その8
居間に入ってくるなり兄が雄たけびを上げた。
「うおおおお、これはすげーな。おい、『タンバ』、お前、すげーぞ。これが彩の部屋だとは信じられん」
「お兄ちゃん、うるさい!」
そこまで言うなんて失礼じゃないの? そりゃ、私だって自分の部屋だとは思えないけどさ。
「ありがとうございます」
『タンバ』がいつもと変わらぬ口調で礼を言った。
キスの言い訳は後にしよう。時間稼ぎができてほっとした反面、残された時間を兄に奪われると思うとがっかりだ。兄の事をすっかり忘れていた。お掃除ロボットなんて面白そうなものを借りておいて、この人が見に来ないわけがない。
案の定、兄はにやにやした顔でタンバを見つめている。
「おい、『タンバ』」
「はい」
「お前、ほんとにすげーよ。予想以上だ。さすが俺が見込んだだけのことはある。彩も俺に感謝しろよ」
「お兄ちゃんが掃除したわけじゃないでしょ? 偉そうに言わないで」
「ああ? お前は何を言ってるんだ? 俺が頼み込んで借りてやったんだぞ」
「それはそうだけどさ」
「気に入ったんだろう?」
「まあね」
「それだけか? 『タンバ』がいなくちゃもうお掃除できないわ、って泣いてる頃だと思ったんだがなあ」
「そ、そんなわけないでしょ?」
半分は当ってたので、慌ててて兄から顔をそむけた。
「なあんだ。苦労して借りたわりにはそんなもんか。それじゃ、こんなことしても怒らないよな?」
そう言うなり、兄は『タンバ』に向かって走り出した。いつも理解のできない行動で周りを驚かせる兄だったが、今回は本当に理解不能だった。『タンバ』に駆け寄ると、プロレス技を、それもラリアットを食らわせようとしたのだ。
『タンバ』は素早く体をひねり、間一髪でかわしたが、肝を冷やした私は悲鳴を上げた。
「お兄ちゃん! 何するの? 『タンバ』が壊れたらどうするのよ?」
だが、兄は私の顔を引きつったような表情で見ると、くつくつと笑い始めた。最初は小声で笑っていたが、やがて腹を押さえてひいひい言い出した。呼吸が苦しいらしく目には涙を浮かべている。
「ちょっと、何がおかしいのよ? 弁償するお金なんて持ってないくせに」
私の言葉に兄の発作はクライマックスに達した。涙だけでなく鼻水まで垂れ流して肩を震わせている。我慢できなくなった私はティッシュの束を掴むと、兄の顔面にねじ込んでやった。 何なのよ、この人は?
「あ、彩……」
顔を拭きながら兄がかすれた声で言った。ちょっと、笑いすぎだってば。
「お前さ……」
「何よ?」
「……本当に『タンバ』がロボットだって信じてるのか?」
「え?」
「だからさ、本気でこいつがお掃除ロボットだって思ってるの?」
兄が再び笑い出す。
――や、や……やられたあああああ!!!
私はがくりと床に膝をついた。
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思い起こせば、兄の企むいたずらには、幼い頃から見事にひっかかり続けている。宇宙人が攻めてきたと言われて信じ、今日からはお札が紙切れになったと言われて信じ、屋根裏にミイラがあったと言われて信じた。うちの池の鯉には二百万円の価値があったと言われて信じ、水道水に殺人バクテリアが混入したと言われて信じた。
私の信じやすさには病的なものがあった。一旦信じると少々おかしなところがあっても自分で理由をつけて納得してしまう。何度も詐欺や悪徳商法にひっかかりかけて、カウンセリングまで受けた。
自分でも気をつけてるつもりなのに、ここまでありえない話にあっさりひっかかるなんて。兄の名前が出た時点で疑うべきだったのだ。
「やっぱりお前は馬鹿だな。こんなすげーロボットなんて今の科学技術で作れっこないだろう?」
「だ、だ、だからそう言ったでしょ?」
「でも、信じていましたね」
真顔で口を挟んだ『タンバ』を、私は思い切り睨みつけた。
「そう言うあなたは誰なのよ?」
「僕はタンバです。丹頂鶴の丹に波と書いて丹波です」
苗字かい。
「じゃ、じゃあ、た、丹波……さん、あなた、お兄ちゃんに頼まれて二日間もロボットのフリをして働いてたって言うの?」
「はい、そうです」
相変わらず表情も変えず、彼は淡々と答えた。
「ロボットの真似なんてしなくても、普通に掃除を手伝いに来てくれれば済むことでしょう?」
「だって、いくらお前が馬鹿でも若い男に寝室の掃除まではさせないだろう? 掃除機ロボットだって言えば気を許すんじゃないかと思ったんだよ」
ティッシュで鼻を拭きながら、さも馬鹿にしたような口調で兄が言った。
そ、そ、そうだ……。この人に私のプライバシー、全部覗かれちゃったんだ。自作小説も読まれたし、持ってる下着も全部見られた。それどころじゃない、抱き合って、キ、キ、キスまでしちゃったよう! それも私の方から襲った形で……。
頭がくらくらして床にぺたりと座り込んだ。
「じ、じゃあ、女の人を雇えばよかったじゃない」
「違うんだよ。こいつが来たがったの。お前の部屋が汚いって言ったら、どうしても掃除したいって、きかないんだ」
