11
ベクダール山脈を越える。
下りは、登りよりもずっと容易な道である。その理由は頂上に到達した直後に明白となった。
急に寒さが和らいだ。刃に貫かれるような鋭い寒気が遠くの現実となり、代わって湿気を帯びた妙な暖気が立ち上ってくる。途端にラウルは汗ばんだ。ミュンヒオールも同じだ。彼はようやっと元気を取り戻したが、山を下りるまでは、とラウルが懇願して背負わせてもらっているのだ。
「おじいさん」
突然、ミュンヒオールが驚嘆の声を上げた。山脈の最も高い場所で、ラウルも思わず息をのむ。そこを境目として景色が一変したのであった。
山肌に、蒼然とした森林地帯が広がっていた。巨大な山脈に阻まれて、南の寒さが越えてはこないようである。銀世界であった南側一帯とは違って、隙間もないほど木々が並び、斜面を降り切った先には青々と茂る草原地帯が続いている。
目を凝らせば獣も躍動している。どうやらここが、かつて帝国を南北に分けた文明の境界〝未開〟であることが理解される。それは便宜上、帝国が名付けた名称であるはずなのだが、いつしか世界中全ての人に信じられている。おとぎ話でしか聞いたことのない、恋焦がれた地を目の当たりにして、ラウルの心はより一層奮い立った。
下りの傾斜に足を踏み出す。南側のそれよりも、随分と緩やかである。木々を掴めば真っ直ぐ駆け降りることもできそうだった。
背に負うたミュンヒオールが身じろぎをした。彼はラウルとドゥーチの会話を聞いていたらしく、不思議と怒りに身を任せているのだ。どこか青臭い正義感が、重責を押し付けてくる馬鹿げた大人達に反抗の意思を示しているのであった。
「おじいさんは、どうする気なんですか?」
そんな質問を重ねる。ラウルはしばらく曖昧な言を繰り返したのだが、どうやら北側の温暖な空気に包まれている内に口が軽くなったらしい。
「戻りたくないのう。一つでも話の種を作らねば、あの世でボミルカル公に顔向けできんわい」
それはまったくの本音であった。ミュンヒオールが鼻を鳴らした。どうやら吐くべき毒を腹におさめたらしい。もしかしたら蠱毒になるかもしれぬと思うと、苦笑いがラウルの面上に張り付いた。
「じゃあ、逃げるべきですね」
「うむ。それに、お前さんのこともあるわい」
「僕のこと?」
「どこで何をするにせよ、その端緒くらいは見届けねばならん。自分の居場所を作るため、そして守るために何をするのか……。あの世でお前さんの両親や兄達に会って、何をしたのか分からぬ、とは言えんだろうて」
普段のラウルからは到底考えられないような、後ろ向きの言葉の数々であった。その言葉の意味を一つずつ噛みしめて、ミュンヒオールは心の中にぶち込んだ。
偉大なる祖父――便宜上だが――は言うのだ。何かを勝ち取るためには、戦わなければならない、と。そして剣を持たないミュンヒオールが、いつ、どのような時に戦いに飛び込むのであろうか、と。
山を下りる。二日かかると言った親父の言葉は、どうやら誇張であったらしい。三、四時間もあれば、半分より下までくる。
地表近くになり、傾斜が緩くなってきたため、ミュンヒオールも下ろされた。彼は久方ぶりに踏む地面に、これまた喜びを示した。何度かくるくると回り、影の差す木立を抜けていく。それらの先には拓けた平原が待ち受けている。
その森の中を、うごめく影があった。何かから逃れるように慎重な足取りで、落ち葉を踏みしめる音が響いた。
ラウルが立ち止まり、音のする方に目を凝らす。影から出てきた男が、おずおずと声をかけてきた。
「もし、旅人さん」
ミュンヒオールが唖然とした。ラウルは口をつぐみ、険しい顔で男を見据える。
そこはまだ山肌の森林の中である。二人は馬車が通れる道があるとは思わなかったし、人がいるとも思わなかった。木立の隙間から朝日が漏れ、鳥や小動物が枝葉の隙間を飛び跳ねている。時折聞こえる自然の音のさなかで、三人は声もなく顔を見合わせた。
三者三様の驚きが通り過ぎると、途端に冷静になる。馬車を従えた男は、かつての故郷を視界におさめながら、服についた泥を落とした。彼は己が行商人だと述べた。眼下に広がる、雄大な平原を戦場として商売をしていたのだという。
その彼が、住処であり、商いの場である故郷を捨てて逃げようというのであった。
「この先、フュンヘン領へ行かれるのなら、どうかお気をつけて」
「何かあるのか?」
「はい。フュンヘン家の二人の兄弟が戦っております」
ミュンヒオールが端麗な顔を歪めたが、彼が何かを言うよりも早く、ラウルが問いを口にした。
「何故? 家督争いか?」
