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三国志自由研究

曹操は何故、赤壁に軍を進めたのか?

作者: 練り消し

208年冬に行われた曹操軍対孫権・劉備連合軍との赤壁の戦い。

三国志演義では80万とも100万とも言われる曹操の大軍を相手に、

僅か数万でしかない孫権・劉備の軍が火計で破り、

奇跡の大勝を収めた戦いとして、

映画『レッドクリフ』などでも有名だが、

しかし史実では本当に、どういう戦いであったかも

実は良くわかっていない。


先ずその赤壁という場所からして、

未だハッキリここだという特定にまでは至っていない。


『三国志』の蜀書、劉備の伝には、両軍が赤壁で戦って、

曹操軍を大破した上で軍船を燃やしたと書かれているのだが、

関連史書毎に少しずつ記述が違い、

細かいことは不明のままだ。


演義の赤壁の戦いは、

元末、1363年に起った朱元璋と陳友諒との『鄱陽湖の戦い』が

モデルになったと言われる。

『鄱陽湖の戦い』では、

大軍60万の軍勢に巨艦数百艘の大船団を率いてやって来た陳友諒軍に対し、

20万の軍勢に小艦中心で編成された朱元璋が、鄱陽湖の北岸のほうで

艦隊決戦を行った。


しかし陳軍の艦隊は大船だったが小回りが利かず、

逆に朱軍のほうは小船の機動力と、火力を活かした戦いで

戦況を有利に進めていった。

そしてそこからさらに、戦い3日目に入って、

にわかに巻き起こった東南の風とともに、

朱元璋は陳友諒の陣に向かって火船7艘を突入させる。

すると陳軍の船団は巨艦同士を集めて鎖で繋いで陣としていたため、

折からの強風とも相まってたちまち大炎上。

「煙焰漲天,海水皆赤」といった、

まさに映画さながらの大海戦となったのだった。


一方、三国志の赤壁の戦いのほうでは、

赤壁で戦いが行われたのは間違いないのだが、

ただそれが水軍船だったのかどうかもハッキリとせず、

周瑜伝では、孫権軍は赤壁で曹操軍と対峙し、

曹操軍は初めに一度交戦をしたものの敗退し、それだけで長江の北に

引き返していってしまったという。

周瑜は長江の南岸のほうに陣を構えていた。

するとそこに部将の黄蓋が進言し、例の敵船団焼き討ちの計を

持ち掛けてくる。

曹操軍の船団は船の先と、船尾の後ろの部分をくっ付けて

並べた状態になっているから、

そこに火を放てば敵を追い返すことができると。

周瑜はその案を採用し、

黄蓋は予め曹操に(偽りの)降服をすると手紙を送った上で、

蒙衝・闘艦数十艘を選び、

その中に薪や草を詰め込んで膏油を注ぎ、

後は火を付けて一斉に敵船団に向かって突っ込ませた。

曹操軍艦隊は一気に燃え上がり、

強風に煽られたその火は、岸の上の敵陣営にまで延焼して

燃え広がっていった。

同時に周瑜も軽装の精鋭と共に対岸に上陸し、

軍鼓を打ち鳴らしつつ後方から混乱する敵に追い討ちを掛け、

曹操軍を江陵城にまで追い払ったと言う。


圧倒的大軍の敵を前に、

少数の呉軍が一発大逆転の奇策で打ち勝つというのが、

いわゆる“赤壁の戦い”の一番の醍醐味なのだが、

だが実際には、

そもそもそこまでの戦力差自体、なかったものと思われる。

大軍ではあったことは間違いないが、

それでも100万~80万ということは決してありえない。


しかし大勢的には曹操軍が荊州牧・劉表の死後、

その荊州に乗り込み占領したことで、

曹操の天下統一はもう、殆ど決まってしまったことは確かだった。


曹操は荊州を手に入れたことで呉への多方面侵攻が可能となり、

一方、攻め込まれる呉軍のほうでは敵の侵入に

ただでさえ少ない戦力が分散し、

完全にお手上げ状態となってしまう。


