その6
翌日、七時半ぴったりに『タンバ』は現れた。スーツケースを運び込むと、早速ゴミ出しにかかる。二階の部屋からアパート前のゴミステーションまで二人で十往復はした。居間にはまだ不用品の詰まったダンボール箱が積み重ねてあったが、ゴミ袋の山が消えるとずいぶんと広々として見えた。
部屋に戻るとまだ眠気の覚めない私はコーヒーを飲み、『タンバ』が今日の予定を再確認した。まずは『いる物ボックス』に残されたものを収納しなおす。それからアパート中の残った汚れを掃除して最後の仕上げ。寝室は昨日の段階でかなり片付いたので、今日は居間から始めることにした。 なんだかわくわくする。
彼は丁寧に収納の仕方を教えてくれた。でも一番のポイントは物を少なく保つこと。無理に場所を作って押し込んでも、結局は使わないことの方が多いんだから。
『タンバ』は私の悪いところははっきりと指摘してくれる。相手が掃除のプロだというのもあるけれど、言われても腹も立たないし、かえってそれが心地よい。昔付き合った男たちは、普段は何も言わないくせに、別れる時になって溜まった不満をぶつけてきた。自分に欠点があるのは重々分かっているから、次の相手こそはと気をつけるのだけど、今度は気を使いすぎて疲れてしまう。
今まで男の人といて、こんなにリラックスできたことってなかったな。ううん、心から気を許せた相手は一人だけいたけれど……。
「どうされました?」
箱の上にかがみ込んだまま手を止めていた私に『タンバ』が話しかけた。
「ごめん、ちょっと考え事しちゃった」
「分からないことがありますか?」
「ううん、世間の男の人がみんな『タンバ』みたいだったら気楽なのになあ、って思ってたの」
「それは褒め言葉と受け取ってよろしいのですか?」
「うん」
「ありがとうございます。具体的にどのような点を気に入られたのでしょうか?」
「何? また製品のリサーチ?」
「はい」
「そうだなあ。辛抱強く付き合ってくれるところかな? 私と一緒に二日も掃除したら、どんな男でも絶対にイライラすると思うんだ」
「彩さんにイライラされるのですか?」
「うん。私って人に合わせるのが下手みたい。それに、とにかく片付けができないでしょ? 嫌われるのも無理もないけどね」
「それで嫌な思いをされたのですか?」
「ううん、そういうわけじゃないの。昨日の話、覚えてるんだ」
「はい」
「何があったのか知りたい?」
「彩さんさえ構わなければ教えてください」
いつの間にか『タンバ』は私の隣に正座して聞く体勢に入っている。その様子がなんだかおかしくて、思わず笑ってしまった。
「一年半ほど前にね、取材先で知り合った人と付き合ってたの。私が何をやっても笑ってくれる人でね、大人だし、優しいし、その人のこと、凄く好きになっちゃった。でも、ある日、気付いたら貯金を使い込まれてたの。競馬で作った借金を女から奪った金で返してたのね。それからは男の人と付き合うのが面倒になってさ、誰に出会っても、この人、何が欲しいんだろうって疑っちゃうの。馬鹿みたいでしょ?」
ほんと、私って馬鹿みたい。いくら話しやすいからって、どうして掃除機に向かって打ち明け話なんてしてるんだろう。
「それにね、自分にも自信が持てなくなっちゃった。私と本気で付き合える人なんて、どこにもいないんだと思う」
ぽろりと本音が口を衝いた。今まで認めたことなんてなかったのに。自分は自分だからと胸を張って生きてきた。いつかは認めてくれる人が現れると思ってた。でもそんなの、心の底じゃ信じてなかったんだ。
『タンバ』は視線をそらさずにじっと聞いている。私の話、理解してるのかな?
「私は……」
しばらくして『タンバ』がゆっくりと言った。
「彩さんは素晴らしい女性だと思いますよ」
「どうせお客様は褒めなきゃならない規則なんでしょ?」
「はい、そうです」
彼は素直にうなずいた。それを認めちゃ褒める意味ないってば。
「ですが、彩さんとの掃除はとても楽しいです。掃除は楽しくなければなりませんからね」
その言葉に心の奥がじわっと暖かくなった。目頭が熱くなって、慌てて手の甲で押さえた。
「どうかされましたか?」
「ううん、片付けちゃおうよ。私もやっと掃除が楽しくなってきたところなんだ」
そうしたら『タンバ』が笑った。信じられないことだけど笑ったのだ。掃除機のくせに。
その笑顔があまりに優しかったので、また涙が出そうになった。
************************
居間とキッチンを終えたところでお昼になった。私は簡単な昼食をとり、『タンバ』は水を飲んだ。
「後は寝室とバスルームだね。この調子だと時間通りに終わるかな?」
「まだ窓ガラスとサッシの清掃が残っています。ほかにも清掃したい場所はたくさんあるのですが、優先順位の低いものまでは手が回らないでしょう」
「そうなの? じゃ、またレンタルしてもいい?」
「いえ、それは難しいと思います。昨日もお話したとおり私は試作機なので、本来ならば個人宅に貸し出されることはありません。今回は特別なケースなのです」
「そっか、残念だな」
「申し訳ありません」
私ったら、そんなにがっかりしてどうするの。ここにいるのはただの掃除機だよ。まあ、ただの掃除機とはちょっと違うけど、いや、かなり違うけど、物凄く格好いいし、気も効くけど、それでも掃除機なんだよ。たとえまた会えたとしても、どうなるわけでもないでしょう?
************************
収納作業が全て終わり、『タンバ』には休むように言われたが、せっかく気持ちも乗っているところだったので彼と並んで掃除を続けた。窓を磨きながらもついつい彼の方に目をやってしまう。掃除機がまた笑うんじゃないかと期待している自分に気付いて苦笑した。
こんなにいい男が掃除機だなんて世の中うまくいかないものだ。どうしてここまで無駄に格好いいんだろう。掃除機なんてスターウォーズのロボットみたいなので十分じゃない。仕事の効率が上がるどころか、気が散ってしかたない。
「疲れたのではないですか?」
『タンバ』が私の顔を覗き込んでいたので、飛び上がった。知らず知らずのうちにため息を漏らしていたのを聞かれたようだ。
「気付かなくてすみません。休憩にしましょう」
彼は私の手から雑巾を取り上げようとした。
「まだ大丈夫だから」
「いえ、もうすぐ三時ですから、お茶にします」
彼は雑巾を握り締める私の手を、自分の左手でそっと押さえた。彼の手が触れたところが熱い。彼の顔から目が離せない。
「どうされましたか?」
……どうしたんでしょうね? 私にもわかりません。誰か説明してください。
「私の顔に何かついているのですか?」
「う、うん。鼻の頭が汚れてる」
彼は下を向いて作業着のポケットからハンカチを取り出した。視線がそれたとたんに呪縛が解け、慌てて彼から離れる。でも胸の動悸は止まらない。それどころかますます激しくなるばかり。
ああ、まずいよ。これはまずい。この気持ちには嫌になるほど覚えがある。私は恋をしてしまったらしい。よりによって、レンタル期間が残り二時間しかない試作品の掃除機に。