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その12

 ああ、参った。頭がぼーっとしてるのは、春の陽気のせいじゃない。丹波さんに抱きつかれたのは実に三回目なのだが、今回は作業着ではなく薄いTシャツごしだったので細身のわりには筋肉質なのが判明したり、かすかに汗のにおいがしたりして、ドキドキ要素が満載だったのだ。


 あれから彼は顔が合うたびに笑顔になった。今朝からの彼の落ち着いた態度に、余裕綽々で口説いてるんだろうとちょっぴり腹立たしく感じていたのだけど、現実はその正反対だったのだ。私に嫌われていないとわかるまで、不安で不安で仕方なかったんだろう。


 自分はおかしな奴だって、今までの女性はみんな去って行ったって、今朝も話してたじゃないの。でも、やっぱり彼の外見と『フラれる』という言葉は結びつかない。見かけに騙されて、まさか丹波さんに自信がないだなんて想像もしなかった。申し訳ないことしちゃったな。


 あの後すぐに、私が困った顔をした(ように見えた)のは照れてたからだと説明した。認めるのは恥ずかしかったけれど、彼の誤解をそのままにしておくわけにはいかない。彼はほのかに赤くなって、自分の早とちりを詫びた。 私を恥ずかしがらるような発言をした覚えはないようで、その事を告げるとひどく驚いていた。つまり、いつまた直球発言が飛んできてもおかしくないということだ。


 時刻は二時を回ろうとしていた。丹波さんは売り物の整頓を怠らない。きちんと並べてあるだけで、品物までよく見えてしまうから不思議なものだ。客足は減ったとは言え、立ち止まってくれる人は結構いる。今も初老の女性が食器を買ってくれたようだ。


 新聞紙でお皿を包みながら丹波さんが振り返った。


「彩さん、セロテープはどこですか?」


「あ、ごめんなさい」


 いつものごとく、使ってそのまま転がしておいたので、テープは売り物の中にまぎれていた。今日ぐらいはだらしない所を見せないように気をつけてたつもりなんだけどな。あの部屋を見られた以上、取り繕っても意味ないか。


 急いで手渡すと彼は笑顔で礼を言った。いちいち笑わないでよ。自分の笑顔にどれほどの破壊力があるのか、自覚がないのが恐ろしい。


 いまだに信じられないことだけど、この綺麗で不思議な男の人は、何年も前から私に恋をしているのだ。その上、三日間かけて私の醜態を見せつけられたにも関わらずその気持ちに揺るぎはないらしい。

 どんどん彼に惹かれていく。来週も会うって言ったけど、きっとその次の週にも会いたくなるだろう。そしてそのまた次の週もその更に次の週にも。でも……その先は? その先には何が待っているの?



 その時だった。耳元でなにかが壊れる音が響いた。続いて男の怒鳴る声。頭の左側を衝撃が襲い、耳の奥に激痛が走る。


――違う、これは現実じゃない。


 これはフラッシュバック。私の脳が過去の忌まわしい出来事を再現しているだけ。落ち着いて。騙されちゃだめ。


 けれども込み上げる恐怖は紛れもない本物で、私の心臓をぎりぎりと絞めつけ始める。


 世界が色彩を失った。足元が揺らぎ、セピアの太陽が頭上をよぎる。周りを歩く人々の姿ははっきりと見えるのに彼らの声は恐ろしく遠い。この場所から離れなきゃ。呼吸ができなくなる前に、絶望に呑みこまれる前に。


 何歩か進んだところで膝をついた。ここから、ここから、逃げなくちゃいけないのに……。顔を上げると丹波さんの背中が目の前にあった。



 お客さんを見送った彼がくるりと振り返る。そして、眉を寄せた。


「彩さん? 顔が青いですよ」


「大丈夫です」


 心配させたくなくて、なんとか返事をする。呼吸を整えようとするのにうまくいかない。


「暑さに当ったのかもしれません。救護室に行きますか?」


「いえ、大丈夫だから……」


「彩さん?」


 彼は私の顔を覗き込んだ。人形みたいにきれいで、黙っていれば冷たい感じさえするのに、その瞳は春の色を映して温かい。


 思わず手を伸ばして彼の腕を掴んだ。触れたところから温かみが広がっていく。 丹波さんは私の前に膝をつき、しっかりと手を握ってくれた。不安も恐怖も嘘のように引いていく。彼という存在が今日の日差しみたいに心の中を暖めてくれる。


「ありがとう、もうおさまりました」


 自分自身に言い聞かせるように言うと、私は大きく息をついた。



――でも、どうして? どうして今、フラッシュバックが襲ってくるの?


 引き金になるものなんて見ていない。辛い記憶を呼び覚ます物は全て避けるように細心の注意を払ってきたんだから。



「ごめんなさい。貧血を起こしたみたい。しばらく座ってるね」


「では、もう引き上げましょう」


「駄目だよ、せっかく来たのに」


「どうせ二時過ぎには片付け始めるつもりだったんです。彩さんはあそこのベンチで休んでてください」


「いいよ、手伝うよ」


「いけません。ほら、行きましょう」


『タンバ』と同じ厳しい口調。逆らっても無駄みたい。


「失礼します」


 立ち上がったとたん、彼にいきなり抱え上げられた。ちょ、ちょっと、丹波さん?