しかも曹操軍の呉軍侵攻の際、益州牧の劉璋までが、曹操の軍役に応じ、

人数を差し出して送っていたという。

詰まり曹操は荊州はおろか、蜀の地まで手に入れていたも

同然だったと言っていい。


だから呉国軍内でも筆頭宰相格の張昭を中心に、

殆ど臣下の全てが降伏論で固まっていた。


曹操軍の天下統一も目前だった筈なのだが、

が・・・、

それでも魏の参謀達の中には賈クなど、

曹操の呉侵攻作戦に強く反対する者達がいた。


何故彼らが反対したかと言うと、単純に兵力が足りなかったから。


これはかなり意外に思えるだろうが、実際そうだった。

だから賈詡は呉を攻めるのに3年待てと言い、

しかし曹操はその言葉を聞かず、

呉への即時出兵を断行してしまう。


何故、曹操はそんなことをしたのか・・・?


が、実はこの状況はかつて、

曹操と袁紹が戦った官渡の戦いの時と非常に良く似ていて、

その時袁紹軍は曹操軍に対し、十倍の戦力を有して

圧倒的優位に立っていたのだが、

やはり参謀の沮授と田豊が短期決戦の危険性を訴え、

袁紹に対し持久戦を主張していた。

その期間も全く同じく3年。

3年も待てばその時はもはや戦争にも及ばず、

曹操軍を枯れ死にさせることができるからと。


官渡戦の際の袁紹軍の兵力は十万。

これはほぼ確定。

一方で曹操軍のほうはたったの一万。

しかし流石にこれは少な過ぎだとして議論されるのだが、

ただ実際にでは、どれだけだったのかとなると、

良くわからない。


しかしこれは確かに、おかしい。

袁紹は華北の四州を制していたが、曹操だって青・徐・豫・揚・司と、

版図の領有の広さでは袁紹軍にだって負けてはいない。

それで何で10対1と、

動員兵力にそこまで差が開くのか?

それが絶対におかしい。


が、

これは曹操の持つ、自領に対しての実効支配の問題だった様である。

曹操は広く領地を持っていたが、

それらの地域はほぼ地元豪族達の請負に任せる間接統治で、

自らの直轄地として支配していた訳ではなかった。


その理由は何故かと言えば、

それくらい、曹操は彼の領内に於ける領民達からの信望に著しく欠け、

政治家としての支持率に乏しかったから。


それも不人気だなんて生優しいレベルではなく、

殆ど“0”。


実際、兗州では呂布の起こした叛乱の際に、

州内の9割以上が敵に回るという大反乱を起こされたりしていて、

詰まり現実にも一割に満たぬ支持率しか無かった。

さらに徐州では曹操軍による凄惨な大虐殺が行われた。

詰まり単純にそれくらい曹操はもう、

領主として領民達から激しく嫌い抜かれていた。


曹操は自ら漢の献帝を迎え入れてからは、

本拠地をそれまでの兗州済陰郡の鄄城から、豫州潁川郡の許城を都として、

自分も一緒に本拠を移したが、

だから有体を言えば、曹操はエン州でも徐州でも、

余りにメチャクチャなことをし過ぎてその地には居られなくなったといったほうが

実情に近いと言えるだろう。


そして何と驚くべきことに、

曹操が実効支配していた領地はほぼ、

その潁川一郡のみだった。


それは曹操の息子の曹丕が漢の献帝から禅譲を受けて、

魏の初代皇帝となった後に発した詔の中で言われた

言葉の内容から窺い知ることができる。

その詔の中で曹丕は往年の官渡戦の頃を振り返り、

「官渡の役では周囲の殆どが傍観して事態の様子を窺っていただけだったが、

しかし潁川の一郡だけは、良く義を守り、若い者から老弱の者達までが

武器や食料を運んで尽くしてくれた・・・」云々などと語っていた。

(魏書載詔曰「潁川、先帝所由起兵征伐也。官渡之役、四方瓦解、遠近顧望、

而此郡守義、丁壯荷戈、老弱負糧。・・・」)