行商人が唸る。ある一面を見れば正当なのだろう。だが、別の面をみると、まったく違う。それをどう説明すべきか迷っているようだ。
しばらく考え込んでいたが、やがて考えをまとめたのか話を再開した。不明瞭になってしまうけれど、と付け加えたあとに。
「かつてこの辺りには、立派な王様がいたのです。それが共和国との戦いに借り出され、ものの見事に戦死してしまいました」
ラウルが頷いた。彼のことには気付いていないらしい。その王様を横死させた張本人かもしれないのに。行商人は、甘い昔日を夢想したようで、苦しげに髪の毛をかきむしった。
「王には二人の子供がいたのです。一人は優柔不断で、やや夢見がちなロガシ。これが兄です。今一人、弟の方はもう少し粗暴で、喧嘩ぱかりをふっかけてくる奴でした。名をダノといいます」
ダノ、という言葉を吐いた途端、行商人は顔を歪めた。何かを振り払うように、荷車の中を漁る。革袋を取り出し、中に入ったアルコール度数の強い果実酒を煽った。
その甘い香りにいざなわれつつ、行商人は天を仰いだ。二人は耳を傾け続ける。内容は、主に兄弟の確執についてだった。
「ロガシは慎重で革新的です。議会めいたものを創り、誰しもが発言できる場を提供しておりました。将来は民主制に移行したいようで、子供や学の無い者にまで政治とは何かを語っていたのです」
また一息。呼気に酒の甘い匂いが混じり、ミュンヒオールは鼻の頭にしわを寄せた。どうやら行商人の懸念は、この出来た兄ではなく、弟の方であるようだ。
「対してダノの方は、旧態然とした制度を取ろうとしています。彼らが属するフュンヘン家の一部の人間が政治的権力を握り、国政を動かそうというのです」
再び言葉を切った。喉を潤すように酒を飲む。そのかっとくる熱さにもだえながら、不明瞭になりつつある語尾を強めた。
「自然、二人は相いれず、喧嘩をする毎日でした。この二人の兄弟喧嘩であるならば、我々は許容することが出来たでしょう。しかし、それが互いの側近、庇護を受ける騎士や兵士、もしくは商人、市民へと広がるうちに、騒動は大きくなっていきました。今ではこのフュンヘン領を普く覆ってしまった。どちらの立場の人間か、と会話の最初に問いかけるのがお定まりのことなのです」
もしも帝国が現存していたのならば、たぶん彼らは皇帝に助けを求めただろう。己の思想の利を説いて、勅命を得ようとしたに違いない。しかし今、全ての問題は個人の手で解決されねばならない。彼らを守り、育んできた帝国は過去の産物となったのだから。
「で、お前さんはどちらなんだ?」
ラウルの瞳がたわむれに揺れた。行商人が青ざめた顔をミュンヒオールに向ける。彼は咳払いをした。ラウルが白髪をかきむしり、気を取り直すように質問を変えた。
「まあ、それはよいわい。で、この二人、どっちが優勢だ?」
「それは、あの。思想の優劣はともかく、戦争においてはダノの方が一枚も二枚も上手のようで……」
どうやら兄のロガシは連戦連敗しているらしい。戦っては敗れ、逃げるを繰り返している。生家であり、かつては家族で暮らしていたガロール城からも、すでに追い出されているという。ロガシはレボシ村という小さな村を拠点とし、ダノはガロール城の玉座に座った。戦局は最終局面へと移行したのだそうだ。
早晩、決着がつくだろう、というのが大方の見方であるようだ。ロガシ側の人間だったこの行商人も、ダノによる苛烈な処罰を恐れて逃げるのだ。
この行為にミュンヒオールは腹を立てた。若い身空の彼には、まだ保身というものの意味が分からなかったのだ。忠誠を誓ったのならば、最期の一瞬までその人間に尽くすべきだ、と思っていた。少なくとも尊敬する父や兄はラウルへの忠誠に殉じたのだから。
若いミュンヒオールの心を憤怒の炎が苛んだ。彼が浅慮であったなら、たぶん行商人を叱り飛ばしていただろう。主が困難に直面した途端に逃げ出す不忠者を殴りつけ、首根っこを捕まえて、まだ見ぬロガシの元へと引っ立てたに違いない。
しかし、どことなく後ろめたさと、屈辱に支配された行商人の顔を見ている内に、どうやら逃げ出すのにはわけがあるらしい、と知れた。
「ロガシに戦う意思がないのですね?」
それまで黙りこんでいた少年に突然問われて、行商人は驚いた。胸を抑えながら壊れた人形のように何度も首を上下させた。
「はい。もう趨勢はダノに傾いております。ロガシ様に味方する人間、つまりは平民や農民ですが、ダノは見せしめに彼らの財産や土地を奪い、腹心に与えるということまでしているのです。あの男は悪逆非道です。私の財産も奪われてしまいました」
