二重奏
そして次の日。
またしてもサユカは、弦楽四重奏の時間が近づくと、腹痛を起こして帰ってしまった。
バッハイシバシが、オケ部員たちを前に、指揮台の上で困り顔をしながら言った。
「お嬢様は、またご不例か。王子様と組ませたのは、まずかったかな。お嬢様にとっては、いい勉強になるかと思ったんだが……裏目に出てしまったか」
すでに事情は、シューヤから聞いて知っている。
「仕方ない。お嬢様が復帰できるかどうか分からんから、別な曲を候補にしておこう。トウジョウジ」
「はい」
「バッハの無伴奏チェロ組曲、第五番は得意だったよな?」
「はい……?」
「ちょっと弾いてみてくれ」
シューヤは、すうーっ、と大きく息を吸い込むと、出だしの重厚な和音を力強く弾きだした。続いて、ゆったりと、重々しく、荘厳な音がホールに響き渡る。その場にいるオケ部員全員が、思わず息を飲んだ。
シューヤのチェロからは、豊かな濃褐色をしたコーヒーのような、透明感がありながら深くて柔らかい、木のぬくもりが感じられるいい音が次々と紡ぎだされてくる。
無伴奏チェロ組曲第五番ハ短調、第一曲プレリュード。
最初の序奏部分は、まるで大海の、大きくうねり、押し寄せる波のように、聞く者の心にぐいぐいと迫ってきた。
やがて序奏部が終わって、今度はリズミカルに歯切れよく、三拍子の主題が奏されるフーガ部分に入る。軽快な調子でありながら、やはりその色調はハ短調の荘重さを失ってはいない。どこか暗く悲劇的な色彩を帯びながら、主題が繰り返し出てくる。だんだんと曲想は複雑さを増していき、一個の巨大な建築物が構築されていく様にも似た、見事に立体的に構成された演奏が展開されていった。
あのトーマイヤーでさえ、そのあまりの見事さにすっかり聞き惚れてしまっている。
最後に、悲痛な心の叫びとも取れる音型でいっそう悲劇的色調が高まり、クライマックスを築き上げて、そして終止の和音へとなだれこんだ。
長く余韻をひいて、最後の音が虚空へと消えていった。
しばらく経ってから、誰かがぱらぱら、と拍手をし始めた。それにつられて、全員が拍手を始めた。オケ部員総勢で50名ほどしかいなかったが、ホール全体を包み込むほどの大きな拍手の渦が巻き起こったのである。
「うわ~、相変わらずすごいわ、シューヤ」
感心するリユナの後ろで、小柄なコアが、
「シューヤ先輩、カッコ良すぎますぅ、シューヤ先輩、神ですぅ」
涙を流して一人、感激していた。
「あぁ、この子、シューヤ目当てだったのね……」
リユナが納得した。バッハイシバシがシューヤに話しかける。
「お嬢様が戻らない場合、それをプログラムの演目に加えることになるから、そのつもりで練習しておいてくれ。さて、王子様と、それにユズノハには、だな」
バッハイシバシがタブレット端末を操作した。
「この曲でも、練習しててもらおうか」
トーマイヤーとリユナが、バッハイシバシのタブレット端末を覗き込んだ。
画面に表示されている曲は、モーツァルト作曲、ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲第一番ト長調KV423だった。
「さて、この曲は」
室内楽室で二人きりになった、トーマイヤーとリユナだった。
「室内楽とはいえ、ヴァイオリンとヴィオラだけの二重奏、という珍しい形式になっている。リユナは、この曲は知ってた?」
「ううん、知らなかった。こんな曲も、あるのね……」
「それじゃ、初めから合わせてみようか」
二人とも楽器を構えて、お互いに呼吸を窺う。トーマイヤーの合図で、最初の和音をジャン、と鳴らした。続いてヴァイオリンが、16分音符とそれから装飾音のついた8分音符による、華々しい音型を奏でる。その次は、ヴァイオリンが付点音符の優雅なメロディーをヴィオラの伴奏に乗せて……。
の、筈だったが、リユナのヴィオラの音がどうも色艶がなく、ガサゴソしている。
「リユナ」
演奏を中止した。
「はいっ!?」
「もっと、歌わなくちゃダメだ」
「う、歌う……?」
「そう。もっと、ぼくのメロディーをよく聴いて。頭の中で、一緒に歌いながら伴奏するんだよ。いいかい?」
「わ、分かった。やってみる」
もう一度、少し前の、ヴァイオリンが16分音符で降りてくるところからやり直し。
(こ、こうかな?)