官渡の戦いの頃、嘗ての曹操軍の本拠地だった兗州は、

同州の出身で東中郎将・済陰太守の程昱が、都督兗州事として

州の支配を任されていたが、

しかしその兗州の長官である程昱が官渡の戦いの際、

彼の居城の鄄城で率いていた兵が、何とたったの700人である。


詰まり全一州でたったの700人しか兵が集められなかった。


これはもう本当に700人で、

余りに少な過ぎて侵攻して来た袁紹軍から攻められることさえなく、

鄄城はそのまま無視されて素通りされる程だった。

しかも程昱はその後、山中や沼沢に戸籍を逃れて潜んで隠れていた逸民達を

無理矢理人さらいまでして捕まえて、

それでやっと数千人を確保して曹操と合流したという。


また他にも『張遼伝』には曹操が袁紹を破った時、

張遼が豫州魯国の諸県を平定したとあり、

詰まり魯国ではもう傍観などではなく、ハッキリ曹操に

反乱をしていたことがわかる。


だからいわゆる“魏武の強”と言われるその本当の始まりも、

それは青州兵の吸収からではなく、

袁紹軍を倒してその人数十万の兵とギョウの城を得てからのこととなるのだが、

とにかく当時、官渡戦役の頃の曹操軍の置かれた状況とは、

それくらい酷い有様だった。


これならまあ、曹操軍と袁紹軍で10倍の開きが出て来ても不思議ではなかったが、

が、

それでも流石に10対1では、満足に敵の足さえ止めることもできず、

曹操軍は城の中で包囲される以外、ない筈なのだが、

にも関わらず曹操軍は官渡の城から度々出撃して、

袁紹の遠征軍を迎え撃っていた。

しかもその際、

大兵力で東西数十里に渡る陣を布いた袁紹軍に対し、

曹操軍のほうでも城から出て、陣営を分けて敵と向かい合って戦ったという。

結局敗れて官渡の砦に引き返す結果となったが、

それでも10対1でそんなことはとても無理だろう。


嘗て反董卓連合の際に、各国相・郡太守達が集めた兵が

大体2~3万人程だったので、

まあ官渡戦の頃の曹操軍の実効支配が潁川一郡だったとして、

およそそのくらいの兵士数はいたのではないか。

10万の敵に対し、

前線で両翼から突破されずにギリギリ防ぎ止められるだけの兵力・・・。


で、

赤壁の戦いの際の魏軍と呉軍の戦いでも、

呉軍は少数と言いながらも長江の対岸に陣を構えて敵を迎え撃ち、

それ以上、曹操軍に両翼から突破されることはなかった。

その時の呉軍は3万。

これもほぼ確定。

しかしその3万に対し100万~80万の大軍では、

絶対に両端から突破されてしまう。

これは考えられない。

仮に100万もいたのであれば、3万の敵に対し、

例えば10万ずつ10方向から侵攻していったほうが遥かに効率が高い。

そもそも曹操軍の侵攻が荊州方面の一方向からしかなかったということが詰まり、

多方面にまでは軍を振り分けられる程の兵士数がなかったということの

証だといえる。


『江表伝』では、その中で周瑜が、

曹操軍が15・6万、それに降伏させた劉表軍の兵が大体7・8万くらいだと

言っている。

合わせると22~24万。

だいぶ落ち着いたが、しかしこれでもまだ多い。

何故かというと、

その遥か後の279年、晋が呉を滅ぼした戦いに於いて、

晋は六路20万という大軍で侵攻し、

それでやっと呉を降伏させた。


詰まり20万以上いれば呉を攻め滅ぼすことが可能になってしまう。


だからもう官渡の戦いと赤壁の戦いの際の両軍の

兵力関係をほぼ同数と見て、

大体10万対3万くらいの戦いだったのではないかと・・・。


結局赤壁の曹操は官渡の袁紹と全く同じ過ちを犯して、

今度は自分のほうが負けてしまったということになる。

しかし曹操はまさに、自分が直接目の当たりにした致命的な失敗事例を、

また同じ様に自分が繰り返すという、

何故、曹操は賈クの助言通りに大人しく従えず、

軍備の増強を待たずに呉との勝負を急いだのか?

その、彼が待てなかった理由とは一体何だったのか・・・?