つまり、行商人のように人知れず逃げる者は、僅かばかり清廉な心を持っているということだ。普通の人間はダノの元に走り、より多くの物資を得ようと画策しているのだから。
ミュンヒオールは、ますます激怒した。そのダノとかいう男の顔を拝んで、一発くらいお見舞いしても良いと思うほどには。
話が終わると、行商人はそそくさといなくなった。持てる財を全て荷車に積んだのだろう。といっても、馬車一台で運べる程度だ。調度品などは無く、ほとんどが彼の商売道具だった。話を聞かせてくれた礼に、とラウルが酒を一本買い、満足げに日に透かしていた。
行商人の背中が離れゆく。木立の隙間に隠れて見えなくなった頃、激憤を抱えるミュンヒオールが舌打ちをした。
「レボシ村に行きましょう」
その決然とした表情にラウルは瞠目した。幼い正義感を振りかざしているのかと思いきや、どうやらそれだけではないらしい。
「ほう?」
「だって、そうでしょう? 仮にも領主になろうという人が民から物を奪って、人心を反目させて。例え勝ったとしても、これじゃあ衰退するばかりですよ」
「だが、戦いの基本だろう? 敵の戦力を殺ぐ。味方の士気を上げる。それを順当に行なっておる」
ミュンヒオールが険しい顔をした。多少なりとも尊敬していた祖父が、まさか外道の輩を称賛するとは。義憤が槍の穂先となって、さかしまに少年らしい清廉な正義感を苛んだ。
一方で、ラウルは悩んでいた。どちらに与しようか、と。どちらに行ってもわだかまりは残る。されども傍観者として、無視を決め込めるほど世の中は甘くない。このまま素通りしても良いのだが、ミュンヒオールがそれを許してはくれないだろう。
そう思うと好奇心がわいてきた。避けられないのならば利用すればいい。
これは千載一遇の好機ではないか。ミュンヒオールが敗北必至のロガシの元へと馳せ参じ、どのように立ち回るのか。これは彼の度量を量る、良い機会だ。
なるほど、子供は思った以上に成長が早い。ラウルは笑った。ミュンヒオールは困惑していたが、けれどもその中に嫌なものを感じ取り、おずおずと口を開いた。
「おじいさん、まさか……」
ラウルが頷いた。
「うん。わし、ダノのところへ行こうかと」
「何を考えているんですか!?」
「何も考えていないわい。じゃなくて、お前さんと一勝負、してみたいと思ったんよ」
あっけらかんとした態度に、ミュンヒオールは半ば苛立ちながら、近くの木を蹴り飛ばした。そうすることでしか憤りを解放する術を知らなかった。
「一勝負って……。人が死ぬかもしれませんし、僕だって、お陀仏になるかもしれないんですよ?」
「承知の上だろ?」
「……まあ、そうですけど。でも、おじいさんがロガシの元に行けば、もしかしたら形勢が――」
ラウルが泰然と首を振った。その瞳には、かつて〝不敗の軍神〟と呼ばれた活力がみなぎっている。これを帝国軍人は相手していたのか、と思うと、何故だか憐憫が柳の枝のように天から垂れさがってくるのであった。
「わしは、お前さんが何を成すのかが見たいんよ。それで死んじまうのは仕方がない。でも、お前さんならば、何か出来ると思っている。その期待を裏切らんでほしいのう」
まったく馬鹿げた期待であるが、けれども悪い気はしなかった。なにしろ言った本人が海内無双の将軍なのだから。
ミュンヒオールは老いた親族の威圧感に頭を抱えた。けれども、首を振る力はない。躊躇いがちに、首肯するしかなかった。
「よし、男に二言はないからのう」
「……でも、僕は素人ですよ?」
「なあに、根性と武器があれば戦えるわい」
悠然と笑みをこぼしたラウルが、腰に帯びた鉄剣を手渡してくれた。たぶん、このフュンヘン領で最も質の良い武器であろう。また、ラウル・ヒルコンのお眼鏡にかなう代物なのだから、そうでなくてはならない。まだ血を吸っていないのか、澄んだ鈍色の刀身が日に晒されて煌めいている。その研ぎ澄まされた刃と偉大な祖父とを交互に見て、ミュンヒオールは怪訝な顔をした。
「本気、なんですね?」
「うん。戦場で会ったら手加減せんけどね」
二人は軽く手を合わせて、それから額を押し付け合った。
今生の別れになるかもしれぬ。もしかしたら、戦場で相見えず、またどこかで落ち合うかもしれぬ。それは不明だが、ともかくは鬱蒼と茂る森の中で二人の道が分かれた。
ミュンヒオールは兄ロガシの元へ。
ラウルは弟ダノの元へ。
二人の足取りは決して止まらず、完全に姿が見えなくなるまで、未練がましく振り返ったりはしなかった。




