10
ほどなくして、雪で塞いだ入口を叩く音が響いた。ミュンヒオールはすでに寝息を立てている。その体に毛布をかけてやり、ラウルは夜中にやってきた無粋な客を中に招き入れた。
やはり、ドゥーチだった。彼は五人の仲間と共に、ベクダール山脈を登って来たのだそうだ。雪に降られたようで、皆、黒々とした髪の毛やひげが白く染まっている。中には体の芯から震えている者もあり、この道中がいかに厳しいものであったのかが窺える。
ラウルと六人の闖入者は、半瞬にも満たない間、視線を交わした。
洞穴に足を踏み入れるなり、ドゥーチが片膝を突いた。寒さも忘れて深々とこうべを垂れ、ラウルに敬服の意を示す。
ぞんざいに頷いたラウルは、かつての部下の配慮の足らなさに、苛立たしげに舌打ちをした。彼らは慌てて雪で洞穴の入口を埋め、暖気が逃げないようにする。
「ラウル様」
再び膝を突き、にじり寄ってくるドゥーチは、どこか怯えているようだ。
その様子を見て、ラウルは内心で嘆息する。いつまで経っても小心で、己の意思を持てない男だ。人の下にいるうちはよいが、上に立った瞬間に愚昧さをさらけ出す。ラウルの一件に関しても同じだった。早々に引き揚げれば良いものを、南北を分かつベクダール山脈まで追いすがり、そしてまた取り逃がそうとしている。
「なんだ?」
スープの煮え具合を見ながら、そっけなく返す。それだけでドゥーチは喪心しかけたが、けれども、ここまで付いてきた五人の部下が彼の正気を辛うじて引きとめた。
「ぜひとも、共和国へお戻りいただきたく存じます」
やや間を空けて、深々とこうべを垂れた。他の五人も同じように、冷たい土の地面に額をこすりつける。
その無様な姿を見下ろしている内に、ラウルの心に冷厳な精神が宿った。この連中に大事な旅を台無しにされたのかと思うと、帝国に抱いたのとは違う憎悪がむくむくと湧き立つのであった。
まったく馬鹿げた話だ。これから発展していく新たな国が、もう終わった老人を無理やり引き立てようとする。
その理由も、いかにも馬鹿げている。共和国は民主制を採用する国である。その平等な制度を布いた国に、象徴として――お飾りとして――ラウルを置こうというのだ。彼は金銀を用いた王冠よりも劣る存在だ。発言権も、もしくは行動の自由もなく、朽ちるまで玉座に座らされる。もしかすると、朽ちたあとも縛られるかもしれぬ。
十歳から尽くしてきた見返りが、傀儡として死にゆく権利などとは。全く出来の悪い冗談であった。彼には老後の自由でさえも、この脳みそを持たない連中に奪われなければならないのだ。
もしもあと十年若かったなら、もしもミュンヒオールが近くにいなかったなら、彼はドゥーチ達を斬っていた。六人をこの場で殺し、どこかへ逃げ去っていた。そうしなかったのは、ひとえに老齢に差し掛かったという自覚と、穢れない少年に無用な血を見せたくはない、という使命であった。老年の自制心が凶事を防いでくれた。
感謝するがよい、とラウルは心の内で吐き捨てた。
「帰る気はない」
「しかし、あの国はボミルカル――」
ドゥーチの言葉を手で制した。一体どれほど繰り返しただろうか。ボミルカル、ヘンソン両公爵に帝国打倒の意思は無かった、と。しかし彼らは――両公爵をよく知らぬ者も――決して納得してはくれない。帝国打倒の端緒となった二人の偉大なる公爵には、やはり反骨の徒でいてほしいと願っているのだ。
両公爵をよく知るラウルの言よりも、ふざけた歴史家の言葉が信じられる。結果として、ドゥーチのような蒙昧な輩が生み出されてしまうのだ。
「わしは何度か言った筈だぞ」
