近いことを示しているようだった。ただ、ミュンヒオールには、その正しさが一つたりとも分からない。吹きつける風は冷たく乾き、細かな砂粒を纏っている。まともに風を浴びると、どこか不快な砂粒が体のどこかにまとわりつく。
それを払いながら、懸念を口にした。もちろん、ラウルの気を逸らすためである。子供のように落ち着きを失くした彼は、砂を舞わせる風よりも、ずっと不快であった。
「ドゥーチは、共和国に帰ったでしょうか」
その名を出されて、ラウルが険のある表情を浮かべる。眉間にしわが寄り、目線だけでミュンヒオールを咎めた。
「でも、追われるのは嫌いなんでしょう?」
「……、そうだが、あやつは帰っておるよ」
「どうしてそう言い切れるんです?」
「わしが望んでいるからだ」
ラウルは苛立ちまぎれにスープを飲み干し、むせた。その忙しい様子を横目に見つつ、ミュンヒオールは砂の付いた砂糖漬けのパンをかじる。塊の砂糖が口の中で砕け、ザクザクとした食感が返ってくる。それは日中に乾いた砂を踏み砕いた時のような感覚で、気力を減退させた。
半瞬遅れて、口内に香しい花の香りと、砂糖の甘みが立ち上ってくる。どうやら砂糖には花の香料が沁み込ませてあったらしく、春雨に降られた桃のような香りがする。ひと時その情景を夢想して、ミュンヒオールは顔を上げた。
「でも、もしもですよ? 海を見終わったあとに彼が来たら、おじいさんはどうするんです?」
「……、また何か見たいものを探すさ」
「何かありそうですか?」
ラウルは押し黙った。どうやら思いつかないらしい。ミュンヒオールをまじまじと見て、肩をすくめた。
「……、追々考える」
今度はミュンヒオールが口を閉ざした。土壇場で策が出るものだろうか。いや、ラウルならば出すかもしれないが、確実ではない。何だか嫌な予感が胸をよぎった。夜の冷たさを帯びた風が不愉快な響きを奏でている。