それで、

実は赤壁の戦いが行われた208年のその年に、

曹操の子の曹沖が病気で亡くなっている。


曹沖は環夫人から生まれた曹家第8番目の子で、

僅か13歳で亡くなってしまったが、

この子が余り現代一般に有名でないが、

とにかく凄まじいばかりの超天才児だった。


例えば或る時、孫権から象が贈られて来て、曹操がその重さは

どのくらいだろうかと、

周囲の者達に振って見たが誰も答えられなかった。

しかしそこに曹沖が、

「象を船に乗せ、重さで沈んだ船の喫水線のところに印をつけ、

その後象を下ろし、またその線と同じ高さに船が沈むところまで

船の中に重しを乗せていけばわかる」と、

瞬時に答えてしまったという。


詰まり彼はほんの年少の身で、

アルキメデスの原理を自力で発見したことになる。


人格的にも大変素晴らしく、

彼はもしそのまま長生きしていれば孔子や孟子、

あるいはその孔子が“聖人”と崇めた周公旦といった、

彼らと同じ列伝に並べられる様な、それくらいの人物だったろう。

まさに救世主。


曹操はこの幼い曹沖を溺愛した。

曹沖は卞夫人が生んだ曹丕・曹彰・曹植らとは別腹の子で、

上の3人はそれぞれ、

どこか父である曹操と良く似た性質を持っていたが、

この曹沖ばかりは全く曹操と似ていなかった。

曹丕は曹操の、暗く陰湿な側面を持ち、

曹彰は豪胆だが粗野、

曹植は芸術肌で、その点は曹操からも可愛がられていたが、

ただ一国の君主としては破滅的でとても危うい。

しかし曹沖にはそうした欠点が一切なく、

全てが完璧だった。

だだ残念なことに唯一つ、天はこの少年に長い寿命を与えなかった。


曹操は曹沖が亡くなった際、曹丕に対し、

「倉舒(曹沖)の死はわしにとっては大きな悲しみだが、

お前にとっては喜びだろう」と言い、

曹丕もまた自身が皇帝になった後、

「仮に、亡き兄の子脩(曹昂)が生きていたとしても限界があっただろうが、

もし倉舒が生きていれば、

私が天下を支配をすることなどとてもできなかっただろう」と語るほどだった。


その曹沖が、

赤壁の戦いが行われた208年度中に危篤状態に陥り、

そして年内の内に病死してしまう。

曹操は八方手を尽くして何とか曹沖を救おうとしたが及ばなかった。

(実は208年のまさにその年、曹操は自らの典医で神医とまで謳われた

名医の華佗を自分の手で殺してしまい、

曹沖の治療に用いることができなかった)


