その13
帰りの車の中では会話らしい会話はなかった。丹波さんは何度か気遣いの言葉をかけてくれたけど、それ以外は運転に集中しているようだった。彼の表情からは何を考えているのか読みとれない。
アパートにつくと、丹波さんはダンボール箱を運び込み、玄関の脇の収納棚にきちんと片付けてくれた。
「あの、あがっていっても構いませんか?」
収納の扉を閉めながら、おずおずと彼が尋ねた。二日間かけて家の隅々まで掃除したくせに、いまさら遠慮するなんて。正体のわからない不安を感じながらも、私は彼を居間に通した。
「お茶、入れるね」
「いえ。先に話したい事があるんです」
「なに?」
「彩さん」
「はい」
「僕の今日の目標は、彩さんを付き合ってくれるよう説得することだったのですが……」
「じゃ、目的は達成したね」
重苦しい空気に耐えられず、私は少しおどけた口調で答えた。
「いえ、それはもういいんです」
もう……いいって? この人、また意味のわからないことを言い出しちゃったよ。
「え、ええと、じゃあ、もう私とは付き合わなくてもいいっていうこと?」
「はい」
何なのよ? あれだけはっきりと好きだって言ってたのに。やっぱりこの人、私にはわからない。緑地公園での私の態度が気に入らなかったの?
「……どうしてなの? 理由を聞いてもいい?」
「無駄なことに時間を費やしたくないからです」
「無駄?」
「それじゃ全然間に合いませんから」
「間に合わない?」
さっぱり理解できないまま、私は彼の言葉をいちいち繰り返した。
「はい。そんな悠長なことをしていては間に合わないんです。だから僕は彩さんと結婚することにしました」
「結婚? ……ええっ?」
もしかして私、プロポーズされてるの? 丹波さんの変人ぶりには慣れたつもりでいたけれど、彼はどこまでも斜め上を突き進んでいく。
「え、ええと……」
「なにか問題がありますか?」
問題、問題って……
「……ちょっと……考えてみる」
考えてみるもなにもないでしょ? 即断るべきだよ。会って三日で結婚なんて言ってくる男、頭がおかしいに決まってる。その上、この人、三日のうちの二日間は掃除機だったんだよ。彼と結婚するって? この超のつく変人と毎日一緒に暮らすって? 振り回されっぱなしになるのは目に見えてるでしょう?
でも……楽しいだろうな。だって今日一日、とても楽しかったから。彼と過ごす時間が楽しくて仕方なかったから。
一緒の部屋で暮らして、彼が仕事に行くのを見送って、自分の仕事の合間にご飯を作って、彼を出迎えてお帰りって言って、平日はその繰り返し。でも、週末はずっと一緒に過ごす。断る理由があるの? 彼なら私を幸せにしてくれる。きっと……きっと?
『結婚しよう』
あの男も同じ事を言った。私達の新居になるはずだったマンションの部屋で。狭いけれども日当たりのいい五階の部屋で。あの時まで……あの瞬間までは私は幸せの絶頂にいたんだ。
何かが床の上で砕け散った。重いクリスタルの灰皿だ。
お前みたいな女、一生独身に決まってんだろ。正体知ったら誰だってひくわ
愛してると言ってくれた口から次々と吐きだされる暴言に耳を塞ぐ。
どんだけ我慢したと思ってるわけ? 夢見させてやっただけありがたく思えよ。
彼の手が私の腕を掴む。腕が振り上げられ私の横面を叩いた。耳に激痛が走り、床に転がった私の上に彼の全体重がのしかかる……
「彩さん」
優しく揺すられて私は丹波さんの顔に意識を戻した。彼が私の顔を覗き込んでいる。眉をわずかに寄せて。
「大丈夫ですか?」
大丈夫じゃない。握り締めた拳の中は脂汗で濡れている。首を振る私を彼がぎゅっと抱き寄せた。強く強く抱き締められて、恐怖が徐々にひいていく。腕の中で震える私の耳元で彼がささやいた。
「彩さん、それはすべて終わったことなんですよ。僕のところに戻ってきてください」
ーーえ?
「フラッシュバックを起こしたんでしょう?」
「……知ってるの?」
「ええ、知っています」
「……どこまで……?」
「彩さんが先輩と警察に話したことならすべて知っています」
「お兄ちゃん、そんなことまで話したの?」
「はい。あの事件の後、しばらくしてから悪夢やフラッシュバックに悩まされるようになった。PTSDと診断されたのに、治療を受けるのを避けてるようだ、って」
私がこの事を知られるのを何よりも嫌がっているのは、兄が一番知っている。お兄ちゃん、そこまで丹波さんを信頼しているの?