「自分で歩けます!」


「いいえ、また気分が悪くなったらどうするんですか。転びでもしたら危ないですよ」


 私の身体を自分の胸にしっかりと押しつけると、彼はすたすたと歩き出した。これは世に言うお姫様抱っこでは? こっちの方がずっと心臓に悪いのだけど。


 周りの人達が興味津々で見てるけど、丹波さんは気にしない。隣の女子高生たちは大喜びだ。私は抱きかかえられたまま木陰のベンチへと運ばれ、彼が片付けるのを眺めることになった。


 離れてても丹波さん、目立つなあ。売れ残りはあっという間にダンボール箱の中に収まった。時々私の方を向いては大きく手を振るので、そのたびに周りの人もつられたようにこっちを見る。ああ、恥ずかしすぎる。


 やがてダンボール箱を抱えて丹波さんは消えた。車に積み込みに行ったのだ。と思ったらすぐに駆け足で戻ってきた。私を残していったのが気がかりだったらしい。


「彩さん、気分はどうですか?」


「全然平気だよ。ごめんね、心配かけて」


「すぐに帰りますか? それともマーケットを見て行きますか? 終了前ですから安くなってますよ」


「見たいけど……買ったらまた物が増えるでしょ?」


「一つ買ったら一つ減らせばいいんです。物を買うこと自体が悪いのではありませんよ」


 そう言った丹波さんがあまりに『タンバ』そのものだったので、私は思わず吹き出した。


「どうしましたか?」


「ううん。『タンバ』がいなくなって寂しかったんだけど、寂しがることなんてなかったみたいだね」

「言ったでしょう? 僕と『タンバ』はそんなに変わらないって」


 彼はすっと手を伸ばし私の左手を取った。あまりに自然な動きだったので避ける暇もない。手を握られただけなのに、顔が熱くなる。恥ずかしさに顔をそらしてから思い直し、彼の顔を見上げたら、思った通り眉をちょっとだけ寄せて私を見ている。


「これは困った顔じゃなくて照れてる顔だから」


「そうじゃないかとは思ったんですが、判断が難しいですね」


 安心したようににっこり笑うと、彼は私の手をひいて歩き出した。



          ************************



「うわ、きれいな色」


 『なにもかも半額!』と書かれた衣類の山から薄緑のシフォンのワンピースを引っ張り出して、私は声を上げた。早速鏡の前に立って胸に当ててみる。


「これどう?」


 私は丹波さんの方を向いて意見を求めた。おかしな人だけど彼のセンスは信頼してる。


「色もデザインも彩さんにとても良く合ってますよ。すごくかわいく見えます。いえ、元々すごくかわいいんですが、その……」


「あ、あ、ありがとう。よくわかりました」


 こんな時、男って『いいんじゃない』とか『うん、似合うよ』とか気のない返事で済ませるものじゃないの? 丹波さんの返事を予想できなかった私が甘いんだけどさ。売り子の女の子も笑いをこらえてる。ああ、もう、恥ずかし過ぎるよ。


 丹波さんは私の手からワンピースを取り上げ、慣れた手つきでタグや縫製をチェックすると、ジーンズのポケットから財布を取り出した。


「これ、ください」


「え? 自分で払うよ」


「せっかくだからプレゼントさせてください」


「で、でも」


「あ、もしかして女性に古着を贈るのも失礼でしたか?」


「いえ、そんなことないです。じゃあ、ありがたく受け取ります」


 彼の眉が寄ったので私は慌てて言った。遠慮するような値段でもないのだけど、丹波さんに服を買ってもらうのはなんとなく照れくさい。


「ありがとう。来週も暖かかったらこれを着てくるね」


「どこへ行きましょうか? 次はちゃんとした場所へ誘いたいんですが」


 丹波さんのちゃんとした場所ってどこだろう。不安だけどとても気になる。


「そうだ、今日の売り上げで遊びに行こうよ。丹波さんにお礼もしたいからぱーっと全部使っちゃおう」


「全部ですか? ちょっとした日帰り旅行が出来るぐらいありますよ」


「じゃあ、行く?」


 丹波さんは私を見下ろした。


「少しは僕のこと、好きになってもらえたみたいですね」


「そうだね。かなり好きになったと思う」


「でもやっぱり、僕のこと、変だと思ってますよね?」


「思ってる。でもそれもひっくるめて好きみたい」


 丹波さんは笑って、私の手を握った。



 胸の鼓動が激しくなる。でも……これは……違う。さっきと同じ……またあれが起きようとしている。



咄嗟に彼の手を振り払い、後ろに下がった。


「彩さん?」


「ごめんなさい。また気持ち悪くなっちゃって」


 悪意に満ちた黒い影が、獲物を見失い通り過ぎていくのを感じる。早くどこかへ行って。私に構わないで。


「……彩さん、よく貧血を起こすんですか?」


「え? あ、うん。たまにね」


「そうですか。では、もう帰りましょう」


 彼は右手を差し出しかけて一瞬ためらった。私は見なかったフリをして、先にたって歩き出す。


 ああ、泣きたいよ。好きになっちゃったのに、すごく好きになっちゃったのに、どうして今になって気づかなくちゃならないの?


 禍々しいフラッシュバックの引き金が、丹波さんだということに。

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