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ラウルは雪中を遅々と進んでいた。曇天は決して晴れたりしないが、その日は比較的穏やかであった。親父の忠告より、多少は風も、寒さも弱い。体の内から発せられる熱気に包まれ、ラウルは汗みずくになっていた。
彼は慎重に降り積もった雪をかき分け、足を一歩ずつ前にやる。まだその傾斜の百分の一も登っていないが、すでに指先は雪の冷たさで痛覚以外の感覚を失い、足は疲労に苛まれて痙攣し始めている。ロバのように鈍間な歩みは、時としてラウルの焦燥を駆りたてるが、けれども山道を急ぐわけにもいかない。毛布と上着とに包まれたミュンヒオールを背負っている以上、慎重でありすぎることはない。
表層の一つ下にある青みを帯びた雪は、多分に水を含んでおり、ラウルの全身は汗以外に、これによっても濡れている。ますます体温を奪われ、必然的に彼は体内の熱と外から斬りつける凍てつく大気とによって、相反する二つの作用のせめぎ合いを受けることとなった。
これはどうやら、ラウルの感覚を狂わせたようだ。歯がかみ合わぬほど震えているにもかかわらず、体はさらに赤みを帯びて、滝のように汗を流して排熱している。おかげでラウルは、寒いのか熱いのか、直感的に知ることが出来なかった。
結局、一日目は傾斜の中腹で終わった。辺りが暗くなり、視界が遮られたために進むのを諦めた。急いで雪をかき、簡易的な雪室を造る。
中に滞留した空気が、すぐに体を温めてくれる。それに至って、初めて己の体が寒気に凍えていたのだ、と知ることができた。汗は引き、代わりに耐え難いほどの震えが襲ってきた。すぐさま服を着て、ミュンヒオールも着替えさせてやる。
翌日、翌々日と、同じように傾斜を登った。ラウルの精神は豪胆で、そして高潔である。諦めというものを知らず、いつでも勇気を奮い立たせる。それと比例するように、彼の体もいまだ活力を有している。衰えたといっても、二十代と比べてである。同年代の人と比した場合、彼の体力は驚愕と共に受け入れられたに違いない。彼はミュンヒオールを抱えたまま、僅か三日で頂上を臨める位置までやってきた。
ちょうど雲が覆う一帯であった。綿布のように柔らかな印象を与えるそれが、眼前に飄々と浮かんでいた。
冷気を宿した灰色のもやを裂く。その一帯を越えると、さらに寒さが増す。ミュンヒオールの熱は引いていたが、けれども消耗した彼の体力は、いまだ戻らずにいた。意識はもうろうとしていて、まだラウルの背中で身じろぎ一つしない。一日に一度、宿の親父が調合してくれた薬を飲むのだが、それ以外では食欲もないらしく、ラウルが無理矢理口にねじ込むという日々が続いていた。
雲の地帯を越えると、急に頂上が見えてきた。すでに雲は眼下に置き去りになったのだが、そこで思わぬ誤算が生じた。
風である。猛烈な突風が吹きすさび、二人の前方を阻んでしまった。目を開けることも叶わず、ともすればミュンヒオールの体が吹っ飛びそうなほど強烈な力を持っている。ラウルは、この唯一の親族を強く抱きしめた。
(いやはや、失敗だったかのう……)
瞬刻、風に巻きあげられた雪に視界が覆われ、失望感が体を包んだ。山脈の頂上付近には洞穴がいくつかあるようだが、現時点ではまだ遠い。気力を振り絞って山を登るか、もしくは吹雪に晒されながら雪室を造るかだ。
寒空の下で遅疑に惑うことだけは避けねばならない。自分一人ならば良いが、調子の上がらないミュンヒオールを抱えて出来る芸当ではない。
やはり無理をさせるべきではなかったか? 宿の親父の好意に甘えて、ミュンヒオールを後から連れてきてもらうべきだっただろうか。歩きながら、ラウルは多少の後悔を覚えていた。己が命を落とすとも思えないが、しかしミュンヒオールはどうだろうか。不明であった。
他人のことは今でも分からない。だから女を欲する。男を口説くのは外道の神父だけだが、女を口説くのは誰でもできる。人のことが知りたくて近くに寄っても、さほどの不自然さはないだろう。
慟哭のような風の音と、肌に叩きつけられる凍風、そして巻きあげられた細雪とに根気と体力を奪われながら前を目指した。視界が蒼氷に閉ざされ、雪をかき分ける両の手と、大地を踏みしめる両の足の感覚だけが道を示す唯一の導となった。
ともかく、後悔をしてはいられない。背に負うたミュンヒオールが、微かな寝息を立てている。緩やかではあるが着実に体調はよくなっている。それだけを気力の糧にしながら、頂上を目指す。
その日の夜のことだった。澄みわたる欄干が頭上に広がり、灰色の雲が隔てる空際から月光が差し込む頃、やっと風がやんだ。二人の体に叩きつけられていた見えない力が、どうやら眼下に去ったようだった。
それまでの荒れ模様とは一転して、ともすれば春の日の明け方を思わせるような、やけに清涼な空気が辺りを包みだした。気温はそれほど変わっていないだろうに、風がやむだけで途端に暑く感じられる。汗が吹き出し、ラウルは上着を脱いだ。