彼は私の顔を見つめた。
「先輩に彩さんを支えてやってほしいと言われました」
「なによ、それ? お兄ちゃんに言われて引き受けたの?」
「はい。だって全部、僕のせいですから」
「丹波さんのせい? どうして?」
「僕がさっさと彩さんに会いに来なかったからです。彩さんがあんな奴に出会う前に僕が勇気を出さなかったのがいけないんです」
「……丹波さん、言ってることおかしいよ。めちゃくちゃだよ。第一、丹波さんに先に出会ったからって、好きになったかどうかもわからないでしょ?」
「彩さんは本当にそう思ってますか?」
そう思うかって? こんなおかしな人に突然告白されたらきっとお断りしてたはず。確かにさっきまではそう思ってたよ。でも……
「……ううん。時間はもっとかかったかもしれないけど、きっと丹波さんのこと、好きになったと思う」
「ほら、やっぱり僕のせいじゃないですか」
丹波さんが笑った。わけのわからない理屈を通されてしまった。さっきはもう会わないなんて言ってたくせにすっかり自信つけちゃって、やっぱりあなた、おかしいよ。
「だから結婚しようって言ったの?」
「そうですよ。いつも一緒にいなくては支えるもなにもないでしょう? 僕に責任を取らせてください」
「はい」って言っちゃいたい。彼の不思議で素敵な世界で私も暮らしたい。
でもね、やっぱり……
「ごめんなさい。それはできないの」
「どうしてですか?」
私はためらった。丹波さんを傷つけたくはない。けれども彼には正直に話そう。これだけ真摯に私と向き合ってくれたんだから。
でも……こんな事を言ってもわかってもらえるんだうか? 私は大きく息を吸い込み、口調を改めて話し始めた。
「私、緑地公園でもパニックを起こしたんです。フラッシュバックが襲ってきて……」
「貧血だと言った時ですね。そうじゃないかと思ってました」
「いつもは何かの光景や、強い感情の揺れが引き金となるんです。でも、あの時は何が引き金になったのか、見当もつきませんでした」
「今は……分かったんですか?」
「はい、今、丹波さんにプロポーズされて、確信しました」
「なんだったんですか?」
「引き金は……丹波さんです」
「僕?」
「ううん、正確にいえば、自分も幸せになれるかもっていう実感なんだと思います」
「どうしてですか? フラッシュバックはネガティブな感情が引き起こすものでしょう?」
「はい。幸せへの予感と、それが壊れてしまうんじゃないかという不安です。幸せの絶頂で裏切られることへの恐怖なんです。だから、私にはもう人を好きになることはできません」
「彩さんは……僕が彩さんを捨てると思ってるんですか? 僕はあなたを裏切ったりしません。どうか信じてください」
「ごめんなさい。無理なんです。だって丹波さん、二日間も私を騙してたでしょう? 『タンバ』は……『タンバ』なら絶対に嘘ついたりしないって信じてたのに」
ああ、言ってしまった。ごめんなさい、丹波さん。でもね、やっぱりショックだったんだ。二日間も騙されてたのが。兄に騙されるのは仕方がないと諦めている。でも好きな人に騙されるのはたまらない。
彼は二度と私を騙しはしないだろう。頭では分かってる。けれども彼のした事は、心の傷のかさぶたを全部剥ぎ取ってしまった。むき出しになった傷からはまた赤い血が滲み出す。外気にさらされた傷がじくじくと以前にも増して痛むのだ。
あの夜、いくら騙されやすい私でもさすがに疑いを押さえきれなくなった。震える手で彼の携帯を調べると何人もの女性からのメールが並んでいた。「早くお金を返してよ」同じような文面が何通も何通も……。隣に眠る彼を残して部屋を出て深夜の通りを泣きながら駅に向かった。電車なんてもう走ってないのに。
次に会ったとき、彼はもう私の知る彼ではなかった。すぐに兄が来てくれなかったら私はどうなっていただろう。
顔をあげれば丹波さんが見つめていた。
「先輩から彩さんが男に騙されてたって聞いたとき、酷いことする奴もいるものだと思いました。でも、僕も同じことしてたんですね。彩さんに会えるというだけで嬉しくて、調子に乗っちゃったんです」
彼は深く頭を下げた。
「今は……本当に申し訳ない事をしたと思います。すみませんでした」
「いいんです。もう……行ってください」
丹波さんは部屋から出て行った。やがて玄関のドアが静かに閉まる音が聞こえた。