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終戦見聞録  作者: 鱗田陽
デベ村一件
2/23

1

 月光の降り注ぐ頃、二つの影が純白の壁面を踊っていた。

 厳めしい顔をした老人が、壁に立てかけられた二振りの剣を取る。それを腰におさめると、さっと振り返った。視線の先には、まだ少年の域を抜けだしていない子供があくせくと働いている。彼は背負った荷物の重さに秀麗な顔つきを歪ませた。

 二人はがらんどうの室内を駆けまわり、旅路に必要なものをかき集めた。

 その焦慮をあざけるように、遠くから歓声が響き渡る。今宵、共和国は喜びに満ちている。念願を叶え、ついに長年の敵である帝国を打ち滅ぼしたのだから。その戦勝を祝う晩餐会が開かれているのだ。

 闇の中でうごめく二人は、本来であればその盛宴の主賓であるはずだった。しかしそれは、人生を桎梏の元に縛り付けることにも繋がる。二人にとって、それは本意ではない。彼らの心は空を飛ぶ鷹よりも自由で雄大だった。

 予定通りに計画が進み、ついに全ての準備が終わる。喜びに沸く共和国の首都ベダン・スーから離れる時が来る。

「しかし……。いいんですか、おじいさん」

 そう尋ねるのは少年――ミュンヒオールだ。彼は唯一の親族であるラウル・ヒルコンの背中を追いつつ、忘れ物が無いかと執務室の中を確認していた。ちょうど窓から飛び降りようとしていたラウルが振り返り、穏やかな顔を月明かりに晒した。

「いいんよ。わしはもう六十年も尽くした。余生ぐらい好きにさせてもらう」

 このラウル・ヒルコン、齢は七十に到達している。髪の毛は銀灰で、笑うと顔に深いしわが刻まれる。けれども彼が年齢ほど年老いて見えないのは、傷一つない屈強な体と、精悍な響きを残す声色が要因であろう。足腰もかくしゃくとしているし、思考に曇りもない。問題があるとすれば女癖と酒癖の悪さくらいなもので、これは六十年の軍人生活で染み付いたものであるから、もはや修正出来る類のものではない。

 便宜上おじいさん、と呼ぶ老人の姿を見て、ミュンヒオールは溜息をついた。白銀の月に晒された唯一の親族は、まだ精力的で、これからも働けるように思う。だが、彼は将軍という栄誉ある職を捨て、流浪の身になるというのだ。もったいない、と内心では思いつつ、ついていく自分にも嫌気がさしていた。

(でも、ああ言われちゃなあ……)

 彼はぼやく。もちろん心の中でだ。

ラウルは軽やかに建物の二階から飛び降り、地面に着地した。ひと時の躊躇いもなく、ミュンヒオールも窓に足をかけて飛んだ。彼の方は荷物を持っているから、どうにも不恰好な着地になる。背中に感じる重みに耐えきれず、思わず両の膝をついた。ラウルとは、まったく比べようもないほど無様であった。

「ようし、じゃあ行くぞ」

 ラウルに助け起こされ、ミュンヒオールも歩き始めた。最後に一度、目の前にそびえ立つ共和国議会を顧みる。相変わらず荘厳で、威圧的な建物である。欄干に晒されたその角ばった輪郭は、どことなく武骨な印象を与えた。

「でも、おじいさん」

 ラウルの背中を追いながら、声をかけた。彼は振り返ろうともせず、腰に帯びた二振りの剣の柄を撫でている。

「何だ?」

「追手が来たりはしないんですか」

 当然の疑問であった。ミュンヒオールが問うと、ラウルは深々と嘆息し、それから頭上の星空をぼんやりと見上げた。今日は雲一つなく、星がぎらついて見える。夜の帳に散らばった星辰が綺麗に映りこんでいる。ミュンヒオールも顔を上向けたが、歩みを止めたりはしなかった。

「うん、まあ。あると思うよ」

「何か用意とかはあるんですか?」

「ない」

 きっぱりと断言されて、ミュンヒオールは毒を吐いた。けれども内心では辛うじて冷静さを保っている。もしも誰かが連れ戻しに来たら、どうするのだろう。むざむざと捕まり、ここに戻ってくるというのだろうか。