私は丹波と名乗る男を睨みつけた。
「どうしてよ? あなた、変態なの? 掃除フェチ?」
「そうじゃないって。こいつ、お前が好きなんだよ」
「ええ?」
「な、丹波、そうだろう?」
「はい、そうなんです」
今まで表情一つ変えなかった丹波さんが少しだけ赤くなった。でもその目はじっと私を見つめている。一緒に掃除している時も、よくそうやって私の動きを見ていた。その意味に気付いて心臓がドキドキし始める。
「で、でも、会ったこともない人に、そんなこと言われても……」
兄がまた笑いだした。
「お前さあ、本当に丹波、覚えてねえの? 俺の一年後輩でさ、よくうちに遊びに来てただろう?」
覚えてない……。こんなイケメンがいたら、絶対に覚えている自信がある。
「一緒に花火とかバーベキューとかしたはずだぜ」
兄はすっきりと片付いた本棚からアルバムを引っ張り出し、パラパラとページをめくった。
「ほら、これだ」
それは高校で兄が所属していた野球部の試合の写真だった。指差した先には坊主頭の小柄な少年が写っている。
「だって、これ、タンコブじゃないの」
思わず少年のあだ名を呼んだら、丹波さんはまた少し赤くなった。
「野球部は坊主頭の決まりでしたからね」
丹波さんってタンコブだったんだ……。確かにタンコブはきれいな顔をした男の子だった。でも背もちっちゃくて、お兄ちゃんの使いっ走りやプロレス技の相手をさせられて、私より一つ年上だったのに異性として意識したことは一度もなかった。高校を出ると他県の大学へ行ったので、それからは見かけなくなったんだ。
「だ、だからってロボットのフリした理由にはならないでしょ?」
私は気を取り直して本題に戻った。
「だから、お前を油断させるためだって言っただろう? お前、すっかり男を信用しなくなっちまったからな、人間じゃないことにしろって、こいつに言ったんだ」
「やだあ、お兄ちゃんって馬鹿? そんな漫画みたいな手が通じるとでも思ったの?」
「通じたじゃないか」
私は黙った。惨敗だ。
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「で、どうするんだ? こいつと付き合うか?」
黙り込んだ私に向かい、兄が明るい口調で話しかけた。何言ってんだ、こいつ?
「そんなはずないでしょ? こんなことされて、私、すごく怒ってるんだからね」
「いいんですよ。すぐに決めていただかなくても」
丹波さんが立ち上がった。
「そろそろ、僕は失礼します。では彩さん、日曜日に」
兄が目を丸くする。
「あれ、いつの間にデートの約束なんてしたんだ?」
「してないわよ。怒ってるって言ったでしょ?」
「朝の七時に迎えに来ますね」
「だから、あなたとデートなんてしないって言ってるの」
それに七時って何よ。どこの馬鹿がそんな早朝からデートに出かけるって言うの?
「違います。不用品の処分については後で考えると言ったでしょう? 緑地公園のフリーマーケットのスペースを予約したんです。日曜日に売りに行きましょう」
「で、でもね」
「それでは、彩さんがあれをすべてオークションに出品するというのですか?」
ううっ。私は壁際に聳え立つダンボールの山を眺めた。そんなの無理に決まってるじゃない……。
「七時に来ます。八時には出発しますので、支度をしておいてくださいね」
丹波さんは礼儀正しく頭を下げると、昨日と同じように巨大なスーツケースを引っ張って出て行った。
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ドアの閉まる音が聞こえると、兄が言った。
「あいつ、駄目か? 不器用だけどいい奴だぜ」
「あの人のどこが不器用なのよ? あれが不器用なら、私なんて終わってるでしょ?」
「まあ、確かにな」
「問題はそれじゃないの。二日間も騙され続けてたこと」
「ああ、そっちか。気持ちは分かるけど、お前もいい加減にさあ……」
「お兄ちゃんに分かるわけないでしょ?」
――分かってたら……こんなことできるわけがない。騙されるのはもうたくさん。
「……正直に言うとな、丹波にロボットのフリをさせたのは、お前をからかうためじゃない。あいつのためなんだ」
「はあ? 散々私のこと笑ってたくせに、何言ってるの? もう黙ってて。わけわかんないよ」
急に吐き気とめまいがしてきた。ひどくなる前に薬を飲んだほうがいいかも。
心療内科で貰った薬、どこに入れたっけ。最近は必要なかったから、どこかにしまいこんだんだ。『タンバ』に見られちゃったかな。違う、『タンバ』じゃない、丹波さんだ。ああ、何もかもどうでもよくなってきた。
私はふらふらとソファに腰を下ろした。ソファの上には青いクッションが残されている。
「ねえ、これ何が入ってるのよ?」
兄が笑った。
「それ、いい具合にミステリアスだろ。お前が触りまくるだろうと思ってな、俺が作ったんだ」
私はドッキングステーションを頭上高く持ち上げると、思い切り兄の頭に振り下ろした。