208年は曹操にとってそういう年だった。


と、それと、

曹操という人間は、結果を早く欲しがる。


これはもう彼の性格なのだろう。

先ず大丈夫だとわかっていても、それが絶対でなければ安心できない。

曹操は孫子の兵法書の権威だが、

兵家とは元来が慎重で、そして臆病な性格でなければならない。


だから袁紹などと比べても曹操の性格はよほど小心で繊細、

ナイーブでデリケートだ。

対して袁紹は大胆不敵。

というより鈍いと言ったほうがいいかのも知れないが、

要するに目の前の危険に対して鈍感だから、

万が一大敗の恐れのある官渡の戦場へも、

それを恐れずにホイホイと出兵していくことができてしまう。

しかし曹操はその逆だ。

物事に慎重で、しかも兵法の専門家だけに戦さの先の展開までが

自分で読めてしまう。

だから勝てる勝負はいい。

しかしどちらに転ぶかわからない様なバクチに対しては、

とても落ち着いてジッとなどしていられなかった。

だから最後まで待ち切れず、直ぐに自分から結果を求めて動いてしまう。

そして確実な安心を得ようとする。


だから曹操が赤壁の出兵を焦った最大の理由も、

それは彼が、

1~3年の間、待ってまた大陸の情勢がどう変わるかもわからないといった、

そのことに対して脳裏をよぎる、一抹の不安からの行動だったのではないか。

今はいい、

しかし時間がたったその先の未来に於いては・・・、

また何が起こるかわからない。


で、これは、

嘗て呂布と濮陽城での戦いの時に、

或る時曹操は城内の田氏の手引きにより、

城の中に入城する機会を得ることができたのだが、

しかしそれは実は敵の詐略で、

城内へと突入した曹操はその中で呂布の待ち伏せに遭い、

曹操は危うく命を落としそうになった。

ただこの田氏の詐略云々は『献帝春秋』の記事で

本紀の記事ではないのだが、

後の赤壁の戦いの際の、黄蓋の寝返りの件とも合わせて考えてみて、

そのときもやはり、

曹操軍は敵を攻めあぐねて事態の先行きに大きな不安を抱えている状況だった。

だから官渡戦での許攸の投降も、もしそれが史実とは逆に偽りで、

周囲の参謀達が危険だと助言していたとしても、

曹操は構わず受け入れていた可能性が非常に高い。


だから結局全部一緒なのだ。

結果として官渡の戦いの際の許攸の投降が本当だっただけで、

曹操自身は別に、彼にとって自分に都合のいい判断を選択したにすぎなかった。


また漢王朝からの簒奪にしても、

曹操自身は「私は周の文王たれば良い」と、自らは魏王止まりで、

皇帝にまではならなかったが、

だが嫡子の曹丕が後に皇帝となるための一切のお膳立ては、

曹操が生きている間に全部自分でやってしまっていた。

しかし全部自分でやっていて「私は周の文王で良い」だなどと・・・、

結局は同じことだ。

だからこの件に関しても曹操は、

とにかく自分の生きているその間の内に、そこはハッキリとさせたい。


曹操は荊州を手に入れたことで、彼のその時に於ける天下制覇も

ほぼ確実となったが、

それはまた呉国内でも同様で、

だから重臣一同らは皆、魏への降伏論で纏まっていた。

そんな状況だったので、

もし曹操が大軍を率いて出ていけば、恐らくもう戦争もせずに、

向こうから降伏を願い出て来る可能性は非常に高かった。

それならば・・・、

むしろ自分がここでもう一押し、

自ら大軍を連れて呉国内へと乗り込み、直接的なプレッシャーを掛けることで、

それが相手の降伏を一気に促す決め手となるのではないか?と。

曹操としてはその様な考えだったのではないか。

遠征はだから飽くまでそのための示威行動として、

実際の戦闘まで考える必要もない。


ところが意外に孫権は抵抗してきた。

しかもまた、戦況は彼の優秀な参謀達が助言した通りに、

どんどんと怪しくなっていった。

合戦をしても敵の陣地は頑強で突破できず、

そして悪いことに深刻な疫病までが蔓延して兵士達の多くが倒れ、

もはや戦争どころの騒ぎでさえ無くなって来てしまう。

年末に曹操はもはや、自身の遠征の失敗を悟ったであろう。

しかしタダでも帰れない。

が、そこにポッと、黄蓋が降伏を願い出てきた。


曹操は“ああ、これでやっと帰れる”と思ったに違いない。


もしかして詐術の可能性がないとはいえなかったが、

しかし遠征を切り上げるための口実として、

曹操にとっては非常に欲しいところだった。

だから受け入れた。

初めの合戦で周瑜に敗れてしまっていたため、

そのまま引き揚げた場合、赤壁への遠征は唯の負け戦さになってしまう。

しかしそれも黄蓋の降伏で何とかチャラに戻すことも可能なので。


赤壁の戦いはド派手な戦争も去ることながら、

複雑に絡み合った様々な人達の人間ドラマが面白い。


例えば呉の重臣筆頭の、張昭の存在。