 ともかく二人は、ベダン・スーを逃れた。歓喜に溢れたその街は、二人の逃亡者に気が付きもしなかった。


「ミュンフ、逃げるぞ」

 そう告げられたのは昼のことだった。戦勝の式典を終えたベダン・スーの議会には、人がたくさんいて、夜に催される晩餐会の準備を進めている。当然、ラウルやミュンヒオールも、それに参加しようと決めていたはずなのだが……。

 周囲の耳目に配慮しつつ、ミュンヒオールは怪訝な顔をした。

「借金ですか? 女ですか?」

「いや、身綺麗だから。そうじゃのうて、共和国から逃げるんよ」

「……何故です?」

「決まっているわい。あいつら、わしを死ぬまで拘束する気だ。お前さんも、時が来たらどこぞのお偉方の娘と結婚させられるぞ」

 その気の進まない苦難の未来を思い描いて、ミュンヒオールは顔をしかめた。

「……でも、おじいさん。どこへです?」

「決まっているだろう。どこかへ、だ」

 ミュンヒオールが陰険に目をすがめると、ラウルは初めてばつの悪そうな顔をして、己の内心を吐露した。

「わしは公爵のために戦ったが、最期まで付き合う気はない。共和国の議会に座を占める気も、この国を導く気もないのだ」

「まあ、それは分かりますがね」

「まっぴらだ。そもそも亡きボミルカル公爵は、帝国打倒の意思など無かった」

 切羽詰まったラウルの言に、ミュンヒオールは待ったをかけた。そういう不穏な話は、どこかひと気のない場所でするべきである。辺りには共和国の戦勝を喜ぶ人達がひしめいていて、彼らは不運の両公爵の念願が果たされたからこそ、浮かれているのだから。

 ともかく、ラウルの執務室に戻った。そこならば人はいない。机と椅子、それに壁にいくつかの刀剣が掲げられているだけの殺風景な部屋で、二人は相対した。

「公爵に対する誤解は知っていますけど、もう帝国を打倒しちゃったんですよ」

「分かっておる、分かっておるさ。どうしてこうなったのかは分からんが、ミスを犯したことは分かっておる」

「じゃあ、今更ってことでしょう」

「……お前さんには、政略の道具になる以外に、まだ不都合があるぞ?」

 ミュンヒオールは首をかしげた。そんなものがあるだろうか。英雄の親族として、多少なりともちやほやされる以外に。

いや、もちろん自由は無くなるだろうが、そんなものは生まれてこの方、持ったためしがない。

 ミュンヒオールは共和国領南部の漁村で生まれ、母が急逝したためにベダン・スーへとやってきた。ラウル・ヒルコンの右腕として働いていた亡き父の元へ。五年ほど前のことだ。その日から、ミュンヒオールの動向は誰かの目についた。彼の姿は衆人に監視され、一つでも間違いを犯すとラウルや父に報告されたものである。怒られた記憶はないが、窮屈さに苛立ったことはあるが、もう慣れた。人前で粗相をすることはめっきり減ったと自負している。あとはこのまま、平穏に時を過ごすだけだろう。

「せいぜい国家の財を食んで、悠々自適に暮らしますよ」

 けれども、ラウルはきっぱりと首を振った。

「いや、それはありえん。これからは議会の中で暗闘が繰り広げられるはずだ」

「帝国との戦いが終わったのに?」

「終わったからこそ、気が合わん奴を排除するんだろう?」

「……僕も狙われるっていうんですか?」

「まあ、それもある。だが、それ以上に、わしらは象徴として傀儡になることを求められるだろう」

 ミュンヒオールは沈思する。ラウルの妄想が妥当かどうかを。

 傀儡、それは不穏な言葉である。誰かの糸に操られるのは、どうにも気に食わない。ふかふかの椅子も尻心地が悪くて嫌いだが、誰かの顎で使われるのはもっと嫌いだ。

 この若い親族の性分を理解しているからこそ、ラウルは満面の笑みを浮かべた。

「だから、逃げるんよ」

「ですから、どこへ?」

「ここではないどこかへ」

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