両公爵に関わると、ラウルの炯眼に殺気が混じる。六人の追っ手はそれぞれ動揺しながら、この棺桶に片足を突っ込んでいる老骨の将軍を見つめた。
「……しかし、彼らは共和国を創ったのです」
「創ったのは別の人間だ。彼らは死出の旅路につくその瞬間まで、帝国貴族であった」
これも何度か繰り返した議論だ。そのたびにラウルは狂人扱いされてきた。両公爵の念願を、まったく理解していない愚蒙な人間だと。道理を理解しない人間ほど、ラウルを小馬鹿にするものである。そういう意味では、ドゥーチはましなのかもしれないが、性根が腐っていることに変わりはない。
「議長も帰ってきてほしい、と懇願されております」
「どうせ、二、三年しか議会におられぬではないか。国のことよりも、次の選挙とやらで自分の椅子が確保できるかどうかを心配せい」
ラウルの返答はつれない。もはや共和国で成すことはない。両公爵の名誉をかけて、帝国と雌雄を決した。それだけで彼の仕事は終わっているのだ。その後、国がどこに傾こうと罷り知らぬことであった。彼の関知せぬところ勝手にやればいい。
そういうラウルの考えを無視するように、ドゥーチが泣きそうな顔をした。
「けれども現在、共和国は根を下ろしたのです。どうかお見捨てくださらぬよう」
その甘ったれた意見をラウルは笑殺した。
「もう一人前に敵を殺したではないか」
その明快な喝破にドゥーチは黙りこんだ。未熟な子供だというのなら、敵を噛みころす真似など出来ようはずもない。帝国を崩壊せしめた以上、共和国はすでに青年へと成長しているのだ。でなければ、いつ国は育ち、そして大人になるというのか。
しばらく沈黙が停滞した。炎が段々と弱くなる。すでに煮立ったスープに視線を落とし、ラウルはぞんざいに吐き捨てた。
「そいつでも飲んで寝ろ。お前達の馬鹿げた言動に付き合っていたら、気が狂いそうだ」
ミュンヒオールの隣に寝ころがり、そのまま目を閉じた。あとは時間が経つのを待つばかりだ。
ドゥーチ達は突然の提案に狼狽していたが、上司でもあるラウルの行為を無下にする訳にもいかない。それぞれ困惑しながら、その薬入りのスープを飲み干した。
ほどなくして、寝息が聞こえてくる。宿の親父は腕が良いようだ。たちまちのうちに六人の戦士を眠りにつかせてみせた。いや、ミュンヒオールを含めれば七人だ。
ラウルはゆっくりと身を起こした。馬鹿げた連中が起きる様子はない。どうやらよほど疲れているらしく、心地よくいびきをかいている。ドゥーチでさえそれには抗いがたく、壁際に背を預けながら、眠りの海に船を漕ぎ出している。
素早く荷物をまとめる。火を消し、ドゥーチらの荷物も漁っておく。何に使うのかは知らないが縄が出てきたので、それで彼らの手を縛り上げた。余った分でドゥーチの足も雁字搦めにし、荷物とミュンヒオールを抱えあげた。
洞穴の入口を覆う雪の壁を蹴り壊す。途端に寒気が沁み込んできて、暖められた空気を外に追い出した。足先から来る寒さに身を強張らせつつ、ラウルは一度も振り返ることなく、その場を後にした。
外は夜明け間近だった。月が西に沈み、星空が東から徐々に薄れてゆく。頭上を染め上げた濃紺が、東から差し込む太陽光と混じり合い、紫、赤と色が移り変わってゆく。空際に浮かぶ分厚い雲が黄金色に染まっている。
緩やかに夜が終わり、朝が始まろうとしていた。最も冷え込む頃であった。吐く息が白くもやがかるどころか、髪の毛やひげについた湿気が瞬く間に凍りついた。
背中で身じろぎしたミュンヒオールを、しっかりと抱え直す。背丈は大きくなったが、精神はまだ子供だ。この子がどこで何を成すのか、共和国の命運よりも、そちらの方が気がかりだった。