彼は降伏派の先鋭だったが、

当時の状況を踏まえれば、彼の主張した降伏論は決して間違いではない。

戦略的に見たってそれは変わらない。

最終的に曹操自身の判断ミスで、

呉は奇跡の大勝利を得たが、元よりそれは相手の動向に左右される問題で、

そうした希望的観測を勝手に都合良く、

自分達の外交戦略に取り込んで考えるようなことは、

これは最も避けなければいけない行為だ。


そしてまた、

さらに言えば主君の孫権に対し降伏を勧めたその張昭の真意として、

逆に自分達のほうから進んで降伏してしまうことで、

これまで長く続いて来たこの大陸の戦乱そのものを、

そこで終わらせ様としていたのではないのかと、そう考えることだってできる。

“もうそれでいいじゃないか、どうせ孫権ではダメだ”と。

張昭は本気で孫権のことを嫌っていたし、

孫権もまた本気で張昭を嫌っていた。

両者の関係は別にどこも微笑ましくも何ともない。


が、

そこに今度は魯粛が出てくる。

孫権にバッテンを付けた張昭に対し、

魯粛は曹操にバッテンを付けた。

曹操はそれまでも多くの失敗を重ねてきていた。

曹操では決して天下は収まらないだろうと。

劉表が存命中、自分からは絶対に曹操に降伏しなかったのも、

何れ曹操のほうから勝手にズッコケると、

そう見ていたからに違いない。(実際、赤壁でズッコケることとなったが)

だから決して自分達のほうから曹操に降ってやる必要など微塵もないのだと。


そして周瑜。

周瑜は孫権が魯粛から周瑜を呼べと言われ、

そこで初めて出てくる。

それまでは鄱陽の赴任地でずっと沈黙を保っていた。


そのために周瑜は彼の伝に於いて注釈を付けた裴松之から、

“周瑜は後から出てきて、この伝の書かれ方では丸で周瑜が魯粛の計を

盗み取ったようになってしまう”との指摘を受ける程で、

だからもし張昭の方針で国論がまとまり、

孫権もそれに同意していたとしたら、

もしかして周瑜は「ああ、そうですか」と、

そのまま降伏論に従っていた可能性だって無いとは限らない。

周瑜がもし先の張昭の考えと同じだったとしたら。

が、

結局、孫権本人から直接何とかしてくれと頼まれたため、

そこで初めて、周瑜は曹操軍に打ち勝つための計略を

孫権の前で披露することになったとか・・・。


そう考えていくと、

これまでの三国志演義のステレオタイプのシナリオが、

結構これは・・・・・。


ただ私は軍事戦略的に、赤壁の戦いがもし本当に、通説通りの、

圧倒的大軍を誇る魏に対し、呉軍が寡兵ながらも奇策を用い、

奇跡の大逆転劇を作り出したという戦いなら、逆に評価できない。

それはバクチなので。

別に占領されて皆殺しにされる戦争でもないのならば、

流される流血の量は少なければ少ないほうがいい。

軍事家にとっての戦争とは常に必勝、確信の戦いであるべきだ。


だから周瑜が行った魏との戦いも、

それは彼にとって“絶対に勝てる”という、確信の戦いだった筈だ。

呉軍にとって一番マズイのは、

官渡の戦いで沮授と田豊が袁紹に進言した如くに、

長期の持久戦の持ち込まれることだった。

だから荊州の占領を終えた曹操がそれ以上の進軍を止めて、

何もせずに都へと引き返していってしまえば、

その時点で終わりとなってしまう。


しかしそれが官渡の袁紹軍と同様、

曹操軍が短期決戦を急いで短兵急にそのまま軍を進めてきてくれるのであれば、

周瑜は官渡戦で沮授と田豊が危惧した予想とは逆に、

彼はその戦争に必勝の確信が持てることになる。


だから結局、周瑜は長江の南岸に軍船を並べて、

敵を待っているだけで良かった。

曹操が持久戦を選ばずに本国へも引き返すことなく、

赤壁へと軍をそのまま進めてきた、

その時点でもう、

両者の戦いの結末は決まってしまっていた。

即ち孫権軍の勝ちだ。


もし曹操がそれ以上、呉と江上の対決に持ち込もうとするのであれば、

直接力で撃退し、

また逆に何もせず曹操軍が荊州の地から軍を引き払ったとしても、

その場合は敵が背を見せて逃げ帰っていったという解釈が取れるので。(笑)


ただその場合にも結局、3年の後には逆転負けをされてしまうわけだが、

それでも孫権にとっては最初からただ何もせずに降参をするよりは、

そのほうが良かったという側面はあったかもしれない。




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[一言] 何故赤壁に軍を進めたか? 当時、河北は銅銭不足。深刻な流通不備により物々交換経済に退化しそうな勢い。 有力な銅の産出地である江夏郡南岸を早急に確保したかったから。 ちなみに漢中も銅の産出…
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