懐から地図を取り出す。これは先人の犠牲の結晶だそうだ。宿の店主が、何かの助けになれば、と持たせてくれた。吹雪の中では役に立たないが、しかし視界が開ければ、使用できる。夜の帳が頭上を包んでいた。月を見、星を見て、地図に視線を落とす。月明かりが強く差し込んでいる。どうやら、すぐ近くに洞穴があるらしい。
山肌を駆けあがる。腰のあたりまで積もった雪に煩わされてはいた。だが、今では活力がみなぎってきて、僅かな障害も一飛びで越えられそうな気がする。
現に彼は、目の細かい、柔らかで水気を帯びた雪を片手でかき分けていた。霧中でもがくよりは幾分かましだ。手も足も、真っ赤に腫れて感覚を失くしているが、目的地がはっきりと見えていれば、それも瑣末なことであった。
やがて洞穴が見えてくる。ラウルの心はほっと一息ついた。中に入ってみると、仄暗い闇と空気の滞留した暖かさが体を包む。
乾いた場所を探して、ミュンヒオールを下ろした。
火を起こすため、道中で採集した濡れた枝を折る。燃えたあともしばらく燻ぶるばかりだったが、やや間があって、小さな炎が姿を現した。よほど空気の流れが少ないのか、その輪郭が揺れて乱れることは少ない。
ラウルが入口を雪で塞いでいると、後ろでもぞもぞと動く音がした。
「起きたか?」
内心で安堵の息を吐きながら、ミュンヒオールを見た。まだ意識は判然としていないようだが、一時期よりは良くなった。面上を踊る陰影が精悍さを際立たせているような気がする。そこに彼の父親の面影を見出して、ラウルはますます目を細めた。
「はい。その、ご迷惑をおかけしました」
案外殊勝な口ぶりは、父や兄に似てはいない。これも生い立ちのせいなのか、はたまた別のことなのかは判断がつかないが、控えめであることは明白だ。小さな焚火を間に挟んで、二人は向かい合って座った。
「いや、わしのせいだろうて」
ラウルが銀色の髪の毛をかいた。そこに普段のような軽さは無い。身内を危険に晒したという後ろめたさが、陽気な心を苛んでいた。罵られるのは覚悟の上だが、しかし強く言われると泣きそうな気がする。彼はそっと、唯一の親族を窺った。
ミュンヒオールは、いかなる状況下でも気が利く人間である。ラウルを一瞥したものの、物も言わずに薬を一粒飲み込んだ。その土と草の臭いがむき出しになった味わいに顔をしかめたのち、さらに荷物を漁る。
「置いていかれたら、おじいさんをぶん殴っているところでしたよ」
しばらく間を置いて放った声に力強さは無いが、徐々に元通りになりつつはあるらしい。よく見れば血色も良く、ラウルが思ったより深刻な状態でなかった。
どうやらここ二日ばかりは、わざわざ動かず、寝て過ごしただけのようだった。自分が足手まといになることが分かっていたから、ラウルの背中に身を委ねていたのだという。
そのミュンヒオールの言は、概ね正しいものであった。一旦体を動かし出すと、いつもの通り、配慮の行き届いた少年に戻っている。小さな鍋を火にくべ、雪と干し肉、それに干した野菜類を放り込む。それと同時にラウルの方にも水を飲ませ、干した果物などを食ませた。
その澱みない動作に感服していたが、不意に遠くから、風の音に紛れて聞こえてくる人の声に、ラウルは顔をしかめた。
傍らでは水が沸き、ミュンヒオールが夕食の準備をしている。他方遠くでは、どうやら二人を追っていた連中が追いついたようだった。親父が裏切ったとは思えないが、予想以上の速度で追ってきたらしい。
その性急さに苛立ちながら、ラウルは荷物をよこすよう告げた。ミュンヒオールが怪訝な顔をする。彼は洞窟の壁面に置いていた荷物を取り出し、投げてよこした。
「何があったんです?」
「いや、これからあるんよ」
「……何がですか?」
「ドゥーチが追いついたらしい」
ミュンヒオールが眉をひそめた。洞穴に逃げ場はない。どうやら彼らは、ラウルが通ってきた道を順路通りに辿ってきたらしい。彼が切り開いた道を追っ手は難無く通って来たことになる。その執念にラウルは苛立たしい顔をした。
「分かりました」
ミュンヒオールが頷いた。彼はしばらく悩んでいたが、やがて意を決するように薬の入った筒を傾けた。宿の親父が調合してくれたもので、ミュンヒオールの体調を良好なものへと導いてくれた代物である。残りは十粒ほどだった。
それを手のひらに出し、全てを鍋の中に入れる。もちろん効く保証はないが、どうやら安眠作用のある植物が混ぜ込まれているようだった。それがここ二日ばかり、ミュンヒオールが大人しく眠り続けられた理由だった。
「万一の時は、僕を抱えて逃げてください」
その口ぶりにラウルは笑った。どうやら置いていかれる気はないようだ。ミュンヒオールはすでに大欠伸をしているから、すぐに眠りにつくだろう。それを抱えて歩くことなど、ラウルにとっては造作もない。




