その5
「痛い!」
おでこを壁にぶつけて私は呻いた。不用品に押し潰される直前に『タンバ』が私を突き飛ばしたのだ。彼はそのまま私の体に覆い被さり、崩れ落ちた物がフローリングの床に叩き付けられる凄まじい音が響いた。
「ご無事ですか?」
耳元で彼の声がした。その声に不安の色が混じっているのに気付き、どきりとする。私の頭は彼の両腕と胸と壁の間の空間にすっぽりと収まっていた。顔を上げれば彼の顔がすぐ目の前にあった。透き通った茶色の瞳が私の顔を覗き込んでいる。
うひゃあ! 格好よすぎる……。掃除機だろうがなんだろうが格好いいものは格好いい。
彼の唇が動いた。
「……さん? お怪我はないですか?」
「え?」
「どこか痛いのですか?」
だ、だめだ。不覚にも、またもや『タンバ』に目を奪われてしまった。
「あ、ありがとう。大丈夫みたい」
「そうですか。よかったです」
よかったです、に合わせて彼の両腕に力がこもり、私の頭は彼の胸にぎゅうっと押し付けられた。
――えええ?
それはほんの僅かな間で、彼はすぐに私を立ち上がらせると、床に散らかったものを拾い始めた。ありとあらゆるものが玄関ホール中に散乱していた。こまごまとした物に混じって、古いプリンタやFAXマシンも転がっている。
「重いものが当たらなくてよかったですね」
「『タンバ』は? 何も当らなかった?」
「はい」
スチール製の書類箱が壁ぎわに転がっているのに気付いてぞっとした。二人とも無事でいられたとは奇跡みたいなものだ。
それにしてもさっきのはなんだったんだろう? 一瞬、抱きしめられた気がしたんだけど。胸の動悸が収まらないのは危険な目に遭ったせいだけじゃない。
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戸棚の整理が終わると、『タンバ』は『決められない物ボックス』からテニスラケットを拾い上げた。
「これは残しておきましょう。彩さんはあまり身体を動かさないお仕事をされていますから、早急に運動を始めることをお勧めします。一旦体脂肪がついてしまうと、簡単には落とせません。その上、服のサイズが変わると余分な出費が増えてしまいます」
心なしか『タンバ』の視線が私の腰周りをよぎった気がした。人が気にしていることをずばりと言ってくれる。
「毎日の生活に規則正しいエクササイズを取り入れるのは容易なことではありません。ですが、その点テニスでしたら近所にクラブやテニスコートもありますし、気軽に始めやすいのではないかと思います」
気に入って買ったラケットなので本当は手放したくなかったのだ。テニスを始めるかどうかは置いておいて、ありがたく残しておくことにした。それにしても、掃除機に警告されてしまうほど太って見えるとは……。原稿を書くときに甘いものをつまむのはもうやめよう。
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さて、全ての不用品が居間の床に集められると、『タンバ』はスーツケースに戻ってハタキを取り出した。私に使い捨てのマスクを渡し、自分でもマスクをつける。
「お掃除ロボットにもマスクがいるの?」
「フィルターが目詰まりすると困るでしょう?」
「はあ」
息をしているのだから、埃も入るってことだろう。
窓を全部開け放つと、まだ冷たい春の風が流れ込んでくる。タンバはハタキを握り、天井から壁、そして家具とリズムよく掃って行った。埃がもうもうと舞い上がる。その後、彼はすべての部屋に掃除機をかけ、家具や床を雑巾で拭きあげた。
並んで掃除をしながらも、彼の無駄のない動きについつい見とれてしまう。わざと格好良く作ってあると言うのだから、遠慮なく鑑賞させてもらっちゃおう。学生時代、憧れの先輩をこっそり盗み見ていたのを思い出す。
けれども先輩とは違い、『タンバ』は実に頻繁に私の方を見た。そして、そのたびに目が合った。
「どうされましたか?」
五度目に目が合ったとき、さすがに気になったのか彼が尋ねた。
「あ、あの、掃除機が掃除機をかけてるとこって初めて見たなあと思って」
「彩さんは面白い事を言うのですね」
「う、うん」
苦し紛れの冗談だったが、彼には通じたようだ。どんだけ高性能なのよ? 兄が『スゲー』を連発したのも無理はない。
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外からの風が冷たくなってきたので『タンバ』はすべての窓を閉めた。どの部屋も床に置かれたダンボール箱を除けば、見違えるほどにすっきりとしている。
「今日はこれで終わりにしましょう」
掃除用具を片付けながら『タンバ』が言った。
「明日は残った物を収納場所に収め直します。このままの状態にしておいてくださいね」
「今夜はやることないから、片付け始めてもいいけど」
「いえ、今までのような収納方法では元の木阿弥になってしまいます。明日は効率のよい収納の仕方についてご説明させていただきますので、私が来るまでは必要な物以外には手を触れないでください」
「そ、そうだね。分かりました」
思いっきり釘を刺されてしまった。信用されてないんだな。まあ、無理はないけどね。私には彼を感心させるような真似は出来そうにない。
「ゴミの収集は午前八時ですので、明日は七時半に参ります。それでは失礼いたします」
疲れなど全く見えない顔でお辞儀をすると、スーツケースを引っ張って『タンバ』は出て行った。
一方、どっと疲れを感じた私はソファに寝転ぼうとして、ドッキングステーションが残されているのに気が付いた。
真っ青なクッションを持ち上げてみればずっしりと重い。縫い目はあるけどファスナーはなかった。振っても音はしないが、中に硬くて平らなものが収められているのが分かる。これで充電するということはバッテリーが入ってるのかな? どういう仕組みなんだろう? ハイテク機器を壊しちゃまずいので、ドッキングステーションを元に位置に戻し、その隣に座った。
疲れたけど、楽しかったな。この部屋でこんなに長い時間、誰かと過ごしたのは初めてだ。物が減って部屋もがらんとしたけれど、それとは別に何かが足りない気がした。一人でいるのって、こんなにも寂しいものだったっけ?