リユナは、必死でトーマイヤーの主旋律に耳を傾けた。
(あっ、なんだか……)
気持ちが、トーマイヤーの奏でる歌に、同調したような気がした。
(トーマくんの歌に、吸い込まれていくみたい……)
指が自然に動いて、きれいなヴィヴラートが掛かる。
それまでとは見違えるような、深みのある琥珀色をした、いかにもヴィオラらしい優しい音が、リユナの楽器から溢れ出してきた。
今度は、トーマイヤーも演奏を止めないで弾き続けた。
やがて、優美な第二主題がヴァイオリンに現れる。リユナはトーマイヤーの歌と心をひとつにして、ぴったりと寄り添うように伴奏した。次はヴィオラが同じ第二主題を奏する番である。伴奏に回ったトーマイヤーのヴァイオリンに乗って、リユナのヴィオラが……吠えた。
「……!?」
演奏が中止された。
「……リユナ」
「う、はい?」
「ちょっと、主題だからと力が入りすぎたようだね」
「う、うん……」
「自分がメロディーだ、とか意気込まないで、それまでと同じような感覚で弾けばいいんだよ。むしろ力を抜いて。ぼくが伴奏で支えているから、それに乗ってくれれば、大丈夫」
「そ、そうか。分かった」
ヴァイオリンの第二主題から、やり直し。
(伴奏してたときと同じ感じで……意気込まずに、力を抜く)
今度は、トーマイヤーの宙に浮かぶような軽やかな伴奏にうまく乗って、すんなりとメロディーを弾き始めることができた。しかも、力を抜いた方が、よく通る大きな音が出る。
(すごい! 弾きやすい)
曲は順調に進み、いかにもモーツァルト風な音型で曲を盛り上げ、提示部の終わりまできた。
とりあえず、そこでいったん休止。
「リユナ、ずいぶん良くなったじゃないか」
「え、えへへ……あたしは、何も。トーマくんの、おかげだよ」
「あっ、そういえば」
「なに?」
「ぼくも携帯電話を持ってきたんだった」
「え、もう!? (ホントに持ってきちゃったよ……)」
トーマイヤーが、ポケットから何か取りだした。
それは、携帯電話とも、スマートフォンとも違う形状をしているように、リユナには見えた。かなり小さめな本体に、携帯電話のようなボタンがついているだけである。画面がなかった。
トーマイヤーは、その機械のボタンを、何もない空中を見つめながら操作している。
リユナは、なんだかよくわからなくなった。
「ねえ、トーマくん、それって、ケータイなの?」
「ああ、これかい? これはね」
トーマイヤーが、手にしている機械の向きを変えて、操作する側をリユナの方に向けた。
「うわ!」
なんと、空中に画面がホログラフで浮かび上がっているではないか。しかも、操作する人の方向から見ないと、見えないようになっている。
「わが国最大の電子機器メーカー、クリグラエレクトロニクス社が開発した、ホログラフ投影画面式の、新しい携帯電話だよ。ホログラフォン、っていうんだ。リユナも、携帯を出して」
「……え、あ、うん(すごい……なにかが、すごいわ)」
トーマイヤーは、宙に浮かび上がった画面上で、赤外線通信のアイコンをクリックした。
ピッ。
お互いに顔を見合わせて、ちょっとほほ笑んだ。
「じゃ、練習の続き!」
「はいっ!」
その夜。
リユナは、自室でくつろぎながら、トーマイヤーにメールしてみた。
今日は練習楽しかったぁ。どぅもぁりがとね♪
トーマくん、今なにしてたかな?
送信。
(今なにしてた、はマズかったかしら……)
送信してから、少し不安になる。
返信を待つこと、しばし。
来ない。
携帯を睨みつつ、待つが、来ない。いつまで経っても、返信はなかった。
「う~、期待した、あたしがバカだったかぁ~。あ~、もう寝よ寝よ」
布団をかぶって、その夜は寝てしまった。
次の朝。
リユナはのろのろと起きだして、携帯電話を何気なく見た。
新着メール 一件
「んっ!?」
慌ててメールを確認すると、差出人はトーマイヤー。着信時間は夜中の二時を過ぎた頃。
リユナ、すまない。公務で忙しくて、メールする時間がなかった。
また練習頑張ろう。
「トーマくん……夜中まで、公務で忙しいなんて……王子様って、意外と大変なのね……」
そしてしみじみと、携帯を胸に抱いた。




